夢が終わるとき
あきカン
第1話
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
夜の薄暗い路地裏だった。雨が降っていて、表の人通りもそれほど多くなかった。
俺はその入口に立って、路地裏の奥をじっと見つめていた。
人影が奥に立っていた。黒いフードを被っていて、外見はわからない。体格も黒のコートを羽織っているからか、はっきりとはわからなかった。
よく見ると、フードの人物は右手にナイフを握っていた。月光に照らされてギラリと銀色の光を放っている。
さらに奥に、もう一人誰かがいた。フードの人物の隙間からうっすらと腕の先が見えた。
俺はその場に立ち尽くして、ひどく冷めた表情でその光景を見つめていた。何か叫んでいるような声が聞こえても、俺は目を伏せて、心を閉ざしていた。
記憶はそこで途切れている。
目を覚ますと、見慣れた天井があった。俺は決して届かないそこに右手を伸ばして、諦めて腕を下ろす。そして、舌打ちをした。
「なんて夢だ……」
今になって少しだけ罪悪感が湧いてくる。助ければよかっただろうか。
……どうやって? 相手は凶器を持っているし、襲われている相手が誰なのかもわかっていない。
けれど一番明確な理由は他にあった。
ふと我に返り、俺は違和感に気づいた。昨日、帰ってきた記憶がない。いつものようにバイトに向かって、ミスをして怒られて、うっぷん晴らしに酒を買って、そのあと……。
「俺、どうしたっけ……?」
必死に頭を抱えるが、何も思い出せなかった。
直後に畳の上に寝転がっていることに気づいたが、布団を出した記憶もないので、きっと酔ってそのまま眠ってしまったのだろう。
すると外の方から足音が聞こえて俺は飛び起きた。大家だ。家賃二万八千円のボロアパートの管理人で、しつこく家賃の催促をしてくる七十過ぎの婆さんだった。
俺は玄関前で出迎える準備をした。数秒後にガチャリと音がしてドアが開き、俺は「お、うっすと」と自分なりには精一杯声に出して頭を下げた。
「おはようございますだろうが……」
いつもは溜め息をつきながらそう言い返してくる。けれど今回は何も言われなかった。俺は安心して顔を上げると、婆さんはじっと俺の方を見つめて何も言わずに靴を脱いだ。
「相変わらず汚いね……」手で鼻を覆いながら婆さんが顔をしかめた。
二十代・独身・彼女なし・フリーター男の部屋なんてこんなもんすよ。俺は脳内ではそう言い返しながら、「はあ、すんません」と頷いた。婆さんは何も言って来ない。それどこから、ビニール袋を広げて床に落ちたゴミを拾い始めた。
どういう風の吹き回しなのか。俺は婆さんに向かって手を伸ばした。すると俺の手は、婆さんの背中をまるで何も遮るものがないように通り抜けていった。
「……え?」
俺は婆さんの身体を貫きながら声を上げた。触れない。感触がない、それにおそらくだが、声も聞こえていない。婆さんは俺の存在に気付いていない。
いや、違うか……。あの気難しい婆さんが、わざわざ掃除なんてするはずがない。
そして俺は、なぜ自分がそこにいるのかようやく理解した。
――俺は、死んだのか……。
あの夢は、単なる夢じゃなく、現実だったのだ。襲われていたのは俺で、俺は襲われている瞬間を見せられていた。
それに気づいた瞬間、俺は目の前にいる婆さんの姿が以前とは変わって見えた。顔を合わせると決して見せない婆さんの姿がそこにあった。
「まったく……こんなボロアパートに住む奴なんて、アンタみたいなやつしかいないんだよ」
ごめん……婆さん。
「家賃も、全然払わないくせにメシなんかよこして誤魔化すんだ……」
そこのタンスの中に、こっそり貯めてた十万があるよ。夜逃げするための資金だったけど、もう必要なくなったから、婆さんの好きにしていいよ。
「本当に……なんで死んじまったんだい⁉」
俺も、理由が知りたいよ……死んだら天国に行くんじゃなかったのか。いや、俺がそんな良い人間なわけがないから行くとしたら地獄なのか。
噂には聞いたことがある。未練を残した霊が、成仏せずに現世に留まるという話だった。思い当たる節は一つもないが。
俺はなんとなくその場から離れられなくて、婆さんの横で寝っ転がって再び目を閉じた。
***
また同じ夢を見た。夢の中でも思考は巡るものだ。しかし霊だというのに、身体は思った通りに動いてくれない。身体に当たる雨の感触すらも感じなくて、俺はまた、襲われている自分を茫然と眺めていた。
そしてまた、目を覚ました。見慣れた天井だ。俺はまだ成仏できないらしい。婆さんへの隠し事は他にもあるが、未練を残すほどのものではなかった。
ふと、あの夢のことが頭に浮かんだ。自分を殺した奴が誰なのか、それを見つけるまでは成仏ができないのだろうと俺は考えた。部屋の中にはテレビもないので、俺は外に出ることにした。
ドアには触れられなかったが、婆さんのときのことを思い出して、試しに腕をドアに向かって伸ばすと、するりと抜け出せた。今だけ俺は世界一の手品師だ。
そして、一階の婆さんの部屋へと向かう。朝はいつもテレビの音が外まで聞こえていて、今日も窓の隙間からたばこの煙が見えていた。
俺は部屋の前に立ちインターホンを押す仕草を見せた。
「宅配でーす」
俺は、郵便配達員のマネごとをしながら強盗よりも大胆に部屋の中に侵入した。当然、気付かれることはない。婆さんはダイニングでテレビを食い入るように見つめていた。その眼が何かを叫んでいるように見えて、俺はテレビの方に視線を向けた。
テレビには、俺がよく通る通勤路の映像が映し出されていた。画面右上には、『殺人事件! 犯人は逃走』と大きくテロップが表れていた。朝方の大通りの路地裏、数人の警察官がそこにいて、通行人も騒然としていた。
婆さんはたばこを灰皿にぐりぐりと押しつけて、テレビを睨みつけた。
やっぱり犯人を見つけないと、俺は成仏できない。しかし現場に行くのは億劫だった。どうして俺は死んだのか、そこに行けば理由がわかるかもしれない。しかし、親しい友人もいなければ親からも勘当同然の扱いな自分に恨みを抱くような人間はおろらく一人もいない。だから、きっとつまらないことで喧嘩にでも巻き込まれたのだろう。死んだ理由なんて、正直どうでもよかった。
俺は自室に戻って、もう一度あの夢を見ることにした。何度も同じ映像を見ていると、一瞬一瞬が間違え探しの写真のようだった。巻き戻して見ることはできないため、一フレームごとに神経をとがらせる。
しかしわかったことはほとんどなかった。それから何度か試してみたが、犯人の手がかりは何一つ得られなかった。奇しくも疲れは全くない。幽霊なのだから当然だが、悔しくて叫び声をあげても誰も何も言って来ないのは、こういう時だけ心に響く。
やっぱり、現場に行くしかないのか。俺は憂鬱な気持ちを抱えながら決心した。
現場は自宅から十分くらいの距離にあった。俺はなんとなく人を避けながら現場へと向かった。
すでに現場は綺麗になっていて、警察官の姿はなかった。あれはきっと、再放送だったのだろう。奥に進んで、夢では見ることのできなかった、自分が殺された場所を見つめる。
ふと、俺の目に奇妙なものが映り込んだ。花瓶に花が添えられて路地裏にぽつりとお供え物のように置かれていた。優しい人間もいるものだと俺は思った。見ず知らずの人間の死んでも、花を添えてくれるような人間がまだいたらしい。
しかし、それでも成仏することはできない。やはり犯人が見つからないといけないのかと諦めかけていると、真横から誰かが通り過ぎた。そして、バリンとガラスの割れる音が響く。
「あ、やべえ!」声をあげたのはランドセルを背負った子どもだった。振り返り、割れた花瓶を見つめると、視線を前に戻して走り去っていった。
俺は、じっと花瓶を見つめた。花が死体みたいに横たわっている。
俺は、思わず拾い上げようとして、咄嗟に手を止めた。
「俺、もう死んでるんだったわ……」
何度も味わってきた感覚だが、今が一番そのことを実感していた。腹も空かないし、眠くもならない。こんな時でも、涙も出ない。何が理由かもわからないまま、死後の世界をさまよい続けるのかもしれない。
すると、真横から息を呑む音と、カツカツと靴音が聞こえた。誰かと思って振り返る間もなく、見知らぬ女が前の目でしゃがみ込んで、ガラスの破片を拾い出した。
「なんで……」俺は訊ねた。だが女には届かない。女はショルダーバッグを下ろしてぶつぶつと呟いた。
「なにか代わりになるものは……あ、あった!」
女は透明な容器をバックから取り出した。だが割れた瓶と比べると小さく、花は全部入らなかった。女は容器に一本だけ花を入れて、残りを袋に詰めて鞄の中に入れた。そして、手を合わせる仕草をして、ぶつぶつと何かを呟く。
「……また来ますね」
顔を上げて女は立ち上がった。そして、表の方に戻っていった。
俺は、わけがわらなかった。あんな顔の人間を見た覚えはない。会ったことも、話したことも一度もない。
ましてや、こんなことをされる覚えもない。
あの時、俺は殺された。きっと面倒事に巻き込まれたんだ。そうに違いない。
じゃあ、あの女は誰だ? 夢の中に、もう一人いたのか?
俺は、答えを知るため、その場で待つことにした。明日まで待つことになるかもしれないが、俺は幽霊だから、じっとしていても眠くはならない。そんなことを思って、何も考えず、じっとその時を待った。
そしていつの間にか、俺は目を閉じていた。
気が付くと、周りはすでに暗がりに包まれていた。俺は慌てて起き上がった。しかし、花と容器が置かれていた場所には、何もなかった。
気づくと、目の前から誰かが叫び声を上げながら、こっちに向かって走ってきた。女の声だった。女は踵の高いヒールを履いていて、ちょうど俺の目の前で頭から倒れた。その直後、表通りからフードを被った男がゆっくりと姿を現した。
「追いかけっこは終わりだ。リサ」
男は右手にナイフを持っていて、それを女に向けていた。女が、冗談じゃないわと大声で叫んだ。
女がハッと息を呑んだ瞬間、奥に人影が見えた。夜の暗闇で、誰だかはわからない。ただ、目元だけがはっきりと浮かんでいて、そいつが何を思っているのか、俺はすぐにわかった。
そいつの虚ろで死んだような目は、世界に絶望していた。目の前でこんなことが起こっていても、他人事のように、あるいは別の世界の出来事かのように、見下していた。
「おい、お前! 助けろよ!」俺は大声で叫んだ。「なんで動かねえんだ! おまえ……目の前でこんなことが起こって、何もしねえなんて……俺と同じ、クソ野郎じゃねえか!」
女が助けてと叫んだ。そいつに声をかけているのか、しかし男は気にしない様子で、女にナイフを突きつけた。
「俺に反抗するからだ……リサ、これはその報いだ」
「いや……やめて!」
男が女に襲い掛かる。俺は思わず飛び出した。もし、自分の肉体が此処にあったら、この
女性の前に立ち、俺は両手を広げた。そして、女性の叫び声が聞こえて、俺はゆっくりと目を開けた。
じん……。
胸のあたりに、強烈な違和感が走った。
「……ッ!」と声を上げると、なぜかさっきよりも耳に響いた。
俺は、ゆっくりと目を開けた。すると、胸のあたりに血に濡れたナイフが突き刺さっていた。
それは間違いようのない、俺の身体だった。
「なんだテメエ!」
男が声を上げた。俺はにやりと笑みを浮かべて答えた。
「ただの幽霊だよ!」
そうして、俺は男の頬に右ストレートをお見舞いしてやった。男は地面に倒れると、起き上がってナイフを放り投げ、クソっと叫びながら逃げ出した。
「ははっ、ざまあみろ!」俺は勝ち誇った笑みを浮かべて、直後に体が急激に冷えだしたことに気づいた。足の力が抜け、背中から地面に倒れる。
「ねえ、ちょっと……しっかりして!」声をかけてきた女性に気付いて俺は目を開けた。しかし、視界はすでにぼやけていて、うっすらとした輪郭しかわからない。
「大丈夫、おれ……幽霊だから」
「ユウレイ……さん?」女性は困惑した表情を浮かべながら叫んだ「でも、どうしてこんなこと……!?」
俺は、だってと掠れた声で答えた。
「こんな俺にでも、優しくしてくれる人がいるから」
アパートの婆さんや、俺に花を供えてくれた人。世界は相変わらずクソだけど、こんな世界にも、死んだ俺のことを想ってくれる人がいる。
「ユウレイさん! ユウレイさん!」
女性の声が遠くなっていく。胸の痛みは、もうほとんどない。
これもまた夢なのかもしれない。俺が作り出した、都合のいい……。けど、それでいい。あの時できなかったことを……俺はいま、やれたんだから。
未練はないと思っていた。実際なかった。きっと、この瞬間のために俺はこの世に留まった。あの夢は、この瞬間のためにあったと、今ならいえる。
ようやく、成仏できる。いや、まだ一つだけ……あるといえばある。
――もう一度、俺に花を供えてくれた……彼女に逢いたい。
夢が終わるとき あきカン @sasurainootome
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