流れつく空ろ舟
葛西 秋
前編
あの夢を見たのは、これで9回目だった。
古い衣服を身にまとった女性が砂浜に立ち尽くしている。その視線の先は鈍色の海の彼方に向けられているが、何を見ているのかは分からない。もしかしたら何も見えていないのかもしれない。
鉛色の雲が海の彼方から陸の此方へと次々に運ばれてきて、その雲の速さに見合うだけの強風が砂浜に吹きつけている。
女性が身に着けているのは着物のようで着物ではなく、上衣と裳に分かれた着物以前の上代の衣服だった。風に乱された髪には漆塗りの竪櫛が置かれ、耳朶には金細工の耳飾りが揺れている。
高貴な身分であることには間違いがない。王族の末裔か、貴族の娘か。
でもなぜこんな辺境の地に、都の王宮に住まうような女性がただ一人で立ちすくんでいるのか。
声を掛けようとして顔面に吹き付ける砂交じりの風に視界を失い、近づこうとして踏み出した足は砂に埋もれていく。もどかしさは焦燥を煽り、まるで恐怖にも似た強迫観念が私の頭の中を吹き荒れる。
――貴女は、いったい誰なのですか。
※
今回の夢の切っ掛けは自覚できた。
昨日出向いた角川武蔵野ミュージアムで見た一幅の掛け軸だ。荒俣宏氏のコレクションが陳列されている一角にその掛け軸はある。
掛け軸の中心に描かれているのは天女のような装束を身に着けた若い女性である。その下には夫婦であろうか、老翁と老媼が女性に向けて両手を掲げている。
驚いているのか、尊んでいるのか。
女神を崇拝する庶民の絵としてみれば珍しい構図ではないように思えるが、この絵を特異なものにしているのは描かれた人物たちがいる場所である。
老夫婦は砂浜に、女神は波の上に、つまりこの絵は海を背景にして描かれているのだ。波の上にいる女神は小さな船に乗っている。人一人が身を屈めて乗るのに精いっぱいの小さな小さな船である。これは空ろ舟であるという。
コレクションの持ち主である荒俣宏氏がこの掛け軸のどこに興味を引かれたのかは展示には説明されていない。だが「空ろ舟」という女神が乗っている乗り物については古今、多くの人々の興味を掻き立ててきた。
曰く、UFOではないか、描かれた女神は地球の外からやって来たのではないか、あるいは時空を超えて訪れた未来人ではないのか云々。
想像力を宇宙や時空の果てにまで飛躍するよりも、私の目は掛け軸に描かれている文字に釘付けになった。
――蚕影山大神
空ろ舟に乗り波間を漂うこの女神は、養蚕を守護する養蚕神なのである。
流れつく空ろ舟 葛西 秋 @gonnozui0123
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