あの夢を見たのは、これで9回目だった。(KAC20254)

小椋夏己

カウンセリング


 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 小坂医師はその言葉を無表情にカルテに打ち込んだ。


 この言葉を打ち込むのも9回目だ。もちろん8回目の時には8回目、7回目の時には7回目と打ち込んでいる。


「その時初めて、その影が女性らしいということが分かったんです」


 男性は小坂医師が聞いているかどうかも確かめずに続ける。


 ここは小坂医師の心療内科の診察室。診察を受けている高齢の男性患者は、日本でも一位、二位を争う大手商社の伊東会長だ。


 伊東会長は伊東グループを一代で築き上げた大立者おおだてものとして広く世間に知られている。戦後日本の焼け跡の中、戦災孤児になって靴磨きからコツコツと金を貯め、やがて小さな店舗を持つところから始め、どんどんと支店を増やして大きくし、今では世界中に拠点を置く総合商社のトップだ。その立身出世話は何度かドラマになり、やドキュメンタリーとして取り上げられたこともある。

 もっとも、近年の世界的不景気であまり業績がよくないともいう噂もあるが、今のところは揺るぎない経済界のドンの一人であるのは間違いがない。


 その伊東会長本人から小坂医師に連絡があった。


「あなたは本場アメリカでカウンセリングを学び、多くの人を救ってきたと耳にした、私の相談に乗ってくれないだろうか」


 突然そんな有名人から連絡が来たもので、小坂医師は驚くしかなかった。


「それは困っている患者さんがいらっしゃるならできることはさせていただきますが、でも伊東会長ほどの方なら、立派な主治医がいらっしゃるのではないですか?」


 小坂医師は少し腰が引けて思わずそう言ってしまった。もしかしたら詐欺ではないかとも考えたが、きちんとした筋からしっかりした人を通しての依頼なので間違いはない。


「いや、ぜひとも小坂先生にお願いしたいのです。この世界では先生ほど間違いのない方はない、そう伺っておりますので」


 伊東会長は年齢の割にしっかりと、はきはきした口調ではっきりそう言ったので小坂医師は断ることができなくなり受け入れることになった。


「この度はお世話になります」


 会長は90歳を超えた今も、かくしゃくとしてグループの相談役を務めている。さすがに杖をついてはいるが、腰もほとんど曲がっておらず、健康的にピンク色を帯びた頭皮を透かす白髪をたたえたその姿は、確かにメディアで目にするその方に間違いがなかった。話によると目も耳も確かで歯もすべて自分の物だという。

 

「それではお話を伺いますが、まずは座って。どうして私にカウンセリングを依頼なさったのか、そのあたりを聞いてからということで」

「分かりました」

 

 会長は付いてきた秘書に呼ぶまで席を外すようにと言って診療所の外に出し、室内には伊東会長と小坂医師の二人が残る。本来なら今日は休診日なのだが、内密でお願いしたいとのことで、こういうことになった。


「夢を見るんですよ」


 よくある話だ。同じ夢を繰り返し見る、どうにもひっかかる夢を見る、怖い夢を見る、そして誰かを殺す夢を見る。患者の多くはその夢に不安を感じて相談してくる。


 小坂医師はノートパソコンを開いて伊東会長の話を書き込んでいく。個人のカルテを作り、そこに相談内容を大まかに書く。それから細かい話を聞いていくのだ。いつも患者にやっている方法、大会社の会長だからといってその部分は変わることもない。どの人も同じ人だ。


「どのような夢ですか」

「ええ、おそらく人だと思われる何かがこちらに近づく夢です」


 これもよく聞く話だ。不安が大きくなるに従って夢に登場する何かが近づいていくる。


「これまでに同じ夢を9回見ました。おそらく次の10回目では相手の顔がはっきり見えるぐらいまで距離を詰めてくると思います。ですから、その前に先生に診ていただき、できればそれを避けたいのです」


 なるほど、不安が解消されれば夢の続きを見なくなる、それもまたよくある症状の一つだ。


 小坂医師は他にもいくつか質問をし、伊東会長もそれに答えていく。しっかりした方だ、この年齢ならせん妄が入ってそれを夢だと思い込む方もあるのだが、そうではないようだ。


「大体の流れは分かりました、では詳しく見ていきましょうか」


 小坂医師は伊東会長を使い込んだ寝椅子に横になるように促した。カウンセリングの時にいつも使用するもので、かなり年季が入っている。会長は言われるがままにその寝椅子に横になった。

 本当ならこんな偉い人にこんな寝椅子は失礼になるのだろうが、患者に上下も貴賎もないと、小坂医師は自分に言い聞かせる。


「では軽く睡眠状態に入ります。こちらを見てください」


 伊東会長は寝椅子から左斜め前に座っている小坂医師に視線を移す。ペンライトの先に光が灯っている。


「いいですか、これをじっと見て視線を動かしてください」


 小坂医師は右手でゆらりゆらりとペンライトを動かし、同時に左手に持ったペンで自分が座っている椅子を叩いた。


 こつん、こつん、ゆっくりしたリズムに引き込まれ伊東会長は眠りの中に入っていった。


 


 


 

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