続・皇帝陛下のバカヤロー!~その船を漕いでゆけ、そっちの石は置いていけ~

ミド

蒼褪めた海の夢

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 ゲシュターデ海――さほど鮮やかでも美しくもない、ニコラスにとっては見慣れた故郷の海――を進む船の夢だ。もっとも、夢の中で彼が海を見ることはない。ただ身動きが取れないまま、船内まで聞こえる波の音と漂う海の匂いを感じ取るのみである。


(何度見ても、棺の中で蘇った死者、或いは生きたまま埋葬されつつある者になったような気分になる夢だ。)

 ニコラス・フォン・ステンボック騎兵大佐は町を見下ろせる小高い丘へと続く道を歩きながら、そう心の中で呟いた。彼の後ろから副官ヘルマン・シュトラッセが付いてくる。

 丘を登り切った彼が振り向くと、城壁の内側にオレンジ色の屋根と白い壁の直方体の家々が並ぶ、美しい街並みが見えた。その先には港があり、多くの船が停泊している。

 ここはヴァルナ。ギラ、レヴァルに並ぶゲシュターデ地方第3の大都市である。その貿易港としての機能はゲシュターデ地方のみならず、国土の実に北半分が海に面していながらその大半が国外との貿易港に適さないという悪条件にあるクラシヴィ帝国にとって古くから重視されてきた。

「しかし……この丘に登る必要、ありましたかね? 大佐殿が見たのは、ゲシュターデ海の夢だった筈では」

 ヘルマンは首を傾げた。彼らはニコラスの見た夢が、探すべき「ギラの聖柱」の欠片の次なる在処である可能性に賭けてヴァルナにやって来たはずだ。もっとも夢の中の視界は常に閉ざされているため、何処から来て何処へ行くのかは、時折耳に入る船員の声が頼りだ。仮にニコラスが彼らの発言を誤解していたら徒労に終わる。

 しかしニコラスは感慨深げな様子を崩さず、町を眺めながら答えた。

「風情のない事を言うな、お前も騎兵なら、士官学校の先輩に連れられて来たはずだぞ。クラシヴィ帝国軍士官たるもの、この町に来て一番にすることは、丘を登って『戦碑』を見ることだ。……それに、この碑もいずれ政府により『クラシヴィの恥の歴史であり、不名誉の碑をいつまでも残す必要性はないと判断』されて撤去されるかもしれんだろう」

 ヴァルナの丘に建つ『クラシヴィ帝国戦碑』は、今から150年前、当時のデンネラントとの戦争の最中に建てられた。その名のとおり合戦に手酷く敗北したクラシヴィの皇帝ドミトリ1世が、その恥辱から立ち直り、クラシヴィを強国にする為の誓いとして建てた碑である。

「流石にそんなことはないでしょう。敗北から目を背ければ同じ轍を踏み続け、轍は踏めば踏むだけ抜け出し難くなると、士官学校で最初に学ぶではないですか」

「少なくとも我々軍人は学ぶが、どうやら忘れる者も多いらしいと3年前の東方での戦争で思い知らされた。加えて、政府官僚がそれを学んでいるとは限らん。皇帝陛下も含めてな」

 ニコラスの頭には、言った傍から最新の敗北の歴史が鮮やかに蘇っていた。帝国の植民地を得る為の近隣国との戦争は、クラシヴィ帝国の軍隊にとっては実に無様な結末を迎えた。運命の会戦のあの日で司令官が誤らなければ……いや、勝敗はより早くについていたようなものか、あの雪の中の奇襲戦で突撃命令を下すよう進言していれば、或いは塹壕戦が始まったのが間違いであったか……幾度反芻したか、最早思い出せない。

「やれやれ、この碑を破壊なんてしたら、それこそドミトリ1世が化けて出ますよ」

 副官の言葉でニコラスは我に返った。過去を取り返すことはできない。未来に勝ち直すことはできる。その為には参謀本部で物が言えるように出世しなければならない。よって今彼に必要なのは昇進のかかった石柱の破片を見つけ出すことだ。出世、出世、出世。天にまします天使長ミハイルとデンネラント王エリック6世よ、願わくば参謀本部への推薦せしめたまへ。お願いしますこのとおり。彼は頭の中で繰り返した。

「大帝ドミトリの降臨か。もし現れたなら、現在のクラシヴィ帝国を見てどう考えるか尋ねてみたいものだな。……さて、そろそろ港に行くか」

 彼らはそうして丘を下り始めた。


 ニコラスとヘルマンが船着き場に到着すると、一隻の貨客船を前に三人の人物が諍いを繰り広げていた。乗客二人と、船員一人である。

「お客さん、さてはあれかい、この頃流行りの土壇場キャンセル界隈ってやつかい!」

 船員が怒りに任せてそう叫ぶのを聞いた陸軍の男達は小声で囁き合った。

「……『どたキャン』というオペレッタが流行ってる話か?」

「そんなわけないでしょう」

 とぼけたやり取りはさておき、探すべきは「ギラの聖柱」の欠片である。ニコラスは辺りを見回した。そこに色鮮やかな羽が舞っていれば、欠片はあるに違いない。

 彼はつい最近まで超常現象の存在を信じたことが無かったが、欠片探しはその信念を揺るがせた。第一の欠片の見つかったオネガグラードに始まり、第二、第三の欠片を見つけたきっかけも、場違いに美しく彩られた、正体不明の鳥の羽根であった。望むか否かは別として、今はこの奇異な現象に頼らざるを得ない。

 そして今も、まさしく目の前で言い争う三人の男の先に停泊している船の窓に、橙色の輝きが見えている。この船の何処かに石柱の欠片があるのだ。そうとわかれば、船内に乗り込み、持ち出さなければならない。

 だがニコラスが勝手に船内に立ち入って騒動を起こすのは望ましくない。石が誰かの所有物であれば、譲ってもらうべく交渉の必要がある。そもそも、渡航者でない彼が船内に入るには相応の理由をつけるなり何らかの方法で許可を得なければならないが、それにあたっては、目の前で起きている男達の揉め事は上手く利用できる可能性がある。ニコラスは彼らに声を掛けた。

「諸君は何を揉めているんだ?」

 先に反応したのは船員であった。

「旦那、全くおかしな話ですぜ。このド・ヴィーユとかいう御人ときたら、お手配を早々に済ませてやたら重い箱ばっかりの随分な大荷物をお預けになって、ご本人とお連れ様が揃っていざ出航ときた今日になって突然、嫌な予感がするから乗船を取りやめて荷物も全部引き上げたいと言い出しなさるんだ。こんな雲一つないお天気で、何を恐れることがあるんだか」

 船員は顎をしゃくってド・ヴィーユなる人物を指した。ニコラスはまじまじとこの人相を隠すかのように帽子を深く被った瘦身の男を眺めた。そして気づいた。彼とは面識がある。

「なんと、ゴリニツィン伯爵ではないか! こんなところで会うとは奇遇だな。最近お会いできていなかったが、大荷物で出航とは、もしや異国に転居されるのか?」

 ニコラスとゴリニツィン伯爵とは紳士クラブで出会った間柄であった。彼は神か悪魔を味方に付けたかのように賭博に強い男で、彼に勝負を挑んだ者は散々な結果に終わることの方が圧倒的に多い。ニコラスも一度痛い目を見た経験がある。とはいえ、賭博相手にさえしなければ魅力的な紳士であり、付き合いも多く、ニコラスも彼を好意的に見ていた。

 ゴリニツィンは帽子を取り、船の窓を忌々しそうな表情で見た後に軽く被り直した。そしてニコラスに言葉を返した。

「これはステンボック男爵。久しぶりだな、ご覧のとおり私は引っ越しの最中だ。故郷クラシヴィを愛していないわけではないが、西方で文明の結晶に囲まれながら人類の行きついた先を眺めたくなってね」

「その隠者めいた口振りも相変わらずだな」

「旦那様、旦那様。お忘れになっちゃあいけねえや。技術と文明の国ルビオンに渡航するにも、このままじゃ船に乗れねえんだ。何しろこの船はわれてるんだからな」

 もう一人の乗客、ゴリニツィン伯爵の従者がそう口を挟んだ。ゴリニツィンは軽く溜息を吐いた。

「ステンボック男爵、コーヒーを一杯ご馳走させてくれないか」

「おお、それはありがたい。私も聞いてもらいたい話がある」

 二人の貴族は早速歩き出した。それを追って、それぞれのお付きの者もついて行った。

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