真実の愛でなくとも解呪できる

石衣くもん

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。今年に入ってから。

 中学生の頃から見始めたわけだが、起きた時に「内容は忘れたけど、なんか嫌な夢みたな」とはっきり覚えていない分を含めたら、今まで恐らく100回は超えている。


 端的に言えば、飛行機が落ちる夢である。

 自分が飛行機に乗っていることもあるし、落ちてくる飛行機を見ていることもある。自分はおろか、人間は誰も出て来ずただただ飛行機が墜落するパターンもある。


 とにかく飛行機が落ちるのである。基本的に分類するなら悪夢と言って差し支えなく、あまりにリアルな内容の時には飛び起きたことが何度もある。とはいえ、私自身は飛行機に乗ったことはほぼない。幼稚園の頃に家族旅行で乗ったことがあるらしいのだが、勿論そんなことは覚えていない。

 

 高校生の頃、あまりの頻度でこの夢を見るので、占いに詳しい友達に相談した。あの頃はインターネットが普及して漸く一般化し始めたというか、玉石混交の情報の中から玉を探すリテラシーが今よりふんわりしていた気はする。だから、自分で調べるより詳しい子に聞いた方が正しい情報を得られると思ったのだ。よく考えれば、その子が手にした情報を聞いても、それが玉か石かなんて判断できなかったわけなのだが。


「あのね、その、言いづらいんだけど……」

「えっ、なんか病気とかの前兆とか……!?」


 友達が首を横に振ったことに少し安心しながら「じゃあ何なの」と促せば、彼女はモジモジしながら


「欲求不満を表すんだって」


と言った。私も一緒に聞いていた友達も目が点になり、暫く気まずい無言が続いた。そして、言い出しづらそうに友達の一人が


「それってみっちゃんが、ただムラムラしてるだけってこと?」


と切り出し、占いに詳しい友達もさらに言いづらそうに「そうみたい」と頷いた。


 私の名誉のために先に言っておくが、今ネットで調べてもそれらしき情報は出て来ないし、基本的に「不安」や「現状打破」的な象徴として書かれているものが多い。シチュエーションによっても解釈が異なるような情報もあるので「飛行機が落ちる=欲求不満」というのは、嘘ではないのかもしれないが正しくはない。


 しかしながら、多感で思春期爆発中の高校生にとって「欲求不満」というのはパワーワード過ぎた。また、バーナム効果とプラシーボ効果も絶大であった。

 かくして、私は自他ともに認める欲求不満キャラとなったのである。


 「みっちゃん、彼が今度家に遊びに来ないかって言ってるの。どうしたらいいと思う?」

「のりこが乗り気なら行ったらいいんじゃない? でもムダ毛処理と可愛いランジェリーはマストだよ。あれだったら買い物付き合うけど」

「えーっ、まだ迷ってるけど、でも、買い物は念のため付き合って!」


 とはいえ高校生で、三次元の男にはあまり興味はなく、漫画やアニメのキャラが好きな私たちが思い描く欲求不満は精々、耳年増な子ども程度のものであった。やれ大学生の彼氏がいる子や、塾の社会人の先生とこっそり付き合っている子からしたら鼻で笑われただろうが、そういう子とは交流がなかったので、比較的グループの中で早めに彼氏ができてそういう行為も経験済の私は、欲求不満キャラからいつしか恋愛マスターみたいな立ち位置を確立していた。


 そして大学生になってからも、そのスタンスは変わらなかった。漫画やアニメが好きなのも変わらなかったので、漫画・アニメ研究会というサークルに入り、そこでは珍しい恋愛経験豊富な女として男女問わず同回生や先輩の相談に乗り、回生が上がれば後輩の相談にも乗り。そしてその延長線上で付き合ったり別れたり、身体だけの関係を許したりもしていた。


 陰口で恋愛脳とか、オタサーの姫とか、下品なことを恋愛の達人とはき違えてるなんてことも言われていたが、仕方ないと思っていた。

 なぜなら、この頃も飛行機が墜落する夢を何度も見ていたからだ。思えば一番この頃が頻度が高かったように思う。

 恐らく、そう言われるのがストレスだったのだと、今は思っている。

 しかし、当時は飛行機墜落の夢を見るのは、欲求不満なのだからそれを解消しなければいけないという免罪符になっていたのだ。いや、もう呪いと言っても過言ではなかったかもしれない。


 私は本当に飛行機が墜落する夢を見るのが怖かった。見たくなかった。

 だから、それを見ないように欲求不満を解消しなければ。その為には誰かと付き合って、性的欲求を解消し続けなければ。セックスしてもあの夢を見るのは、まだまだ解消できていないからだ。もっと、もっと、もっと。


 今振り返ると、たぶん私はセックスがそんなに好きではなかった。面倒くさいとすら思っていた。でもセックスが好きだと思い込んでいた。欲求不満を解消できるのはセックスだけだとも思い込んでいたからだ。


「みちこさんて、セックス好きじゃないですよね」

「……よくなかったってこと?」


 だから、大学3回生の頃のセフレの一人の立野くんにそう言われた時も意味がわからなくて、セックスの不満を言われているのかと思った。

 立野くんはバイト先で知り合った別の大学の一つ年下の男であった。どこか飄々としていてたまにドキッとする核心をついてくる、こいつ女を沼らせるタイプの男だなと警戒していた奴だった。告白されたが、その時は複数のセフレがいたので、特定の恋人を作るべきではないと思っていた時期であり、「セフレで良ければ」と持ち掛け、彼はそれを受け入れた。


「いや、強迫観念じみてるというか、しなきゃと思ってるだけでしたいと思ってないというか」

「意味わかんないけど」


 彼の言わんとしていることが読めずに、苛立ちが募ったのは、図星を突かれたからだったのだろう。でも、その時はわからなかった。いや、わからないふりをした。


「なんで好きでもないのにセフレ作るのか不思議で」

「だから! 私は気持ちいいことが好きなの! 欲求不満なの、今朝だって」


 飛行機が落ちる夢を見たんだから、と続けようとして言い淀んだ。立野くんにはこの話をしたってしょうがない。意味がない。私に不満があるのなら会わなければいいんだから。私にも他にもまだ相手はいるんだから。


「今朝? 何ですか?」

「いい、もう立野くんとはしない。さよなら」


 身支度を始めた私を立野くんは私を抱き締めた。


「離して!」

「なんで怒ってるんですか? 今朝何かあったんですか?」


 暴れる私を造作もなく抑え込んで、淡々と質問してくる立野くんに感情的に


「ただのセフレの立野くんには関係ないじゃん!」

 

と叫べば、立野くんは言質を取ったとばかりに


「じゃあ他の奴切って俺だけにしてくれます?」


なんて笑った。ますます意味がわからなくて子どもみたいに駄々をこねて彼の腕から逃れようとした。けれど彼は離してくれなかった。観念して、


「夢をみるの! 飛行機が落ちる夢! 欲求不満だから見るから、それを見たくないの!」

 

と、不貞腐れながら言えば、立野くんは小さな子供をあやすように手をトントンしながら


「なんで飛行機の夢と欲求不満が関係あるんですか?」


と聞くから、私は高校の頃に教えてもらったこと、最近はその夢ばかり見て辛いこと、どうすれば自分の欲求不満を解消できるかわからず困っていることを最後は泣きながら立野くんに訴えた。

 彼は相槌やオウム返しで聞き返すことはしても、話を止めずに最後まで聞いてくれた。


「それって本当なんですか?」

「何が」

「飛行機墜落の夢が欲求不満っての、俺は聞いたことないんですけど」


 彼はそこから少し難しい単語も出しながら、独りごととも私に話しているともつかない語り口で続けた。


「みちこさんの友達もわざとじゃないのが質悪いのかな、全員それを信じてる。そのせいで、みちこさんの中でそれが本当になってるでしょう。そもそも夢占い含め占いのほとんどはバーナム効果なんだから。そこにプラシーボみたいになってるのかな、『欲求不満だから見る夢』を見たから欲求不満になるみたいな。いや、それも違うか。欲求不満にはなってない、そうなってると思ってるだけ。そんなの、もはや呪いじゃないですか」


 彼は呆気に取られている私を抱きかかえたまま、その頃にはちらほら持っている人がいたスマホを引き寄せ、ポチポチ操作して、私にその画面を見せた。


「検索結果の一番上に出てきた記事ですけど。ストレスがかかった時に見るらしいっすよ。家族が飛行機に乗ってるとか、墜落しても死なないとか、シチュエーションによっては違うみたいだけど、欲求不満とかはこの記事にはどこにも書いてない」

「そんなわけ」


ない、と彼のスマホをひったくって、最後まで読んだけど、確かにそれらしきことは書いてなかった。それでも信じられなくて、何度も同じ記事を最初から最後まで読んでいると、彼はぽつりと


「最近その夢よく見るの、したくもないセックスをしてるからじゃないですか?」


と言った。

 その瞬間、呪いが解けたみたいに、すとんとその言葉が腑に落ちた。


「そうなのかな」

「そうですよ。これで他の奴切って俺だけにしてくれますよね」


 彼は嬉しそうに笑って言った。私はそれに頷いて、その日に残りのセフレとは関係を終わらせた。以降、セフレを作ることはなくなった。そして、今に至る。


「おはよう、みっちゃん」

「おはよう、りょうちゃん……また飛行機落ちる夢見たわ」


 そう言えば、夫のりょうちゃんは「僕はお花見する夢みたよ」と欠伸をしながら言った。私は昨日、一緒に見たテレビで遅咲きの梅が満開だというニュースがやっていたことを思い出し、その影響じゃないかと笑った。


 あれから10年ほど経った今でも、飛行機が落ちる夢をよく見る。今年は職場の部署異動があって、それからこの夢をよく見るようになった。やはりストレスが溜まっている時によく見るという、立野くんの見立ては正しかったのか。それとも、彼が私にかかったこの夢の呪いを上書きしてくれたのか。


 結局、立野くんとは私が大学を卒業する時、バイト先を辞めたタイミングで自然消滅してしまった。付き合った後も、私が彼の沼にはまることもなく、彼が手に入った私にのめり込むこともなかった。大きな喧嘩もなかったが、燃え上がるような恋にもならなかった。


 彼がいなければ私の人生はどうなっていたか本当にわからない。それくらいの恩人であることは間違いない。

 もう会うことはないだろうけれど、この夢を見た時は彼のことを思い出す。


 感謝と懐かしむ気持ちはあれど、立野くんへの未練はなく、愛しているのは今の夫だけだ。夫は彼のように、私が見た夢について真剣に取り合うこともなければ、ストレスを解消しようとすることもない。けれど、彼の呑気さが私を癒してくれる、そういう存在だ。愛おしく思っている。


 立野くんに、そういう感情を抱くことは付き合う前から付き合っている間も失礼ながら終ぞなかった。

 陳腐な言葉を使うなら、真実の愛ではなかった。


 だけどきっと、この先、この夢を見なくなることはないだろう。だから、彼のことは一生特別で、忘れられない存在なのだろう。

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