男爵令嬢トリシアは黒髪少女の転生チートに惑わされない

弥生 知枝

わたしを奮い立たせる声


 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 けれど、わたしが侵食されてゆく嫌悪感は、これで二度と味わうことはない。きっと。


 わたし――トリシアは、寝乱れた髪をざっと手櫛で整えると、染み付いた優美な身ごなしでフワリとベッドから降りた。




 ◇◇◇




 乳母の話によれば、わたしが2歳、4歳の同日同時刻に、火が付いたように泣いて、泣いて泣いて……翌朝に高熱を出すことがあったらしい。

 それは決まって、わたしの誕生日への日を跨ぐ瞬間だったから、乳母も家族もハッキリと覚えていた。




 夢の中。

 黒髪の少女が、大きな瞳をキラキラと輝かせて、歌うように言葉を紡ぐ。






『あなたのお母様は、もうすぐ亡くなるわ。そしたら、お父様はとぉっても甘くなるのよ! 面白みのない男爵家令嬢の立場や、堅苦しいマナーに縛られず、自由に伸び伸びと生きられるようになるわ』






 6歳からは、わたしの自我もしっかりして、その大泣きの正体を記憶に留めるようになった。今となっては夢の詳細までは覚えていないけれど、熱の下がったわたしは執拗に母親に纏わり付いた。


「おかあたま、いなくなるの、やっ! おびょうき、げんきないない、やっ!」


 舌足らずのたどたどしい言葉で、やたらと母親の健康不安を煽ったらしい。

 これは何かあるのかもしれないと、母と一人娘への溺愛の過ぎる父が、すぐさま医師を呼んで診察させた。すると、何の自覚症状も無かった母の身体に異常が見つかり、早期治療の甲斐あって根治することができた。






『あなたの婚約者は何の面白みもない、財産だけが取り柄の平民モブよ。男爵令嬢の貴女の方が立場は上だから、尽くす必要なんてないわ。けど程よく機嫌だけは取っておくのよ? 学園へ無事通える年齢になるまでの資金源としては、キープしておきたいもの』






 8歳のときは熱が下がった途端、それまで父が秘密裏に勧めていた裕福な商人の息子との婚約を言い当てた。


「お父様なんて大嫌い! お金がすべてじゃないわ。わたしはお母様を想うお父様みたいに、一途なお方と婚約しますの」


 言い切る娘に、両親は揃って言葉に詰まった。彼らは貴族の中では珍しく、政略ではなく恋愛による結婚をしていたのだ。更に母が一命を取り留めたことによって、二人はより深い愛情で結ばれることになっていた。思い合っての結婚の大切さを知る自分たちがなんたる思い違いを! と考え直したらしく、わたしの婚約話は立ち消えとなった。






『王城の建国記念パーティには、緑に映えて愛らしいコーラルピンクのドレスを着て行くのよ! パーティーに疲れて、庭園の生け垣の影に忍んでいる王子様に出会えちゃうんだから。それで、ここからが重要よ! 彼に話すときは、礼儀なんて気にしちゃだめ! 気取らずに、とっても親しく接したら良いわ』






 10歳で参加した建国記念パーティでは、渋る両親を説得して男性用の儀礼衣装を着用した。色もひっそり目立たぬアイビーブリーンを選んだ。だって、男爵家の一人娘が無防備に着飾ってパーティ会場に顔を出したら、爵位を継げない三男四男や、訳あり令息なんかが貴族位目当てで群がってくるから。そんなことになったら、打算だらけの婚約者をうっかり掴まされて、幸せとは程遠い人生を送ることになりかねない。

 けれど、それだけ思い切った対策をしていても、獲物わたしに気付いて纏わりつく令息や親もいた。それらを必死で躱して、疲れ切ってパーティー会場を抜け出した先で王子に出会ってしまった。令嬢や貴族家当主からのおべっかに疲れて逃げ出した、我慢の足りない王子様に。


「あなたは贅沢ね。貴族位底辺に位置する男爵家のわたしでは、権力財力にものを言わされたら抗うことなどできないのよ。わたしが逃げるのは身を護るため。けどあなたのは、疲れるから、面倒だからの我儘でしかないのよ。しゃんとしなさい!」


 一喝してしまった。そしたら、何故か王子の頬がコーラルピンクに色付いていた。思わぬところで、夢の語った色縛りが達成されてしまった。――なんだか気分が悪かった。






『御前試合は少し遅れて観に行くのよ! その時のドレスは、血を厭う騎士様の御心を和ませるシーグリーンが良いわ。熱狂する座席の間の通路をゆっくり歩いていけば、騎士団長令息様があなたを見初めるから』






 12歳では、自ら剣を取り、御前試合に参加した。二年前の男装以降、貴族の中でも立場の弱い男爵家を盛り立てるには、女といえど跡継ぎである以上強くあらねばならないと実感したから。それだけじゃない。わたしの人生に指図して、高位貴族の令息に擦り寄らせようとする「夢の少女」の理想からも遠のきたくて、令嬢らしさと真逆の「剣の道」に邁進した。今では、年齢別の縛りの中では、御前試合への参加が許されるほどの腕前になっている。

 剣技に自信を持ち始めたわたしは、ローズピンクのジャケットに、深紅のクラバットを纏った女剣士として堂々と会場に立った。わたしの登場に、観客席の令嬢令息から「トリ様ぁーー!」「いっけー! トリの降臨を見せ付けてくれ」「素敵ですわ! トリ様」「麗しのトリ!」と、歓声が上がり続ける。決勝のこの場の対戦相手は、武芸のサラブレッドである騎士団長令息なのにね。剣の英才教育を受けてきた彼は強いけれど、傲慢で融通の利かない性格が災いして周囲から疎まれている。


「貴方の持つ剣の才と、人知れず積み重ねてこられた努力が素晴らしいのには敬意を表しますわ。けれど、貴方には思い遣りの心が乏しい……それがこの歓声にも表れていますわ。人の心は力になります。一人きりの力では、乗り越えられない高き峻嶺しゅんれいをもひと飛びにする翼を与えてくれる。それをご覧に入れますわ」


 わたしの一挙手一投足ごとにあがる歓声。それに力を与えられる。彼は歓声に気圧されて、本来の力を充分に発揮することが出来ない。精彩に欠ける彼を、声援の後押しを受けたわたしが下した。辛勝ではあったけれど。

 彼は悔しがることもなく、憑き物の落ちた表情で、わたしの手を取って跪いた。そんな彼の行動に、会場中から歓声と悲鳴が上がった。……夢の女の思い通りに、見染められるのは嫌だけど、今の彼になら悪い気はしないかも、ね?






『ねぇ!? ちゃんと攻略してくれないと困るんだけど? あなたの人生なんて、ゲーム開始までのあたしの下準備なのよ?

 ついに始まるのよ、王立貴族学院の入学式から。あたしの最推し! 宰相の息子とやっと会えるわ。隠しキャラの隣国の王子も捨てがたいけど、出現条件が面倒なのよね。あぁ、そうだ。あなた娼館の前に張り込んで、フードで顔を隠した少年を捕まえてよ! 絶対よ』






 14歳のとき、わたしは学園入学と同時に騎士団への仮入隊が決まった。真っ先に取り組んだのは、夢の声を逆手にとった行動だ。騎士団の立場を活用して、娼館の裏家業の摘発を先導した。唯一の女騎士であるわたしが女性の立場を護りたいと言えば、説得力は大きかったし、何より騎士団長とその令息からの力添えもあったから。

 その甲斐あって、聖女誘拐の密命を帯びた隣国の王子を見付け、国外追放とすることができた!

 捕縛や事件の後処理で、すっかり遅れて参加することになった入学式では、堅苦しい新入生代表挨拶をしている宰相令息の晴れの場を騒がせてしまった。お陰で、夢の彼女が入れ込んでいる彼には、すっかり嫌われちゃったけどね。


「この王国を導く陛下のお力になれた誉を盾に、国を守る宰相様……の息子である貴方、様の……浴びるべき注目を攫ってしまったこと、申し開きもございませんわ。全ては、大きすぎる騒ぎを鎮める一助を担わなければわたし自身の立場が重要すぎて、入学式のために抜けることも叶わず、悪かったのですものね」


 人気のない廊下の片隅で、ご友人らを従えてわたしに淑女としての立場をご忠告なさろうとした宰相令息様には、こうしてちゃんとお詫び申し上げた。騎士団長令息サンディス様が、いつの間にか距離を置いた柱の陰にいらしたのには、さすがにギョッとしたけど。身体をくの字に折り曲げて震えながら「それは、謝ったとはいえんぞ」なんて、涙目で呟いていらしたっけ。それにしても、どうして彼とはこんなにタイミングよく出くわすのか……?






『いい加減退場してくれない!? 原作崩壊著しいんですけどぉ? あんた、もしかして……あたしと同じ前世持ちで、転生チートで逆ハー築こうとしてるあたしの邪魔してる? 消えずにあたしを陥れて、逆ザマァしようとしてる? そんな訳ないわよね、いつまでも男爵家なんかにしがみついて、イイ男の一人も捕まえないあんたなんて、トロくさいだけよね。

 良い? あんたの敵は聖女だけなのよ。だから、せめてあの女を何とかしなさいよ! あんたがぼやぼやしてるから、聖女がちゃっかり王子様を射止めちゃってるでしょ!』






 16歳では、夢の少女が執拗に執着する「聖女」と共に邪龍の討伐へと参加することになった。王国の命運を握る重要な作戦への選抜は、またとない栄誉だ。聖女は、わたしと同じく王立貴族学院の在学生で、この世で唯一「浄化」の力を持っている。それもとびきり強大な。

 彼女無くしては、王国の平和は無いのに、夢の少女はどうして彼女を目の敵にするのか……? まぁ、実態の無い夢の中の存在に、まっとうな考えがあるとも思えない。

 そんなことより重要なのが、わたしの体調だ。ここのところ熱もないのに頻繁に眩暈に襲われることが多くなり、気を失いかけて、必死に意識を凝らすことが増えてきた。武芸を嗜み、体力と集中力を高め続けてきたわたしだからこそ耐えられるけれど、ただのご令嬢だったら間違いなく前後不覚に陥って倒れている。


「わたしのことはお気遣いなく。聖女リリアンネ様は、王太子殿下と共に邪龍討伐のことにのみ、御心を向けてください」


 王太子とわたし、そして副騎士団長の地位を得ていたサンディス様以外、成人男性だけで結成された討伐隊で行動する1年の間、常々わたしを気遣ってくださるリリアンネ様とは自然と距離が近付き、親友の枠に収まった。わたしたちの仲は、サンディス様や、彼女の婚約者の王太子殿下が「嫉妬するなぁ」と茶化して仰るほどにね。

 そして遂に邪龍討伐を成し終えた。リリアンネ様は程なく王太子妃となり、王城へ上がられても、わたしを側近くに何度も呼び寄せて親しくさせていただいている。そして何度も同じことを仰る。「トリ様、貴女の中に別の何かが巣くっております。邪龍のように存在が害を成すモノではない気配なのに、トリ様にとって良くない感情を持っているようです。心当たりはありませんか?」と、心底気遣わし気に。


「知っております。幼き頃よりわたしの夢の中には、2年に一度、どうにも抗えないほど大きく声を発する黒髪の少女が宿っております。半年後の18歳を迎える瞬間に、また彼女の声は大きく響きわたしの心を乗っ取ろうとするでしょう。正直、彼女の声は段々と大きくなっていて、近頃では何をしていても常に小さく彼女の声がわたしの中に響いているのです」


 いつ、この身の自由を奪われるかもしれない不安と恐怖。18歳を目前に控えたわたしは、この焦燥感と諦めに似た感情に心を支配されつつあった。だから、討伐から無事に戻ってすぐにサンディス様から受けた婚約の申し入れを受け入れられずにいる。けれど、誕生日を翌日に控えた今日、彼に「トリシアを想う私たちの力を、高き峻嶺しゅんれいをひと飛びにする翼に変えて欲しい」と、いつかわたしが向けた言葉を告げられて、足掻いてみせよう、頼ってみようと決意できた。


「わたしの我儘に付き合ってくれてありがとう。今夜、きっと9回目の夢がやって来る。今度こそ、わたしひとりの力では耐えられないかもしれない」


 そう言えば、すっかり親友となった聖女リリアンネ様が、力強い笑みを浮かべてわたしの手を握り占めた。サンディス様も傍にいて、優しくも力強い瞳を向けて、わたしを見守っていてくれる。そうしてわたしは「わたし自身」の存在を賭けて、最後かもしれない眠りに就いた。






『いい加減にして! なんでストーリーを全部終わらせちゃってるのよ!! もぉ、これってエンディングむかえちゃってるわよね? それに、誰とも結ばれてないノーマルエンドなんて、信じらんないっ!! こんなつまらない結末なんかじゃあ満足できないわ、神様責任取りなさいよぉぉぉ』






 これまで以上に取り乱した黒髪の少女は、わたしを目の前にしながらも、「トリシア」の半生を詰る言葉を喚き続ける。わたしの存在をまるごと否定する強い言霊に圧倒されて、意識が遠のきそうになる――。






 けれど寸でのところで、別の存在が、わたしの意識を呼び戻してくれた。リリアンネ様の手のぬくもりと、夢の中にまで響いてきた「トリ!」と連呼するサンディス様の声。


「自分を磨いて成果に繋げ、切り拓いた道の先で道の交わった心の通じる仲間や愛する人と共に迎える人生。これ以上の幸福なんて無いと思うわ。わたしはわたし自身を誇らしく思う! 口先だけの貴女に、努力の末に掴み取った、わたしの誇りと大切な人とを貶す権利なんてない!!」


 夢の中でも手の平に、心に伝わる温かなぬくもりに気持ちを奮い立たせ、嘆く黒髪の少女に毅然と言い放つ。






『エンディング後なんて興味ないわ。リセットよ』






 黒髪の少女がそう告げると、夢の世界は忽然と灯りが消えたみたいに真っ暗になった。それと入れ替わるかのように、瞼に光を感じたわたしは、そっと目を開ける。

 いつの間にか、18歳の誕生日の朝がやって来ていた。


 あの夢を見たのは、これで9回目だった。


 けれど、わたしが侵食されてゆく嫌悪感は、これで二度と味わうことはない。きっと。


 わたし――トリシアは、寝乱れた髪をざっと手櫛で整えると、染み付いた優美な身ごなしでフワリとベッドから降りた。降りた先には、安堵の笑みを浮かべた親友リリアンネ様。そして、寝間着姿のわたしに気を遣って距離を取りつつ、優しい笑みを浮かべたサンディス様。


「これからは、わたしだけの夢が見られそうです」


 優しい二人の視線に堪らず涙をこぼせば、リリアンネ様に背中を押されたサンディス様が一歩踏み出し、わたしの頬を伝う涙をおずおずと指で掬い取る。


「いいや、夢はこれから私と二人で紡いで行こう」


 夢の中で聞いた声が、至近距離からわたしの耳朶を震わせ、優しくもたどたどしいぬくもりが、わたしを包んだ。

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男爵令嬢トリシアは黒髪少女の転生チートに惑わされない 弥生 知枝 @YayoiChie

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