第4話 青竜

 ユノワは、ゆっくり目を開けた。

 落下の衝撃も、ふわふわとした浮遊感も味わうことなく、彼女は、明るい日差しの中に立っていた。

 竜は、彼女の少し前で、猫のように丸くなって、眠っていた。

 薄暗く湿った空間を想像していたユノワは、目の前の景色が、明るく、開放的なのに驚いていた。色とりどりの花が咲き乱れ、鳥がさえずる楽園に、竜は調和していた。

 ゆっくりと伸びをしながら、竜は身体を起こした。

「こうして会うのは初めてだな、ユノワ」

 深く澄んだ声が、直接身体の中に響いてくる。

「はい」

 確かにその通りなのだが、ユノワは、妙な既視感を覚えていた。――この身に流れる楡名姫の血のせいだろうか。どこか懐かしいというか、初めて会った気がしないのだ。

「珍しいか?」

「……ごめんなさい!」

 ユノワは赤くなった。彼女は、自分の感情を追うことに集中する余り、不躾に竜を眺めてしまっていたことに気づかなかった。

「構わぬ」

 竜は微笑んだ。

 甘くて清い、水の香りがする。

 ユノワは、竜を見つめずにはいられなかった。竜は、彼女が想像していたよりも、ずっと神秘的で、魅力的だった。蛇のように滑らかでありながら、鹿のように無駄なく引き締まった身体は、青い鱗に覆われ、内なる生命の輝きを宿していた。

「お前は、私を恐れぬのだな」

 竜は、心なしか喜んでいるようだった。

「……全く恐れていないと言えば、嘘になります。でも、」

「好奇心の方が勝るか?」

「はい」

 ユノワは、恥ずかしかった。まるで、小さな子どもみたいだと思った。

「ごめんなさい」

「何を謝る?」

「……じろじろ見てしまって。あまり、気持ちの良いものではないでしょう?」

 普段は、気をつけてはいるのだが。ユノワは沈んだ。強く心惹かれることがあると、どうにもコントロールが効かなくなるらしい。

「人はそうかも知れぬな。――お前は、私に会うことを楽しみにしていたのだろう?」

 ユノワは大きく頷いた。

「しかも、私たちは種族が違う。多少は仕方のないことだ。お前には、私は、どのように見える?」

「……とても、美しく見えます」

 ユノワは、きっぱりと言った。

 竜は、愉快そうに声を立てて笑った。

「お前は楡名に似ているな」

 突然、懐かしげな視線を向けられて、ユノワは戸惑った。話に伝え聞くだけの先祖と比べられて、どう反応して良いのか分からなかったのだ。

「頼みがある」

 竜はすっと笑みを消した。

「……はい」

「詳しく話している暇はなさそうだな」

 竜の声が険しくなった。ユノワも異変に気づいた。

「……モカラタ!」

 彼女の影から、煙のように、モカラタが飛び出し、襲い掛かってきた人影と、激しく打ち合った。

「捕らえて!モカラタ!」

 嫌な予感がした。まさか、そんなはずはない!と思いたかった。

 程なく、モカラタが人影を取り押さえた。剣を落とされ、地面に押さえつけられている少年の顔を見て、ユノワは凍りついた。

「……ティトレー、どうして?」

 出来れば、こんな形で再会したくなかった。動揺を必死で押さえながら、彼女は少年を見つめた。

 六歳の夏に、突然姿を消した幼なじみがそこにいた。その顔からは、かつて、彼女を強く引きつけた柔和さは消え、少年は、ほとんど無表情にユノワを見ていた。

「ユノワ」

 不意に竜に呼ばれて、ユノワは我に返った。

「はい!」

 竜の方を向いて短く返事をするとユノワは、

「モカラタ、ティトレーをお願い」

 強く不安を訴えるような目で、モカラタの目を見た。

 モカラタは何も言わず、ユノワの不安を受け止めるように強く頷いた。モカラタが少年へ視線を戻すのを見てほっとしたユノワは、気を引き締めて、竜の元へと戻った。

 竜は、ユノワの方へ身を屈めるようにした。

「これを」

 ユノワは、澄んだ青い水晶の欠けらのようなものを、恐る恐る受け取った。

「……何ですか?」

「私の鱗だ」

 そう言われて、ユノワは、改めて、両掌の上の物体を見た。竜の鱗は、青白く発光していた。

 ユノワは無言で竜を見上げた。

「それを持って、石舞台の竜を訪ねて欲しい。行き方は、モカラタが知っている。ユノワ、残念ながら、私から詳しく話している時間はない」

 そう穏やかに言って、竜は、

「ユノワ、私はいつもお前と共にある」

 ユノワを安心させるようにそう言った。一方で、ユノワを通して、竜は、何か別のものを見ているようだった。

「ティトレーも、一緒に連れて行け」

 ユノワは、驚きで目を見張った。

「今のティトレーを、バレルの元へ帰すわけにはいかないだろう」

「はい……」

 養父のバレルは、寛大で、頭も切れ、多少のことでは動じない肝の太さを持っていたが、今度ばかりはユノワも、どういうことになるのか分からなかった。何せ、長年行方知れずだった息子が、やっと戻ってきたと思ったら、一族の護り神である竜と、次の長になるユノワを襲ったのだから。――ぼかして話そうにも、今のティトレーを見れば、バレルは何があったかすぐに見抜いてしまうだろう。

「ユノワ」

「はい」

「気をつけろ」

 竜は一段と声をひそめた。

「ここは、本来ならば、私が認めた者しか入ることが出来ない空間だ」

「はい」

 ユノワの背中を、緊張が走った。

「誰か、ティトレーを導き入れた者がいる」

 竜は、その見えない誰かを警戒するように言った。

「その者は……」

「安心しろ。村の者ではない。普通の人間がこの空間に割って入ることは、まず出来ない。歳えたとはいえ、私の力はそれほどまでには衰えてはいない」

 ユノワは、ほっとした。

「およその見当はついておられるのですか?」

「まあな。古くからの馴染みだ。――ともかく、その者が、ティトレーを動かしている。そいつは、これから先も、ティトレーを使って、私が、ユノワ、お前に頼んだ仕事の邪魔をしてくるだろう。そうなるよりは、まあ、多少は危険だが、ティトレーを傍に置いておいた方が良いだろう」

「……はい」

「ユノワ、心配するな。お前には、モカラタがいる。そして、モカラタは、私と繋がっている。分かるな?」

「はい」

 ユノワは、竜の言葉を聞くだけで、身体の奥から力が湧いてくるのを感じた。

「……モカラタのところへ戻って、ティトレーと共に、ここを出ろ。お前の旅が、無事に終わるように」

「あの……ひとつ、お願いがあるんですけど……聞いて頂けますか?」

「何だ?」

 竜の声は、とても甘く優しかった。

「私、ずっと、考えてたんです、子供の頃から。あなたに会えたら、どうしようかって……。えっと、本当に、馬鹿みたいなんですけど、抱きついても良いですか?」

「ああ」

「ありがとうございます!」

 ユノワは、ゆっくりと竜に近づいて行った。怖ず怖ずと手を伸ばして、竜の身体に触れる。ひんやりと、心地よい感触に導かれるようにして、彼女は、自分の身体を竜にくっつけた。

 ――清い水の香りがする。

 ユノワは、そっと目を閉じた。

 こうしていると、満ち足りて、全て忘れてしまいそうだった。ティトレーのことも、これからの旅のことも。

「ユノワ」

 竜が優しく、促すように、名前を呼んだ。

「はい」

 彼女は、しばらく、このまま、ここでこうしていたい衝動と闘っているようだったが、毅然として、顔を上げた。

「行ってきます」


 モカラタは、手足を縛られ、地面に転がされたティトレーの脇に座っていた。

「もう良いのか?」

「うん」

「……竜はなんて?」

「……石舞台に住む竜を訪ねるように言われた」

「石舞台か……」

「遠いの?」

 ユノワは顔を上げて、モカラタを見た。

「いや。私に乗れば、すぐだ」

「……モカラタに?」

「……どうした?」

「うん。そこには何があるのかな?と思って」

 半分上の空で答えながら、ユノワは横目で、ティトレーを見た。

「……あ、そうだ。ティトレーも一緒に連れて行くように言われた」

 モカラタは、軽く顔をしかめた。

「モカラタ……」

 ユノワが軽く嗜めるように言った。

「何かあったら、どうするつもりだ」

 モカラタは怒りながら立ち上がると、ティトレーを縛っている紐の端を軽く引いた。浅葱色の紐は、モカラタの手を離れ、まばゆい光を発して、ティトレーの手足から消えたように見えた。

「これで大丈夫だろう」

 紐は、ティトレーの左手首と足首に絡みつき消えた。

「一緒に連れて行くなら、手足を縛っておくわけにはいかないからな」

 素早く身を起こしたティトレーは、ユノワに襲い掛かろうとして、前のめりに転んだ。

「だが、まだお前を信用することは出来ない」

 モカラタは、冷ややかに、ティトレーを見下ろした。

「お前が少しでも、ユノワを傷つけようとしたら、身体の自由が効かなくなるようにさせてもらったよ」

 ティトレーは、無表情に、モカラタを見つめていた。

「――そういうわけで、ティトレーも一緒に来てもらうことになっちゃった。ごめんね」

 モカラタの隣で、微笑みながら、ユノワが言った。

 ……もっと緊張するかと思っていた。

 竜に触れたおかげか、ユノワの心は落ち着いていた。

 ティトレーは、無言で立ち上がった。

「モカラタ、行こう。急がないといけないみたいなの」

「ああ」

「早く背中に乗せて。私、石舞台がどこにあるのか、詳しく知らないの」

「……こっちだ」

 薄靄の中を、モカラタが歩いていく。荷物を肩にかけて、ユノワも歩きだした。

 後に続くティトレーの足音を聞きながら、ユノワは、ふと、竜を振り返った。

 竜は、穏やかに、ユノワを見守ってくれているように思えた。

 ……ここは、ずっと、こんな風なのだろうか?だとしたら、ちょっと、悲しい。

 ユノワは、こんな、はかない、春の霞みがかった風景の中に、竜を残していくのが嫌になった。

 でも今は、先を急がなければならない。それに、ティトレーのこともある。

 あんなに会いたかった幼なじみなのに……。

 竜のところへ戻りたくて、変わってしまった幼なじみとどう向き合ったら良いのか分からなくて、ユノワは込み上げてくるものをグッと堪えた。

「……どうした?」

 モカラタが振り向いて、気遣わしげな声をかけた。

「ううん。何でもない」

 全てが終わったら、また竜に会える。そう言い聞かせて、ユノワは前を向いた。


 祠の近くに出ると、ユノワは眩しさに目を細めた。

 葉陰が彼女の身体に模様を残す。

 竜から貰った鱗を失くさないように、腰に下げた巾着に入れようとした時だった。突然、鱗がもそもそっと動いて、

「わっ!」

 ユノワは驚きの声を上げた。

 ユノワの声にモカラタが振り向き、それは青い光を放ち、ユノワの右手に巻きついたかと思うと、這うように青い光となって焼きついた。

「……竜?」

 ユノワが事態を把握する間もなく、それは、

「石舞台に行くのだろう?モカラタの背ではなく、我の背に乗れ」

 と言った。

「……喋った……」

 呆然としたユノワの前で、それは強い光を発し、地下にいた竜のように大きくなると、

「乗れ!」

 と、ユノワに命じた。

 恐る恐るユノワは、それの背に乗り、遠慮がちに、だが、振り落とされないようにしっかりと、それの鱗を掴んだ。

「ユノワ」

 いつの間にか、小さな妖精の姿に戻ったモカラタが、ユノワの耳元で羽を動かしていた。

「モカラタ」

「ティトレー」

 名を呼ぶと、ティトレーは、渋々といった感じで、それの背に乗った。しかし、利発そうなところは変わっていない、金の髪をした少年は、ユノワと目を合わせようとはしなかった。

 ユノワは微かに胸が痛んだが、自分がしてしまったことを思うと仕方がない気もした。彼女は無言で前を向くと、竜に、石舞台へと運んでくれるように頼んだ。


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