第22話 『飛び切り燗 55℃』
冬の深夜、店の扉が乱暴に開いた。
冷たい風とともに飛び込んできたのは、濡れたコートを肩から引きずるようにした男だった。
五十代半ば。
無精髭に疲れの滲む目、だがどこか剥き出しの闘志が感じられる。
スーツの襟は乱れ、ネクタイは緩んでいる。
律はちらりと彼の顔を見て、カウンターの奥からグラスを片付けながら尋ねた。
「強いお酒がいいですね?」
男はカウンターに両肘をつき、深く息を吐いた。
「…とびっきり、熱いやつをくれ。」
律は微笑んだ。
「なら、飛び切り燗(55℃)を。」
銅のちろりに酒を注ぎ、ぐつぐつと湯気が立つほどの熱湯に沈める。
この温度は、ただの燗酒ではない。
火傷するほどの熱さが、酒の旨味と荒々しさを最大限に引き出す。
男は手元の盃を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「会社を辞めた。家族とも絶縁した。もう何もかも、どうでもよくなった。」
律は手を止めず、ゆっくりとちろりを回しながら言う。
「ずいぶん思い切りましたね。」
「そうでもしなきゃ、やってられなかったんだ。」
盃に熱々の酒が注がれる。
立ち昇る湯気とともに、荒々しい香りが広がった。
男はそれをじっと見つめ、震える手で持ち上げる。
そして、一気に喉へと流し込んだ。
「っ…!」
熱さが舌を刺し、喉を灼く。
だが、その後に来たのは、驚くほどの深いコクと力強い旨味。
内臓の奥底まで、熱が染み渡っていくようだった。
「…くるな。」
男は息を吐き、もう一口飲む。
先ほどまでの絶望が、じわじわと身体の奥で別の何かに変わりつつあるのを感じた。
律が静かに語りかける。
「飛び切り燗は、酒のすべてを剥き出しにします。甘さも苦さも、隠しようがない。その荒々しさが、人の心を叩き起こすんです。」
男は盃を置き、ふっと笑った。
「まるで、今の俺みたいだな。」
「ええ。でも、熱い酒は冷めるまでに時間がかかる。心も同じです。今すぐ答えを出さなくてもいい。」
男はじっと律を見つめた。
「…そんなもんかね。」
「そんなもんです。」
沈黙が流れる。
やがて、男はもう一度盃を口に運び、深く息を吐いた。
「…悪くない。」
飛び切り燗の熱が、かじかんだ心を、じんわりと溶かしていく。
男は盃をもう一杯傾けながら、静かに夜を味わった。
律は、それを見守るように、そっと次の一杯を用意するのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます