第9話 『山廃燗と雪の夜』

冬の夜、しんしんと雪が降り積もる中、日本酒バー「宵のしずく」の扉が静かに開いた。

カウンターに座るのは、少し年配の二人連れだった。誠は寡黙で口数が少なく、美智子は穏やかな笑みを浮かべている。


「いらっしゃいませ」

店主の律が優しい声で迎えると、美智子が微笑み返す。


「寒い夜ですねぇ」


「そうですね。こんな夜には、身体の芯から温まるお酒がいいかもしれません」

律がそう言って酒瓶を手に取ると、美智子が興味深げに尋ねた。


「それはどんなお酒ですか?」

「これは山廃仕込みの酒です。山卸っていう、昔は大変だった手作業を省いて造られたお酒でしてね」

「山卸?」


律が頷きながら続ける。


「麹と蒸し米、水を混ぜてすりつぶす作業のことです。もともとは酵母を活発にさせるために必要とされていたんですが、技術の進歩で不要になりました。酒造好適米の登場や精米機の改良、でんぷんを糖に変える働きが強い麹菌の発見など、複数の要因が重なって省かれたんです」


誠が盃を手に取り、ふっと息をついた。


「じゃあ、今の山廃ってのはどう違うんだ?」


律はゆっくりと注ぎながら答えた。


「山卸を省いた代わりに、自然の力を信じて仕込むんです。天然の乳酸菌やさまざまな微生物が活躍する環境で育った『野生』の酒母ならではの、適度な酸や深い味わい、濃醇なコクが特徴ですね。重厚感があって力強い。それでいて、どこか懐かしいような味わいがします」


「へぇ……」と美智子が微笑みながら、律が温めた酒に目をやる。


「山廃は、今日くらいの気温だとぬる燗がいいですよ。40度くらいが一番バランスが取れて、味わいがふくよかに広がります。もちろん、常温や冷やも十分おいしく楽しめます。」


誠が盃を口に運び、濃醇な香りを鼻に通しながら一口飲む。


「……確かに力強いが、妙に落ち着く味だ」


美智子がそんな誠の横顔を見て、ぽつりと言った。


「昔、あなたが漁師を辞めたときも、こんな風に落ち着ける日が来るなんて思わなかったわ」

「……ああ」


律は黙って二人のやりとりを聞きながら、次の一杯を準備する。


「手間をかけすぎない方が、かえっていい味になることもあるのかもしれませんね」


誠がふと顔を上げ、軽く頷く。


「そうかもしれないな。昔は必死に手をかけてきたが、今こうしてのんびり飲むのも悪くない」


美智子が微笑み、律もまた、優しい眼差しを向けた。


その夜、冷えた体も心も、力強い一杯で少しずつ温まっていった。


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