第3話『月見酒のため息』

店の外には、冷たく澄んだ月が浮かんでいた。窓から漏れる淡い灯りが、石畳の路地に滲んでいる。薄紅色の暖簾がゆらりと揺れ、秋の風が店内に忍び込んだ。


「こんばんは」


控えめな声で現れたのは、スーツ姿の男性だった。年の頃は三十代後半、ネクタイを緩め、どこか疲れた表情をしている。律は微笑んで頷き、カウンターの中央を指し示した。


「どうぞ、お好きな席で」


男は静かに腰を下ろし、少し戸惑いながら言葉を探した。


「……何か、すっきりするものをください」


律は短く頷き、棚から一本の瓶を取り出した。


「『冷卸しの吟醸』はいかがですか。冷たく澄んだ味わいが、疲れた体に沁み渡ります。」


透き通った液体がグラスに注がれ、月光が反射して煌めいた。男は一口含むと、喉奥に冷たさがしみ込み、ふっと息を吐き出した。


「……うまいな」


月光と灯りが織り交ざる店内で、律は少し微笑んだ。


「冷卸しは、ひやおろしとは少し異なって、一度だけ火入れをして貯蔵し、秋に冷やしたまま出す酒です。暑さを超えて、澄みきった味わいが特徴ですね。」


男はグラスを回しながら、小さく笑った。


「実は、上司と大喧嘩しましてね……。真っ直ぐな意見を言い過ぎたら、案の定反感を買ってしまって。」


律は静かに耳を傾け、相槌を打った。


「自分でもわかっているんです。でも、曲げられなくて……。それで、少し外の空気を吸いたくなって。」


カウンター越しに月を眺めながら、律は優しく言った。


「澄んだ月夜には、自分の影もくっきりと映ります。冷卸しのように、冷静に透き通ってみれば、自分が見えてくるかもしれませんね。」


男はグラスを置き、月を見上げた。


「……自分の気持ちばかりが先走っていたのかもしれない。相手の意見を、もっと受け止めるべきだったな。」


律は、もう一杯を注ぎながら微笑んだ。


「冷たさの中にも、柔らかな甘みがあるように、自分にも他人にも、少しだけ優しさを加えてみてはいかがですか。」


男は少し照れくさそうに笑い、グラスを掲げた。


「ありがとうございます。月が綺麗ですね。」


「ええ、月見酒には、心を澄ませる力があります。」


月光が静かに揺れる中、冷たく澄んだ酒が、心に沁み込んでいく。


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