2杯目 オールドファッションドの余韻

静かに氷が溶けていく音がした。


 バー「Nocturne」のカウンターで、吉川理央は琥珀色の液体を見つめていた。


 30代も半ばを過ぎ、仕事ではそれなりの責任を負う立場になった。だけど、何かが満たされない。今日も無意識にスマホを手に取り、通知を確認する。何も変わらない日常。


「今夜は何にする?」


 バーテンダーの西崎が、グラスを拭きながら声をかける。


「……オールドファッションドを」


「ほう、渋いね。気分に合いそう?」


「今日は、そんな夜かもしれない」


 西崎はうなずき、カウンターに角ばったボトルを置いた。


「ウイスキーはライかバーボン、どっちがいい?」


「バーボンで」


「了解。じゃあ、ワイルドターキーを使おうか。骨太だけど、余韻にほんのり甘みがある」


 理央は静かに頷いた。


 ウイスキーの入ったオールドファッションドグラスに角砂糖を入れ、ビターズを数滴。スプーンでゆっくりと潰していく。そこへ大きな氷を一つ転がし、バーボンを注ぐ。


「オールドファッションドって、カクテルの原点みたいなものなんだ」


「原点?」


「19世紀にはすでにあった。ウイスキーに砂糖、ビターズ、そして水。それだけで完成するシンプルなカクテル。でも、だからこそ誤魔化しが効かない」


 バースプーンが氷に当たり、かすかな音を立てる。最後にオレンジピールを軽くひねり、グラスの縁に添えた。


「どうぞ。シンプルで、奥深い一杯を」


 理央はグラスを持ち上げ、口に運ぶ。


 ウイスキーの力強さの中に、ほのかな甘さとほろ苦さが残る。ゆっくりと口の中で広がるその余韻が、どこか懐かしく、優しかった。


「……確かに、シンプルだけど深い味」


「そうさ。余計なものがないから、本質が見えるんだ」


 本質。


 仕事も、日々の選択も、気づけばいつの間にか余計なものが積み重なっていた。大事なものは、もっとシンプルだったのかもしれない。


 理央はゆっくりと息を吐く。


 オールドファッションドの余韻が、今の自分にそっと寄り添うような気がした。

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