オーケストラ・ヒット! ~島附高校管弦楽部より~
名栗屋なぎさ
第1章 新歓
第1話
全日本吹奏楽コンクール中国地方大会、中学生の部。
音が、私から零れ落ちていく。掬っても掬っても、手のひらに留まることのない水のように。つかんでもつかんでも、捕らえられない空気のように。もともとは私の息なのに、今は、全く別のものみたい。必死に吹いて、必死に奏でているのに、誰にも届かない。あんなに、練習したのに。
指揮を振っている先生の腕が一瞬止まる。
客先から聞こえる咳払いが、私の失敗を刻み込む。
ああ、だめだ、この出来じゃ……全然だめ。ごめんなさい、こんな演奏をしてしまって。みんな、ほんとにごめんなさい。私のせいで、全国に行けない……全部、私のせいだ……。
もう、楽器なんてやめてしまおう。誰かに迷惑をかけるくらいなら、吹かない方がいい。いっそのこと、私なんかが吹かない方が、みんなのためになる。だから、やめよう……。
こうして私は、楽器をやめた。中学3年間、吹部に入って、1日たりとも楽器を触らなかった日はなかったのに、それなのに、この日以来、私は、楽器に触れることはなかった。
春。ひと月ほど前、中学を卒業した俺は、高校の入学式のため、校内にある講堂の椅子に腰かけていた。不似合いなタキシードに身を包んだじいさんが、ステージ脇のあたり、緊張した面持ちでネクタイを整えている。あれが校長か、話、長くないといいなぁ。なんて、至極どうでもいいことを考えてぼーっとしていると、隣から話しかけられた。
「俺、
目を向けてみると、短髪に褐色の肌、いかにもスポーツマンって感じの、学ラン姿の生徒がいた。
「
「河野か。河野は、入る部活決めたのか?」
「いや、まだ」
「じゃあ、部活見学、一緒に回ろうぜ」
「……」
もう一度、佐伯の容姿を見る。サッカー部かバスケ部って感じかな。
「悪い、俺、文化系だから」
「お、まじ? 実は俺も中学は吹奏楽で――」
佐伯が最後まで言い切る前に、教員らしい女性の声が、マイクを通して場内に響いた。これから始まる入学式に向けての案内だ。
というか、え、こいつ、文化系なの? この身なりで? 絶対運動部じゃん。
そんなことを考えながら、アナウンスに耳を傾ける。ひとりひとり名前を呼ばれるから、元気よく返事して起立しろと。卒業式と同じことするらしい。何でこうも、入学式といい、卒業式は、ばかげた宗教じみた儀式をやるんだろう。とはいえ、高校入学初日から教職員に目を付けられるのも嫌なので、大人しく従うことにした。
各クラスごと、あいうえお順に、名前が呼ばれ始める。1組の俺は、割と早い段階で呼ばれることになる。
「
「はい」
特に元気よくという感じでもなく、普通に返事をして、その場に起立する。続いて名前を呼ばれた佐伯が、俺の隣に立った。
「お前が、河野仁義……」
予想通りの反応というかなんというか。中学で吹奏楽やってた人間なら、知っていてもおかしくはない。でも俺は、聞こえないふりをして、目を逸らし続けた。
しかし佐伯は、その後、他の同級生の名前が呼ばれ続ける中、話しかけてくる。
「お前、アレ、まじ? 『俺は王の中の王だ』って言ったの」
……話に尾ひれがつきすぎ。俺は、『トランペットは王様の楽器だ』って言ったんだ。聞いてる側が、厨二病をこじらせてただけ……まあ、俺もその時は中二だったけど。
さすがに、入学早々から厨二病こじらせた痛いやつと烙印を押されるのは嫌だと思って、言い返そうとした時、聞き覚えのある名前が耳にすっと入ってきた。
「
続く返事は、他の生徒とは一線を画すほど小さなものだった。弱くて、儚げで、今にも消え入りそうで。それでも、その済んだ声は、まぎれもなく、俺の知っているものだった。そうか。越智もここに入学したんだな。全然知らなかった。
越智は、中学最後の吹コン以来、部活に顔、出さなかった。廊下ですれ違っても、目ひとつ合わせてくれなかった。
「え~、
どうやら、新入生の名前は無事、全員呼び終えたらしく、校長のどうでもいい話が始まる。やっぱり、長そうだ。きっと、何倍にも薄めたカルピスみたいな話になるんだろう。
耳が音を拾うのを止めると同時に、俺は、あの日のことを思い返していた。
ようやく式が終わり、講堂を出て、教室へと向かう。
「あの校長、話長すぎだろ……」
「これからのホームルーム、めんどくせ~」
他の生徒が愚痴っている。やっぱり、話が長かった。校長というのは、話が長くないとなれないのかもしれない。
「河野! お前、やっぱ、吹部入んの?」
「吹部?」
「じゃなかった、管弦楽部か、ここは」
島瀬教育大学附属高校。通称、”
「で、入んの?」
「入らん」
即答した。
「何で?」
「俺、吹奏楽の方が好き」
「王だから?」
腹立つ表情を浮かべて揶揄ってくる様子にいらっときたため、睨みつける。しかし佐伯は全く意に介さない様子で、そのまま続ける。
「なら何で、強豪校に行かずにここに来たんだ?」
「学費、安いから」
この学校は一応、国立だ。それはそれは学費は安い。その対価として、オンボロの校舎に、年に数度、教育実習生のためのモルモットにならなければならないのだけれど、その点に目をつむれば、県内トップの進学校ということもあって偏差値も高いし、校則も緩いし、比較的育ちのいい生徒も多いため、平穏な高校生活を送る環境としては申し分ない。
「ああ、そういうこと。親孝行か」
「……」
「まあいいじゃん、放課後の部活見学、ちょっと付き合ってくれね? 隣の席のよしみとして」
「ひとりで行けよ」
「絶対女子ばっかで心細いじゃん」
心細い……容姿に不釣り合いな言葉。
「共学で楽器の部活に入るなら、どうしても女社会になる。肩身の狭い思いをするのは覚悟の上だろ」
「でも、お前、王じゃん」
ぎろっと睨みつける。
「ごめんごめん、嘘嘘! ほら、お前、顔いいし、いいボディガードになってくれそうだし」
「何から何を守るんだよ」
「俺の貞操を、誘惑から?」
「帰ってエロサイトでも見てろ」
「とりあえず、放課後は教室に残ってくれよ。今日何時に終わるか知らんけど」
その時、佐伯の脇を、色白の少女が、自信無さげな足取りで進む。
越智だった。
肩まである漆黒のストレートに、他の女子生徒とは違い、きちんと膝丈まであるスカート。身長は150台後半くらいありそうなのに、その佇まいから、どうしても小さく見えてしまう。相変わらず、人形みたいな空気をまとっていた。
中学時代と変わらず、人見知り全開な様子で、まだ、誰とも会話してないらしい。ひょっとすると、学校に来て唯一の発声が、先ほど名前を呼ばれた時の返事だったかもしれない。
俺とは面識あるはずなのに、というか同じ部活だったのに、越智は、一切目を合わせることなく、小股の早歩きで抜き去っていった。
そんな女子生徒の姿なんて眼中に入らないのか、佐伯はその後も、しつこく俺に話し続けた。
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