小説 思想罪
紅野レプリカ
思想罪
もうすぐ空が暗闇に差し掛かろうとしている最中、あまり人通りの少ない交差点を歩く一人の男がいた。付いたり消えたりを繰り返す街路灯がその男と周りの空気の異様さを映し出していた。
アパートのドアの前に立つ。
毎日目にしているドアだが、なぜだか見るたびに悲しくなる。気持ちを振り払うと同時にドアノブに手を差しかけたその時、後ろから声をかけられた。
「こんばんは」
驚いた。振り返ると一人の女性が立っていた。短髪で整った髪、皺のないスーツ、空の暗さとは真逆の笑顔。二十代半ばのような雰囲気。
いきなりのことで声が出ず、頭をほんの数センチ程度しか下げるかとしかできなかった。反射で頭を下げたが無愛想で人馴れしていないのがしみじみと伝わっていそうだ。
「私昨日隣に引っ越して来た〇〇という者です。挨拶をしたいと思って、昨日伺ったのですが留守にされてたようで、でもよかったです、今できて。よろしくお願いします」
彼女の社会慣れしていない感じが言葉から伝わってくる。
「××です。よ…よろしく」
ようやく自分の意思で口から言葉が出た。人に言えるほど社会慣れどころか人慣れすらしていないのが丸わかりで、逆に恥ずかしい。
数秒の沈黙の後お互いに軽く会釈をしてそれぞれ部屋に戻った。
家のドアをできるだけ静かに閉め、すぐに壁にもたれ掛かった。疲れた。初対面の人と話すのはここまで疲れるものなのか。
靴を脱ぎ部屋に入る。まるで事件があったかのように散らかった部屋に一人。しかし、この散らかり具合が逆に今は心地がいい。机の上には書き殴りの紙と自分なりに字を綺麗に書いた原稿用紙が置いてある。人や人と関わるのが苦痛な自分にとって、思ったことをツラツラ書くこの仕事はまさに天職そのものだった。素顔や本名を公表せずに金を稼げる。仮面をつけて生活しているものだ。生きやすい。そのまま椅子に座ってペンを持ち、何かを書こうとしたとこまで覚えていた。
陽光に照らされたカーテンが目に反射し、目が開いた。
「朝、か…」
机の上に置いたる掛け時計を確認する。
「十時十二分…」
嫌々ながら布団から起きと言うセリフが当てはまりそうだが、そもそも布団で寝ていなかった。机の上で気を失っていたらしい。
眠気を覚ますため外に出る。住んでいるアパートの周りを軽く散歩することにした。
隣の部屋は静かで電気も付いていない。
「きっと仕事だろう…夢を追いかけてるのか…」
そんな羨ましがるような独り言が出た。鼻から大きく息を吸いそのまま鼻から吐きだした。その日は頭が痛くなるような陽の光だった。陽の光でさえ俺を攻撃しているようで、逃げるようにその日は部屋へ戻ることにした。
外の明かりで部屋の中がよく見える。その奥の本棚にある一冊の本も。
"###"
懐かし。この本が俺の人生を良くか悪くか変えてしまった。
「本屋大賞受賞か…」
そんな今に対する僻みのような言葉が自然と出た。その後に書いた小説は全く売れなかった。今はあの頃のように描けない。情けなく悔しい。こんな気持ちになった時はいつも見るものがある。スマホに電源を入れて写真フォルダを開く。SNSに書き込まれたコメントのスクリーンショットだ。しかし見ても罵声のような言葉が転がってるだけだ。今やその罵声すら心地が良いと感じていた。
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匿名:やっぱ最初だけだったなw
匿名:本屋大賞受賞してちょうしのったんじゃないw
やっぱたまたまでしょww
匿名:その後に出た小説くっそつまんなくてすぐ飽きたわw
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「うざい…」
人の苦労もわからないで、ただ読むだけの読者のくせに評価だけは一丁前だ。
「書きたい、あの時みたいに…でも書けないんだよ…」
一人の部屋に一人の声が響く
「『次に書く本が売れなければ君はもう無理だ』か…」
一年前に心臓を刺された言葉。今も跡が消えない。机の上の書いている途中の詩は人を呪いたい気持ちを込めて書いたもの。
俺はもう決めていた、俺をこのようにした世間へ復讐することを。この小説を書き終え、その後本屋に並んでる俺の本の前で人を殺す。
「最高だ」
頭の中の想像だけで笑みが溢れる。想像の中でさえ心地よいのだから現実ではどれほどのものか想像がつかない。それはきっと死ぬ前にしか味わえない快感と同じようなものなのかと思うと口角がさらに上がった。そんなことを毎日考えていた。
「今の生きがいはこれだけだ」
目を開け気付いたら外は暗くなっていた。仮眠をとるつもりだったが睡眠していたらしい。寝ぼけ眼のまま起き上がり、気分転換のつもりで外に出ることにした。夜の海には自分と同じ孤独の月が泳いでいる。
「こんばんはー」
咄嗟に後ろを振り返る。そこには〇〇さんが立っていた。仕事帰りのようだ。いつも通りのこの空には似合わない明るさだ。
「こっこんばんは…」
こちらもいつも通りの片言で返す。どうせこの際と思い、前から気になっていたことを聞くことにした。
「いつも夜遅いですよね、一体何の仕事を…」
気持ちの整理がついたせいか、いつもより楽に言葉を発せた。
「編集の仕事です。小説の編集をしています」
少し恥ずかしそうにしながら彼女はそう答えた。
驚いた。まさか彼女のような若く生き生きとした人が小説なんかと関わっているとは。心の底は嬉しかったが、同時にこの空のせいか、その明るい気持ちがかき消されていくような感じがした。
「どうしてそんな仕事を…」
疑問の方が強かったためか、相手の気持ちを考えずに質問した。
「好きだからです」
すぐに返答は返ってきた。
「小さい頃から本が好きで、中学生の頃からは頻繁に小説を読むようになりました。その頃は小説家を目指していましたが、他の人のように素晴らしい作品は書けないと思いサポートする側を目指しました。最初の頃は小説家を諦めきれずにいましたが、だんだんとこっちの方が自分にあってるなって感じてきたんです。好きな作品に出会う機会も多く、編集をしていると自分もその作品の一部になったような感じがして嬉しくなるんです」
何も返す言葉がなかった。再び自分の中に感情の渦が巻き出し、「応援してます」と頭を下げてその日は部屋に戻った。
あんなきれいごと誰でも言える。この世は偽善者で溢れている。人は表を裏と言い、裏を表と言う。人は偽りの気持ちに偽りの仮面をつけて生活している。それはもう人に動かされている糸操り人形のように。
その次の日は一日中家に引きこもった。そして。「完成だ」ついに描き終えた。"思い込みによる恨みで人が死ぬ"。この話を短く言い表すならこんなところだ。せっかくだから本屋の本の前で人が殺されるという現実とのリンクも入れておいた。
想像できる。本屋で人が殺され、その加害者はまさかの作者、本の内容と同じことをしたというニュースが世間に報道されているのが。最高だ。その日は一日中笑いが止まらなかった。
一ヶ月後
朝の七時。昼夜が九十度に回転している自分にとってはとても早起きだった。いつもなら起きるのに手こずるが今日は体が跳ねるように起き上がった。
今日がとうとう本の発売日で実行の日だ。場所は電車で二十分ほど離れた場所にある、この辺りでは一番大きな本屋だ。やっぱり大きいところの方が人がたくさんいて目立つだろうという子供のような理由でそこにした。
バックに包丁を入れる。怖さのあまりの笑みなのか、楽しみのあまりの笑みなのか、どっちにしろなぜか笑みが溢れている。
「ふぅー…」
深呼吸。
開店が九時からということでそれに間に合うように家を出る。そして鍵を閉める。この行動も今日で最後と思うと、なぜか変に意識してしまう。
時計を見る。八時十分。電車の出発時刻は八時三十分だ。ゆっくり歩いても間に合う。しかし、何かを考えないためか、自然と足早になってしまう。一体何を考えないためというのか、自分でもわからない。
そうしているうちに駅に着いた。スーツ姿のサラリーマン、制服姿の学生。この時間帯に外にいるのがまず無いため、世の中の当たり前の風景が自分の中では当たり前ではなくなっていた。電車を待っている時間過ごし方は人それぞれだ。参考書を広げて勉強している学生や朝から笑いながら話す人。しかしほとんどはスマホと向き合っている。そんな人たちを観察していると電車が来た。ドアが開き肩と肩がぶつかりながら中へ入る。
電車の中はやはり通勤通学する人々で溢れかえっている。将来に希望を持って生きている学生と将来に希望などないと気付づいた大人。よく考えればそうだ。笑顔で学校や会社に行く人などほとんどいない。
「……」
電車を降りた。その書店は駅の前のショッピングモールの二階にあるため、降りてからすぐに店の前に着いた。
ちょうど開店と同時に着き、他の人に紛れて店内に入る。今日が日曜日ということもあり開店時間と言えど人は多い。
開店からいる人は多くはなかったがそれほど問題ではない。エスカレーターを上り二階へ上がる。地面からの高さが高くなるにつれ、心拍数も高くなっていくのを感じた。二階に着き目を薄く閉じたりを繰り返しながら数秒ほど歩いた。
店についた俺は自分の本を探した。本屋大賞や有名インフルエンサーのおすすめ本が並んでいる先、二番手と言わんばかりにそこにあった。場所も量も全てが二番手さながらだった。並んでいる本の上がまだ均等で、一冊も売れていないのがわかる。しかしこの事実が逆に好都合だ。最初に本を手に取る人間が誰だかわかるからだ。
やはり最初の一冊目を手に取る人を殺す方が心地がいい。
近くの本棚で本を見るふりをして見張ることに決めた。この位置だと本を手に取っ人の顔は見えなかったが、どうせ殺すなら同じことだと思いその場にとどまることにした。
気持ちは冷静だが、心臓と呼吸がうるさいほど暴れている。あと少しで全てが終わる。
そしてやっとその時がきた。
足音。並べてある本の前に一人。その手が本へ向かう。
取った
その刹那そこへ向かって静かに駆け出た。瞬間的にカバンに手を入れナイフを取り出そうとした。
カバンの中にはナイフしか入れていなかったため探さず柄を掴んだ。
しかし一瞬で異世界へ入ったかのような感覚に襲われた。
原因は一目で十分にわかった。
目の前には本を手に取っている彼女の姿があった。
急に世界の色が変わったそんな感じがした。
急に飛び出したせいで彼女に気づかれてしまった。
彼女は俺を見るなり驚いた表情を混ぜつついつもの笑顔で話しかけてきた。
「××さんですよね。とても奇遇ですね、こんなところで会うなんて」
目の前の情景が現実だと受け入れるのに少し時間を要したが、彼女の笑顔がそれを証明してくれた。バックに入っている手を不自然と思われぬよう抜き、その場から立ち去ろうと軽く頭を下げ、浅い一歩を踏み出した。
しかし「すみません」その一言で足が引き止められた。
振り返ると俺の本を一冊手に取りその表紙を見つめながら話しかけてきた。
「〇〇さんもこの本を探しにきたのですか」
俺は一瞬目を逸らした後
「ええまあ」
そう返してしまった。早くその場から離れることばかりを考えていたため否定しようとしたが、自分の作品のため否定するのを躊躇ってしまった。
すると彼女は嬉しそうに目を表紙に向けたまま話を進めた。
「この方の書く文ってとても美しいですよね。なんというか破壊的な美しさというか。終わりこそが美しいって言っているような。でも現実では表現できないからこそ本の世界で表現しているのかなって思って。今って壊したい衝動や情動、好きとか嫌いとかそんな気持ちを前に出すことが忌み嫌われているなって思って、でも誰かを傷つけるよりはいいのかもしれませんが、誰も傷付けないのであればもっと素直に気持ちを前に出しても良さそうだと思って…。人って外出先に応じて着る服を決めるじゃないですか、それと同じようにそれぞれの場所にあった仮面をつけて外に出ているように感じてたんです。そんな思いがあるからこの方が書く文章が好きなんです」
すると彼女は顔を赤らめながらこちらを見て
「すみません。急に早口でたくさん喋ってしまって」
そう言った。
その後彼女は左腕についている腕時計を見て「すみません。仕事があるので」と言い、一度頭を下げた後その本を持ちこの場を去った。
計画は失敗に終わった。
しかしなぜか達成感が感じられた。今まで罵声で傷ついてきた心がたった一人に認められたという事実で癒えるなんて想像もしていなかった。
「仮面をつけているか…」
人は主観という取れない仮面をつけて生きている。でもその主観を隠すためにまたその上から仮面をつける。でもそのままだと日に日に視界が狭くなってしまう。だからこそ、他の人の目から見える景色を知ることで視界を広げる、その繰り返しだ。
俺はただ怖かった、自分が認められないことが。だからこの世を否定する仮面をつけて生活するしかなかった。素直に信じるという気持ちすら覆い隠していた。偽りの気持ちに偽りの仮面をつけていたのは俺だったのか。男はついに自分の気持ちの形に気づくことができた。
この仮面を取りたい。しかしそう強く願っても、その仮面はすでにその男の一部となっていた。
疑いたくないのに信じなられない、死にたくないのに生きれない、そんな感情の渦に飲まれた男は再び彼女の後を追って歩き出した。
*
誰かを感動させる言葉は大体誰かが言った言葉の使い回しで
私が発する言葉は大体誰かが言っていた言葉
私は過去に会った人の集まりに過ぎない
良いと思った人の真似をして
良いと思った言葉を使って生きている
自分を形作る一つ一つが模造品
だからこそ人を傷つける詩を書いている時の私は本物だ
もし許されるのであれば
この情動や衝動をそのまま詩にしたい
私は本物になれない偽物です
小説 思想罪 紅野レプリカ @kurenorepulika
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