第6話 泥棒猫


 急上昇ワード一位だった。


『ビッグマウス天鬼唯翔に期待の眼差しが集まるわけ』ーーネットニュースより。


 生温い雫が頬を伝って、ぽたり、と画面に滑り落ちてゆく。


 泣いてるんだ、と理解するまで、そう長くはかからなかった。


(ださ……っ)


 プルルルルーー無機質な音が、雪の中へ吸い込まれる。


 両親でもなく、友人でもなく。私が真っ先に向かったのは、ヨハンさんのもとだった。




 ヨハンさんが滞在しているというホテルは、近所で一番と名高い高級スポットだった。


 しかしなあ……


(これじゃ、出会い厨みたいだ)


 仮にも、私たちはまだ知り合ったばかりの男女なのだ。ヨハンさんは了承してくれたが、いきなりホテルに押しかけるだなんて、なんだかすごく、いけないことのような気がして。


 重そうな回転扉の前で、私は一瞬躊躇する。




 おそるおそる、スリッポンを前に出す。




 そうだ、もう後には退けないのだ。

 唯翔もーー私も。




「やあミオ、元気にして……いや、今はよそうか。」


 苦笑いのヨハンさんに、私はぺこりと会釈する。


「こちらこそ、突然伺ってしまってすみませんでした。」


 ビロードのソファに腰掛けるよう促され、私は事のあらましを、ゆっくりと説明した。



「なるほど……ユイトとそんなことが」


 ヨハンさんは何かを思い出すように、ふむふむ頷き出した。すかさず彼の視線を追ってみる。


「改めて、確認したいんですけど。私の幼馴染にーー唯翔に、会ったことがあるんですか?」


 ああ、ヨハンさんがこともなげに顎を引く。


「昔、練習試合をしたことがあってな。もちろん俺たちの圧勝だったんだが……ふふ。彼だけは、最後の瞬間まで諦めていなかった。」


 好戦的な笑みが、ふいにこちらへと向けられた。


ーーオマエには絶対負ける気がしないな。


 そう言った時の唯翔の憎らしげな声が、いまだ耳にこびりついている。


「直感だったんだ。ユイトは良い眼を持っている。そして、いずれは俺すらを凌駕するような素晴らしい選手に成長すると……俺としてはあの時、ハッパをかけてやったつもりだったんだがな」


「そう、なんですね」


 ーーハッパ、か。どこか愉しげなヨハンさん。遠回しは遠回しだが、本心ではあるんだろう。


「つくづくひどい男だ。」


 まあ、たしかに。


「いちいちムカつくヤツではあるんです。毎回いいようにこき使われてるし。でも、なんていうのかな……もうちょっとお互いを、理解し合ってるつもりだったんです」


 彼は静かに、私を眺めていた。


「それなのに私は、ずるい、いいなあって」


 天才と肩を並べるために、必死で彼らに食らいついていこうとする、唯翔を。


「今までの、唯翔の努力を……頭ごなしに否定しました。」


 幼馴染失格。それ以前に、人として一番やってはいけないことだった。


 もう引っ込めたはずだったのに、堰を切ったように涙は溢れ出てくる。


「……う、ひぐっ……」


 ヨハンさんは優しく、ハンカチを差し出してくれる。


「ヨハンさっ…………」


「たくさん泣くといい。幸い、ここには俺しかいない」


 私は何度も頭を下げながら、勢いよく目元を覆った。


「こっちを向いてくれ、ミオ」ヨハンさんが、流れるように顎を掬う。


 ああ、吸い込まれるーーと思った。瞳の奥のエメラルドが、私を捕らえて離さない。


「……俺ならそんな顔、させないのにな。」


 どこか熱を孕んだ吐息に、私はただただ困惑する。


「ちょっと待っていてくれ。」


 俺にいい考えがある、そう呟いたヨハンさんの口元には、にやりとした笑みが浮かんでいた。



〈ヨハン視点〉


「こうして顔を合わせるのは久しぶりじゃないか? なあ、ユイト。」


 気さくに片手を上げると、うら若き日本のエース……天鬼あまき 唯翔ゆいとは、こちらを睨んだあげく肩までぶつけてきた。


「……オレの知らねえ間に、美桜と知り合ってたそうだな。」


 男子トイレの出口にUターンしようとする唯翔を、ヨハンは余裕の表情で通せんぼする。


 短い舌打ちが、流水音にまぎれていた。


「人の寝取ってどんな気持ちだ、え?」


 頭の中で、即座に辞書を引く。


 まさか、「この泥棒猫」、とでも言いたいんだろうか。


 覚えず、腹の底から笑みが溢れていった。


「そんな野暮なことはしないさ、でもーー」


 一瞥した途端、貧乏ゆすりをし始める唯翔。構わず続けた。


「今度の親善試合、ミオをかけて勝負しないか。」と。


 唯翔の眉が、ぴくりと動く。


「とはいえ、これはあくまで個人的な誘いだ。もちろん断ってくれても構わない」


 ベンチコートに隠れたユニフォーム。


 チームに対しても不誠実だしなーーそう言うなり、ヨハンの肩はギリリと唯翔に掴まれた。



 すると何を思ったのか、ハッと、唯翔は鼻で笑い出す。


「よく言うぜ、後で泣いても知らねえぞ。」


「……ファイナルアンサー?」


 ああ、唯翔が深く頷く。


「乗せられてやる。ま、暇つぶしにはちょうどいーわ」

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