妖精の女王
高麗楼*鶏林書笈
第1話
1990年代初頭―
一行は作曲家 大森月男の家に向かった。インタビューのためである。
彼らは現在、昭和前期に活躍した朝鮮の女性舞踊家 蔡正姫についてのドキュメンタリー映画を制作中である。数年前、ある博物館で彼女の未公開フィルムが発見されたのがきっかけで、改めて彼女の生涯を辿ってみようという人々が集まり、映画の制作が始まったのであった。
一行が大森の家の前に着くと立派さに圧倒された。大森は超売れっ子作曲家で、歌謡曲の他にCMソング、アニメ主題歌、映画音楽等、多くの曲を発表して来た。それゆえにこうした豪邸を建てられたのであろう。
インターフォンで来意を告げると屋内に通された。
応接室には既に大森が控えていて、すぐにインタビュー出来る体制になっていた。
一行は挨拶と今回のインタビューへの謝意を述べた後、さっそく本題に入った。
インタビュアーは一行のリーダ―格の女性だ。
「子供時代、蔡正姫にお会いしたことがあるとのことですが」
「はい、実は蔡さんの娘の武子ちゃんと同じクラスだったんです」
「そうだったのですか」
「ええ、武子ちゃんとは仲が良くて放課後よく御宅へ遊びに行ったんですよ」
「まぁ!」
「武子ちゃんの家はとても大きな御屋敷でね、モダンな作りでした。蔡さんは仕事のため家に居ることは少なかったですね。ただ、在宅の時は必ず、僕たちのために手ずからお茶を淹れてくれてクッキーと一緒に持って来てくれたんですよ。舞台の時とは違い、地味なセーターとスカート姿ですが、妖精の女王のようにきれいでした。エキゾチックな御顔に子供心にもときめいてしまいました」
大森は照れ笑いした。
「確かに彼女は東洋人離れした容貌でしたね」
「ええ、それゆえ舞台上の蔡さんは朝鮮服の時は天女、洋装の時は妖精のようで…、人間とは思えませんでした」
二人は、その後、蔡正姫についてあれこれ応酬し、インタビューは終盤を迎えた。
「…戦争が激しくなり、僕は地方に疎開することになり、武子ちゃんとは離れ離れになりました。戦後、蔡さん一家は朝鮮に帰国し、会うことはありませんでした。風の便りで、武子ちゃんはお母さんと同じように舞踊家になったと聞きました」
ここで大森は言葉を切り、紅茶を一口飲んだ。
「ええと、10年位前だったかな、革新系の芸術人たちが北朝鮮を訪問することになり、何故か僕もその一員になったんです。僕たちは蔡正姫さんと娘の孫星希~武子ちゃんの朝鮮名ですね~に会いたいという要望を出しました。平壌に到着し、歓迎会が行なわれましたが、その場に蔡さん親娘の姿はありませんでした。僕たちは、北側の担当者に蔡さん一家の消息を何度も訊ねましたが、明確な答えは得られませんでした。いやな予感がしたのですが口には出来ませんでした。そのあたりの事情はあなたも御存知でしょう」
大森はインタビュアーに問いかけた。
「ええ、まぁ…」
「政変に巻き込まれて、逮捕されたとか、収容所に送られたとか言われてるけど、真相は今のところ不明だね」
「そうですね」
「天女のような蔡さんが、仲良しだった武子ちゃんが、どんな生活をしているのだろうか、或いは……」
大森は言葉を続けられなかった。
映画は無事完成し、それなりの評価を得た。
21世紀に入り、蔡正姫は愛国者墓地に葬られていることが判明した。娘の孫星希も名誉を回復されたそうである。
彼女たちが北朝鮮以外の地に暮らしたら、どのような人生を送ったのだろうか、映画を見た人はふと思うのだった。
妖精の女王 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます