第9話 仕組まれた陰謀①

 王都の空は薄灰色の雲に覆われ、肌を刺すような冷たい風が吹いていた。季節の移り変わりは早く、先日までは穏やかな陽光に満ちていたのが嘘のようだ。


 そんな天候に呼応するかのように、レティシアとカイルの周囲でも不穏な動きが活発化しはじめていた。そもそも、この二人の婚約を歓迎しない者は少なからず存在する。伯爵家の令嬢と公爵家の跡取り――立場や地位だけを見れば理想の組み合わせに思えるが、当人同士の性格があまりにも鋭いせいで「とんでもない爆弾が生まれる」と噂する者もいれば、そもそも妬みや利害関係から妨害しようと目論む者もいるのだ。


 その中でも特に、以前からカイルの地位を脅かそうと画策しているフェリクスは懲りずに動きを強めていた。あの社交パーティで痛い目を見た後も、水面下で情報を収集し、噂の種を拡散させることに余念がない。


 さらにレティシアをライバル視する令嬢クラリッサも、表向きは大人しくしているが、内心では諦めていないらしい。二人が巧みに共闘して自分たちを貶めたことが信じ難く、いつか必ず仕返しをしてやると息巻いていると噂される。


 そんな不穏な空気が具体的な形となって、二人の婚約話を根底から揺るがす日がやってきた。ある朝、レティシアのもとに奇妙な手紙が届いたのだ。差出人は明かされておらず、封蝋も匿名のもの。その中身は、「カイルが裏で別の貴族令嬢と親密な関係にある」と言わんばかりの告発文だった。


 内容としては曖昧あいまいな記述も多く、真偽は怪しい。しかし、いかにも「カイルはおまえのことなどただの政略道具としか考えていない。彼が本当に想っているのは別の女性だ」――そう煽るような書きぶりが散りばめられている。


「なによ、こんなの……」


 朝の光が窓から差し込む中、レティシアは書斎でその手紙を読んで眉をひそめた。心のどこかで「くだらないデマに違いない」と思いながらも、複雑な胸騒ぎを覚えてしまうのは仕方ない。


 なにしろ、カイルが外でどんな相手と接触しているか、レティシアには知る由もない。普段はどこか冷たく、必要以上に社交に顔を出さない彼が、もし裏で誰かと深い関係を築いていたとしても不思議ではない――そう感じさせる不安を払拭できずにいた。


「こんなの、ただの嫌がらせに決まってる……。だけど、もし本当だったら?」


 思考が堂々巡りを始める。あの雨の日に見せたほんの少しの優しさに、つい期待してしまった自分が馬鹿らしい。もともと、彼は冷徹で自分の都合以外は顧みないタイプだとわかっていたはず。それが、ほんの一時的な迷いで揺らいだだけなのかもしれない。


 ぐしゃり、とレティシアは手紙を握りつぶして机に放り投げた。激しい苛立ちと、言いようのない焦りが胸を満たす。すぐにでもカイル本人へ問い質したい気持ちが湧くが、彼女のプライドがそれを許さなかった。


 一方、同じ頃、公爵家の屋敷にも奇妙な風が吹いていた。カイルの部屋には、やはり差出人不明の手紙が届いていた。こちらは逆に「レティシアが公爵家との縁組を利用し、別の男性に色目を使っている」というような文面だ。いわく、「実は、あなたの婚約者はあなたをコマ扱いしている」「伯爵家の背後には別の野望がある」と。


 カイルは馬鹿馬鹿しいと鼻で笑いながら封を切るが、内容を読み進めるにつれ、わずかに表情を曇らせる。以前、彼が対処したはずのフェリクスやクラリッサの影がちらつくが、確証が持てない。ただ、今の時点で事実かどうかを証明する方法も見つからないまま、胸の奥に鬱屈とした塊が生まれていく。


「……あいつが、そんなことをするはずがない。いや、するかもしれないな。そもそもあんな口うるさい女だ。案外、俺との婚約など本気で受け入れているわけではないかもしれない」


 そうやって自分に言い聞かせながらも、記憶に鮮やかに残るのは、馬車の中で見せた彼女の弱さ。あれは嘘ではなかったと思いたい反面、自分だけが勝手に勘違いした可能性もある。


 どんなに理性的になろうとしても、一度芽生えた疑惑は拭い去りがたい。カイルは苛立ちを隠すように書類を放り投げ、部屋を出ていった。


 こうして始まった小さな疑惑の種火は、あっという間に周囲の噂や策略によって大きく燃え上がっていく。伯爵家や公爵家の使用人、さらには社交界の一部が、二人にとって耳障りな話を広める形で扇動を加速させるのだ。


 「レティシアがほかの男性と密会しているらしい」「カイルは実は別の令嬢を本命にしているらしい」といった根拠の薄いゴシップが、まことしやかにささやかれていく。最初こそ無視していた二人も、次第にその影響から逃れられなくなっていった。


「あなた、本当なの? あの手紙のこと……」


 ある日、伯爵家の応接室でレティシアとカイルが顔を合わせたとき、彼女は珍しく怒りをむき出しにした声で問い質した。


 これまでなら皮肉や嫌味で牽制し合う二人だが、今回は無視できないほどの不穏さを孕んでいる。カイルが冷たい視線を向け、低い声で返す。


「手紙? ああ、俺も似たようなものを受け取った。おまえが裏で誰かと通じているって話だな」

「……はあ? わたしの話? わたしのほうはあなたが別の令嬢と深く関わっているっていう『報告』だけれど。ずいぶん、食い違っているわね」

「ならそれこそ、誰かが俺たちを離間させようと仕掛けているんだろう。おまえこそ、まさか信じてはいないだろうな」

「……どうかしら」


 レティシアの声には嫌悪とも悲嘆ともつかない感情が混じる。むろん、全てを本気で信じたわけではない。けれど、このところのカイルの態度を思い返すと、どうしても不安が募るのだ。あの日の優しさも「ただの勘違い」ではなかったかと。


 彼女がそれを言い出せないまま黙り込むと、カイルも苛立ちを隠せず声を荒らげた。


「なんだ。おまえ、本当に俺が浮気でもしていると思っているのか。ならそれを証明する手立てでもあるというのか?」

「証明? そんなの知らないわ。けれど、あなたが何を考えているかなんて誰にもわからないでしょう。わたしだって、あなたがあの夜に少し優しく見えただけで、すべてが変わったなんて思えない」

「……なぜ、今そんな話が出る。馬車の夜のことなんか引き合いに出しても意味などないだろう」

「そうね。あれがただの気まぐれなら、なおさらあなたを信用できない」


 言い合いはどんどん激しくなり、互いに胸に抱いた不安や怒りがぶつかり合う。皮肉混じりのののしり合いから、一転して感情がむき出しになるのは初めてかもしれない。


 応接室の外では、使用人たちが明らかに不穏な空気を感じ取っていた。声をひそめて「まさか本当に破談になるのでは」とささやき合う。


 その不安は現実味を帯びてきた。実際、両家の親も最近の噂を耳にし、やや困惑しながら「婚約話をいったん白紙に戻すべきかもしれない」という声を漏らし始めているのだ。


「レティシアとカイルの婚約が、あそこまで世間で憶測を呼ぶとはな……。両家の将来を考えれば、このまま強行するのは危険かもしれん」

「ですが旦那様、これまでの話を簡単にくつがえすのは……」

「本当に破談になれば、周囲の目も黙ってはいないだろう。だが、今のままでは二人にとっても苦しいはずだ」


 伯爵家の父と母、公爵家の父もまた、どうするべきか迷っている。あの二人の性格が噂をいっそう燃え上がらせているのは間違いないからだ。


 そうした大人たちの懸念を横目に、当の二人はさらに深い行き違いに陥ろうとしていた。疑惑を払拭するどころか、新たな噂や偽の証拠がちらつき始め、「やはり相手が裏切っているかもしれない」という思いが膨らんでしまうのだ。

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