ちいさなファデットの物語
石束
遠い異国でその物語は『愛の妖精』と名付けられた。
ある夜の事。
就寝前のひと時、火の気を残しておいたサロン。
暖炉の前のカウチで火を見ていた私に
「まだ、寝ないの?」
そんなふうに、声をかける者がいた――娘だ。
いま寝るつもりだった、と応えるのすら煩わしかった。カウチと毛布は温かく、揺らめく炎は美しかった。
「いい年なんだから。また、風邪ひいても知らないよ」
余計なお世話だ、と思った。しかし、私が、またも声を出す気にならず、軽く身じろぎをして、炎を見つめ続けていると。
娘は「まあ、いいけど」などと言って、隣に腰を下ろした。
正直、驚いた。実のところ、娘とは折り合いが悪い。
我儘に育ち、好き放題振る舞い、何かあれば癇癪を起し、自分に都合の良い嘘をついて己を正当化し、ついには暴力沙汰を起こすようなロクでもない男と結婚して出て行った。あまつさえ、その際に金目の家財を持ち出すようなことまでしでかした。
その男と別れて帰ってきたのは、さて、いつのことだったか? さすがに合わす顔がないと思ったのか、同じ館に暮らしていても顔を合わさないようにしていた。
それが、今夜に限って、いったいどんな風の吹き回しやら。
「ねえ、きいてもいい?」
どうせ、こちらの承諾など聞くまいに。でも、何だろう?
「『小さなファデット』(La Petite Fadette)のモデルって、わたし?」
『小さなファデット』とは、社会主義派新聞のクレディ紙に1848年11月1日から連載された、ペンネームをジョルジュ・サンドという作家による、小説。
タイトルの『ファデット』は昆虫の「こおろぎ」を意味し、同時にそれはこの物語に登場する、やせっぽちで行儀が悪く、イタズラ好きで悪知恵の働く田舎娘の異名でもあった。
――そして。
作者のジョルジュ・サンドとは、いかにも男のような名前だが、本名はアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパンといい、最初の結婚相手(裁判により別居を認められたので事実上離婚)の爵位から、デュドヴァン男爵夫人ともいう、アンドル県ノアン村に現在在住の女性――すなわち、私の事である。
◇◆◇
村一番の大百姓、バルボー旦那の家に、それは可愛い双子の男の子が生まれた。
大仕事を終えて幸せいっぱいの母親に、とりあげ婆のサジェットばあさんが
「二人を同じ乳で育ててはいけないよ。いつも二人を一緒にしておかぬよう、また同じようなかっこうで服を着せないようにするんだよ」
と忠告する。
双子の兄弟が二人が仲良くなりすぎると、一人では生きていけなくなり、別れると必ず一人は死んでしまうという、言い伝えがあるのだという。
とはいえ、二人とも腹を痛めた可愛い我が子。片方に乳をやってもう片方にはやらないわけにもいかない。母親は結局、二人に同じように愛情を注いでそだてることになった。その結果、双子はとても仲良く育った。兄のシルヴィネは繊細でやさしく、弟のランドリーは明るく元気に。しかし、確かに、兄のシルヴィネは弟に深い愛着を持つようになり、ランドリーが奉公で村を離れる時は傷ついて寝込むほどだった。
そんなおり、シルヴィネが行方不明になり、ランドリーは必死に兄を捜す。手がかりがないまま危機に陥るランドリーの前に、見すぼらしい姿と怪しい言動で村人から嫌われている少女「こおろぎ」(ファデット)が現れる。
彼女はシルヴィネを捜すのを手伝うことを条件に、ランドリーに
「何でも一つ言うことを聞く」
という約束を迫るのだ。……
「……『ファデット』にモデルなんていないよ」
「ほんとうに? 『シルヴィネ』がモーリスだったりしないの?」
モーリスはこの子の兄だ。
「身内を切り売りするほど、落ちぶれちゃいないよ」
「……うそばっかり」
嘘なんてついていない。まあ、ひどく追い詰められていたのは確かで、余裕なんてかけらもなかったから、記憶があやふやなこともあるが。
たしか、あの頃は二月革命のすったもんだで、当てにしていた援助がなくなって、生活が酷く苦しくなって、編集者の連載依頼に二つ返事で飛びついて、大急ぎで書き上げたんだけっか。たしか……
その上、そんな世情のあおりでその新聞も連載前に休刊になるし、他にも色々ごたごたになって、別の新聞でという話になり……今思っても、ホントに連載が決まってよかった。執筆の苦労も無駄にならなかった。いや、ホントに大変だった。
とまあ、重ねて言うが、そんな風に追い詰められていたけれど、身内をネタに小説を書いたりはしない。
そもそもの話になるけれど。
俗に「人はだれでも一生に一冊くらいは本が書ける」などという。それは人生生きていれば、いろんなことがあり、経験を積んでいけば、その経験が成功であろうが失敗であろうが、何かしら、語るべきものとなるからだ。
しかし、それが他人様がお金を出してまで読んでみたいと思うかどうかは、別だろうし、対価と引き換えに読んでみたいと思わせるものを書けるかどうかが、作家になるか、それ以外になるかの境界線である。
そして中でも一番つまらない小説が、身内ネタの楽屋話の類(たぐい)だ。そんなもの、死んでも書きたくない。
思えば、私が作家たるべく小説を世に問い、そして『作家』であると認められたのは、最初の結婚を失敗した後、パリに出て『アンディアナ』を書いてそれが広く認められたからだ。ちなみに小説のテーマは不幸な結婚に苦悩する女性の解放を描いたものであった。
「……」
まあ、夫とは裁判で別居が認められて、肩書は残ったものの事実上離婚して縁が切れたので「身内」じゃないから、これだって身内をネタに書いたわけではない。
書いている時に「こんにゃろう。おぼえてろ」とか思ったことくらいはあったかもしれないが。
「それじゃあ……さ」
ぱちり、と薪が炎の中で爆ぜて、小さな音がした。
「フレデリックは、『身内』じゃなかったの?」
「………」
フレデリック。…………フレデリック・ショパン。
その名は、我が人生における、最も輝かしく、そしてもっとも愛しき『傷跡』。
◇◆◇
私が彼と出会ったのは、共通の友人であるフランツ・リストを介しての事。六歳年下の彼はやさしく繊細で、神経質で体が弱く、そして才能にあふれていた。
1838年のマヨルカ島の日々、1839年からパリの家で同棲した。そしてこのノアンの城館に彼の部屋とピアノを用意し、あるいはまたパリで時間を共にした。
ただ、暮らし、ただ、時間を共にし、そして、創作に没頭した。
何と幸せで光輝に満ちた日々であったことか。
あの九年間。
彼とピアノと彼の曲があったノアンの館そのものこそが、私のすべてだった。
それが崩れさろうとする日々の最後に、私は『ルクレツィア・フロリアーニ』を書いた。
若き放浪の王子がルクレツィアという金持ちの女と出会って認められ愛を得て、そして、ルクレツィアがその愛ゆえに破滅していく話だ。
「彼は面白い話だと、言ってくれたのよ?」
「かのフレデリック・ショパンに失礼だ、とみんな、言っていたわ」
知ったことではない。だいたい、離婚した後で書いた小説じゃあ、元の夫を含めて誰も文句を言わなかった。文句を言ってるのはフレデリックの崇拝者だけだ。
まあ、小説に文句をつけるのは読者の特権。わざわざ買ってくれたのなら、かまわない。
せっかく手にした新しい小説よりも、スキャンダル周りが気になるだなんて、もったいない。まったく強火のファンの皆様にはご愁傷様なことだ。
物語は自らの魂から湧き出る清水であり、作家は自分の中にあるものを、それが喜びに溢れたものであれ、悲しみに満ちたものであれ、その『何か』を修辞で飾って文字として残すべき『何か』に変換するのだ。
だけど、そこに「他人」を描き出すことなんで出来ない。
当然だ。私には他人の事なんてわからないのだから、書きようもない。
あの当時も、今も、わからない。
自分の息子も、自分の娘も、あの時、世界で一番大切だった、彼の事さえも。
「…………」
……そうか。あれは1849年のことだから、もう15年も前になるのか。
私たちの関係は修復の仕様もないほどに壊れていて、結局彼の死に立ち会うこともしなかった。
娘のソランジュとその亭主は、数少ない本当に立ち会った人間だ。
「…………」
ルクレツィア・フロリアーニはジョルジュ・サンドではない。
放浪の王子はフレデリック・ショパンではない。
シルヴィネは我が息子モーリスではなく。
小さなファデットは、喧嘩が絶えなかった娘、ソランジュではない。
誰でもない。
だが、あえて言うなら、その全ては『自分自身』。姿を変え、性別を変え、年齢を変え、場所を変え、国籍を変え、身分を変え、善であり、悪であり、美しきものでもあり、醜いものであり、あるいは細かく分離した要素となって溶かし込まれた、『私』でしかない。
「……」
自ら信じた善なるものを否定され、良かれと願った未来は現実を知らぬ夢想だと、嘲笑われた。
誰も彼もが信じられず、隣近所の様子を伺い、用心しなくてはいけなかった。ほんとうに息の詰まるような窮屈な日々。そして、世の中に蔓延していく差別と格差、思うに任せない子どもたちの人生、次第に増えていく彼とのすれ違いと、その末の別離。
そんな中に訪れた二月革命の熱狂と、あえない崩壊、友人たちの逮捕とそして、彼、フレデリック・ショパンの死。
世界は突然色を失った。
私は逃げるように、パリを離れ、ここノアンに帰ってきた。
自分の行き先がどうなるかわからない日々の中で、子供の頃と変わらずにあった故郷の森だけが救いだった。
そこは昔通りの神秘に満ちていた。
清浄で不思議な闇。とびかう鬼火。炉端の昔ばなし。すべてが昔のままだった。
私はその森の中に住む、やせっぽちでイタズラ好きで、薄汚くてみすぼらしくて、けれど元気で負けず嫌いで、とびきり踊りの上手な女の子のことを思いつき、不幸な生い立ちに負けず、懸命に生きて、やがて誰かを幸せにして自らも愛される、そんな妖精のようなヒロインの物語を書き始めた。
まるで、今のこの絶望と失望を、できるだけ新鮮なうちに文章にしておかなければ、それに打ち勝つ物語など書けるわけがないと、自らに挑戦するように。
――そうとも。
いつだって私たちは、ただ自らの人生を闘うために、物語を綴ってきたのだ。
◇◆◇
「ああもう。だから言ったのに」
誰かが側で立ち上がる気配がして、乱れた毛布を不器用に掛け直される。
「あったかくしなきゃ。誰か呼んでくるわ……おやすみなさい、お母さん。良い夢を」
ぱちり、と、何処か遠くで、火の中の薪が爆ぜる音がした。
ちいさなファデットの物語 石束 @ishizuka-yugo
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