モノワスレ、バンザイ
湾多珠巳
Viva, memory-loss
いい天気が続いていた春の午後、庭先で形だけの土いじりをしていると、門から呼び声がした。返事をして振り向いたところ、初老の男性を先頭に、かなり高齢の女性が二名、計三人が、乗用車から降りて佇んでいた。
聞けば、うちの母親が昔入っていた公民館サークルの仲間だったそうで、久しぶりに顔を見に来たとのこと。元サークルメンバーだったのは二人の女性らしく、男性はそのどちらかの息子か何かだろう。暇を持て余している老女たちにせがまれて、やむなく自動車を出してやったというような雰囲気だった。
いったん家に入って確認してみる。話を聞いた老母は今一つピンと来ない顔を見せた。
「そんなことがあったかねえ?」
「私に訊かれても。お母さん、公民館なんか行ってた?」
「まあ昔はねえ、料理とかコーラスとか、顔を出したこともあったかもねえ」
とりあえず会うだけ会ってみる、と大儀そうに玄関から出、先方と対面する。待っていた老女たちが歓声を上げて母を迎えた。久方ぶりに会ったご婦人方が口にしそうな会話を何セットも行き来させながら、母はなおも釈然としない様子だったか、そのうちに話がかみ合ってきたようで、時々笑い声も混じるようになった。私は玄関から歩行器を持ってくると、母の元に置いた。ちゃんとイス代わりにもなるタイプだ。見ると、やってきた二人も歩行器を杖代わりにしていて、気持ちの良い午後の空の下、お年寄りたちの歓談はしばらく続きそうだった。
男性が離れたところで遠慮がちに突っ立っていたのに気付いて、私は声をかけた。
「付き添いですか? ご苦労様です。よろしければ上がられますか?」
「いえいえ、お構いなく」
くたびれた笑顔で、白髪交じりの頭を軽く下げた男性は、見たところ私と同年代ぐらいだろうか。七十代には届いていないかな、というぐらい。
会釈だけ残して母親たちのいる場所へ軽く方向転換しようとしたら、少しよろけてしまった。その足つきを見て、男性が気づかわしげに言った。
「足を悪くされているのですか?」
「いえ、足ではなくて。しばらく前に脳梗塞をやったことがあるんですよ」
「ああ、それは……」
「骨とか筋肉は何ともないんですけど、平衡感覚がちょっと」
「それはいけませんね。よろしければ、どうぞお座りください」
そう言って車の助手席のドアを開けた。一応遠慮してみせたが、自分も運転席に座り込んで、さあ、と手を差し伸べるので、そのまま立っているのも意固地に見えそうで、好意に甘えることにする。
密室な感じになるのを避けたのか、彼はドアを大きく空け放したままにしていた。さりげない配慮のできる人なのだな、と少し好ましい気持ちになる。
ふと気づいて、私は確認を取った。
「失礼ですが、お名前は何とおっしゃいましたっけ?」
「高村です。あの、帽子をかぶっているのが私の母です」
「そうですか。
「どうぞよろしく」
「で、もうひと方のお名前は?」
高村氏が急に黙り込んだ。何かよろしくない事情でもあるのだろうか、と戸惑っていると、眉根を寄せながら、氏がぽつりと言った。
「実は、よくわからんのです」
「はい?」
「……母は長い付き合いの友人だと思っているようで、実際、浜地さんという、私もよく憶えている方が、あの方と色々特徴が似ています。どうやらその人と取り違えているようなんですが」
「えっ、いや、だったらそうおっしゃれば――」
「うちの母とは、もう会話がほとんど成り立たないんですよ。ああやって見ると普通に話せる人間に見えますけれども、五分前に話したことだって憶えていません。さっき会ったのが誰だったとか、まずダメですね。父を亡くしてから、じわっとボケが進んだようで……私の顔を覚え続けているのが奇跡に思えてきます」
「そ、それは、でも」
ご友人も呼んで三人でいる時に訊いたらいいのでは、と言いかけて、さすがにそれは失礼が過ぎるだろうと思い直す。というか、それでもし双方の思い違いが露見したら目も当てられない。
「……あの、あちらの方に高村さんが直接お話すれば、少なくとも事情ははっきりするのでは?」
「そう思わないでもないですが、あちらさんもだいぶん記憶とかが怪しいようで、やはり会話がおぼつかないんですよ。まあ母も話し相手が欲しいだろうし、いつもどこからいらっしゃるのかは知りませんけれど、仲良くおつきあいしてくれるんならいいか、と」
「で、でも、なら、そもそもその浜地さんは」
「六年前に亡くなりました」
うっと絶句して、しばし会話が途絶えた。門の横では、三人の老婦人が、数十年来の知己のようにケラケラ笑いながら昔話に花を咲かせている……ようにも見えるのだけど、よくよく聞いてみると、所々話の筋がちぐはぐだ。むしろ、あれでよく笑えるものだと感心する。
「ま、まあ、高村さんとうちの母とは古いようですし、もしかしたらあちらの方も、どこかでうちとつながっていたということも――」
とりなすように声をかけると、またしばらく沈黙があってから、不意に高村氏が私に頭を下げた。
「申し訳ありません。実は、それも違うんです」
「え!?」
「あちらの浜地さん似の人はどうか知りませんけれど、うちの母とおたくとは、ほぼ間違いなく、何のつながりもありません」
「えっ、でも、公民館サークルの……って」
「差壁さんのお母さんは、何のサークルでいらっしゃいました?」
「ええと、料理とかコーラスとかを少し……」
「うちの母は卓球一筋でした」
「えええっ!?」
「偽浜地さんは何だったのか聞いてません。推定ですが、料理でもコーラスでも卓球でもないと思います。いつかだったか、ちらっとハワイアンがどうしたとか言ってましたから。そもそも公民館に本当に通われていたのかも怪しいんではないかと」
「あの……ではその、いったいなぜこの家においでに?」
高村氏は一瞬気まずそうに顔をしかめてから、わざわざ声を低めるようにして答えた。
「どうも、誰かの家に行くつもりだったのは確かなようです。あいまいな記憶を頼りに、直前まであっちだこっちだって騒いでましたから。なぜだか二人の意見が一致したその先に、この家の表札があったというわけで」
「……」
「はっきり人違いと判ればそれで終わると思ったんですが、こんな流れになってしまい、結果大変失礼なことに」
「ああ、いえ、その、母も喜んでいるようですし……」
「お許しいただけますか?」
「ええ、許すとかそんなおおげさな。どうかお気になさらず……とは言いにくいですけど……まあ、これもご縁だと思えば――」
その後も彼は恐縮しきったままで、なだめるのにだいぶん苦労した。ことの真相にはびっくりしたけれども、少なくとも悪意のある行動ではないのだし、結果としてはめでたしめでたしなのではないかとも思う。そう私は考えたし、言葉にもした。
「会話もおぼつかない高齢のお母様をしっかり支えられて、高村さんは偉いですよ」
「そんなことは……恥ずかしながら、私はこの年になるまで独り者で、ずっと親元で暮らしてきましたから、まあこれぐらいはしないとバチが当たりそうですんで」
「ではずっと若い時からお世話なさってるんですか? ご立派です」
「いやいや。脛をかじってきたというだけです。自分一人で食えるほどの収入も稼げなかったわけですし。よく言って持ちつ持たれつですよ」
「でも、そんな何十年もずっとなんて」
「それはでも、差壁さんも同じではありませんか」
「ええと。……私はその、出戻りみたいなものと言うか……いえ、結婚はしてなかったんですけど、六十過ぎて都会の真ん中で女一人暮らし続けるのもしんどいなと――」
「ああ、そういう事情で」
「父が亡くなって、母一人と言うのも不安でしたし、二人分の年金を合わせたら、何とか世間並みに食べていけそうなので――」
「なるほど」
「ですから、打算で親元に戻ってきただけなんですよ。もう脛かじりもいいとこ」
「いえいえ、よかったじゃありませんか。結果的に、お母さんのサポートができているんなら」
「できておりますかどうか……私もだいぶんポンコツですし、なんだかこの頃は、しっかりしなきゃって思うようなことばっかりで、もう親と大して変わらないぐらい年取ってる気分で……」
「何をおっしゃいます。お姿を見ればわかります。まだまだお若いですよ」
彼は誠実で、社交辞令交じりとは言え、言葉の一つ一つが前向きだった。
だから私は言えなかった。
言えるわけがない。実は私自身、記憶が相当いい加減で、どれぐらいいい加減かと言うと、今話した帰郷の事情も半ば推測で、信じられないことに、この家の娘なのかどうかすら自分でわからないほどなのだ、などと。
ただ私のこれは、百パーセント加齢のせいと言うわけではない。
私が実家に戻る決心をしたのは、六十過ぎになって国際的な感染症の流行や何やで生活の不安が一気に高まり、収入的にも先行きが怪しくなってきたからと言うのが大きい。というか、そういう理由だったのではないかと思う。実際の事情はもう全然記憶にないのである。
四年前の夏のことだった。おそらくだけど、その日私は住み慣れたアパートか何かを引き払い、鉄路で実家に向かった。その日の夕刻には家の門をくぐるはずだったのに、到着駅近くでちょっとしたアクシデントがあった。送電線の不備か何かのせいで、七時間以上座席に座りっぱなしになる羽目になったのだ。
大事故ではなかったけれども、ストレスのせいか私は駅に着く間際にとても気分が悪くなり、救急搬送された。脳梗塞だった。そのまま数日間昏睡し、目が覚めてみると、自分に関する記憶がほとんどなくなっているのに気づいた。
二週間ほどリハビリを続けて、ようやく自分の名前が「坂本」とか「堺」みたい響きだったような、ぐらいのことは思い出せるようになったけれども、誕生日や生い立ちまでは無理だった。入院費は鉄道会社持ちだったのでお金の心配はなくとも、連絡先がはっきりしないんでは病院だって困る。
どさくさに紛れて私の手荷物はどこかに行ってしまっていた。ケータイもスマホも身に着けていなかった。最初から持っていたのかどうかも思い出せない。身元を示すものが何もなく、思い余った事務の人が尽力して、当日のその列車での遺失物と思しき婦人ものの小さなカバンを確認させてもらえることになった。
その中に入っていたのが、ハンカチなどの小物数点と安物の札入れと「
これに見覚えはありますか、と訊かれた時、正直確信は全然なかった。けれども、これ以上入院を延ばしてくれるな、というような空気がひしひしと感じられて、私はつい、ハイ、憶えています、と答えてしまった。サカなんたらな名前は一致しているし、キャッシュカードが入っているような忘れ物なのに問い合わせがないということは、ほぼ私のものと断定してよかろう、ということで、めでたく私の身元は判明し、退院が決まった。さらにいくつか紆余曲折はあったけれども、私の帰省すべき住所も判明して、無事今の家にたどり着くことができた。
母と暮らすうちに何となく記憶も戻ってきて、今では普通に暮らせている――と、周りには思われているかも知れないが、私自身は時々ひどい違和感に悩まされることがある。
本当に私は差壁朋子なのか? あのカバンは確かに私のものだったのか? 私はこの家にいていいのだろうか?
この家に戻ってきた時のことはよく憶えている。病院から母への照会は最低限の内容だったらしく、私が実家帰りをすることになっていたことも知らなかったようで(あるいは聞いていたけど忘れてしまったのか)、母はただただ玄関でぽかんと私の顔を見つめるばかりだった。恐る恐る「朋子です」と口にしてみると、ああそう、という顔はしてくれたけれども、その時点での母の判断力をどう評価すべきかは何とも言えない。
家には何かの荷物が届いていた様子もなく、帰郷を決心した時の自分の行動が改めて不可解になる。連絡一つ入れないで、引っ越し荷物なども一切送らないまま里帰りするつもりだったのか。私はいったいこの数十年間どんな暮らしを送っていたんだろう。いや、そもそも本当にそんな「私」は存在したのか――
「もうね、少々のことが間違っていても、どうでもいいんじゃないか、なんてこの頃では思うんですよ。ああ、今日のこれを言い訳してるんじゃないんですが」
彼の言葉に、私は振り向いた。
「あんな風に、全然理由もないまま集まって、ほとんど意味が通らないんだけど何時間も喋って楽しく過ごせてるんなら、それでいいじゃないかってね」
彼の視線の先には、なおもよもやま話を展開し続けている三人の(おそらくは何の関わりもない)老婦人たちの姿があった。柔らかな陽光の元でのその姿は、見ようによっては仙界の賢者たちが人智の及ばない清談にうち興じているようにも感じられた。
急に涙ぐみそうになって、私は口元を抑えた。横目でちらりとこちらを見た高村氏は、急に改まった口ぶりになって、軽く一礼した。
「今日はありがとうございます。おかげさまで、気持ちの良い時間を過ごすことができました」
「いえ……こちらこそ」
「また間違ってお伺いするかも知れませんが……」
口ではそう冗談交じりに言いつつも、ひどくまじめな視線で私をじっと見つめている。ざわっと襟足があわ立ったような気がした。おそらく、そんな感覚は何十年ぶりかだろう。
どぎまぎしながらも、言葉は自然に出てきた。
「はい、毎回でも間違えてください。歓迎します」
我ながら笑ってしまう話だけど、その時私は、この人となら結婚してもいいな、と考えていた。もうこの年だし、そんな気持ちが出てくるのは生活上の理由が九割なのは自覚している。でも、同じような状況の多くのシルバー世代が、残り一割で躊躇してしまうものなのだ。その一割をクリアできる相手にはまず逢えないものだから。
けれど、この人なら――
五月の物憂い午後の陽気の中で、私は妄想の羽をひときわ大きく羽ばたかせた。たとえばこの人と結ばれて、しばらくたったある日、この家の本物のトモコさんが現れる。当然のように大騒ぎになるだろう。誰が残って誰が出ていくの、出ていかないのと面倒なことになるだろう。でも、たとえそんな事態に直面したとしても、なんだか全部丸く収まりそうな気がした。
だって、丸くならざるを得ない。私たちはいつまでも頭脳明晰ではいられないのだ。色々悩んでもしんどいし、この先、細かいことを憶え続けてもいられないだろう。
もうこの際だから、三人で住みましょうってことで手打ちになるんじゃないかな。あ、双方の母親も併せて五人かな。
どうせ最後はみんな忘れてしまうんだから。どっちの娘がどこの家だったとか、いちいち憶えてなんかいないんだから。
それでも、今日のこの日のように、人は楽しく笑い合えるんだから。
そう、いつ何時も、微細な配線を完璧に維持し続ける正確さなんて、人の世の中には必要ないのだ。線は外れるもの、基盤は消えていくもの。
かくて、私たちは幸せになる。
物忘れ、万歳。
<了>
モノワスレ、バンザイ 湾多珠巳 @wonder_tamami
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