夜専ナースのお小言

虎娘ฅ^ơﻌơ^ฅ

1 見くびるのも大概になさい

「結婚したら、今の仕事を辞めても大丈夫だからね」


 夫である来栖悠馬くるすゆうまは、プロポーズの時に確かにそう言った。

 にも関わらず、現にこうして求人サイトを眺める羽目になるとは……。


 


 彼とは友人主催の飲み会合コンで知り合った。誰がどう見ても優しい雰囲気の彼は、私と趣味が似ており、一度話しただけで意気投合。飲み会の後も、何度か2人で出掛けるうちに自然と恋人関係に進展。私が仕事の都合で予定をキャンセルしても、「仕方ないよ」と優しく労ってくれていた。

 結婚して間もなく、待望だった双子が生まれ、誰もが羨むくらいの幸せな家庭を築いていた――。


 そんな幸せな結婚生活も、そう長くは続かなかった。


 私は双子の子どもたちを連れ、久々に実家へ帰省していた。彼は「久々の家族団らんなんだから、ゆっくりしておいで」と笑顔で私たちを送り出した。実家で過ごしているうち、子どもたちがホームシックに陥り駄々をこね始めた。見兼ねた私は、両親に申し訳なさを感じながらも、予定を早めて帰宅することに――。思えばこれが全ての始まりだったのかもしれない。


 家が近くになるにつれ、子どもたちもご機嫌な様子。


「ねぇママ、パパ、びっくりするかな」

「どうだろうね」

「きっとびっくりするよ!」


 私の両サイドでは、繋いだ手をリズミに合わせて前後に振る、ご機嫌な様子の可愛い双子たち。

 浮足立って自宅へ到着し、鍵を開けた途端にふと違和感を覚えた。


 あれ、この靴……、見たことない。


「パパを驚かすためにも、ふたりともしぃー、ってできる?」

「うん」


 私が小さめの声で話すと、子どもたちも私を真似して静かに頷いてくれた。


 さすが、察しのいい子たち。

 とは言え、この状況……。まさかあの人に限って……そんなことある?


 私は瞬時に今の状況を整理しようと必死だった。


「ねぇママ。僕たち、お2階に行っといたほうがいい?」


 私の服の裾を引っ張りながら囁く可愛い我が子を見て、私は一旦深呼吸をした。


「そうしてくれると嬉しいな」

「わかった」

「うん!」


 私の言葉を素直に受け取った子どもたちは、私が伝えた通りに足音を立てずに2階へと向かった。その姿を見届けた私は、玄関先で意を決し、リビングへと繋がる戸を勢いよく開けた。


「ただいま帰りましたっ!」


 今までに出したことがないくらい、声を張り室内へと入った途端、ソファから人でも落ちたような鈍い音が聞こえてきた。


「ママ……、帰りは明日だったはずなんじゃ」

「子どもたちが少々ぐずって早めに帰ってきました。そういう貴方はそこで一体何を?」

「何って……、ちょこっと横になっていただけだよ」


 あきらかに様子がおかしい。私は更に彼を問い詰めた。


「ちょこっと横になってるて言う割に、どうして服を脱いでいるのかしら」


 私の指摘に、彼はさらに動揺し始めた。


「……えっと……それは……こ、これには事情があるんだ」


 私は自分でも不思議なくらい冷静に問い詰めていた。


「そこに居るのは誰?」

「そこって……何を言っているんだい。ここには僕しかいないよ?」


 こんな状況でもしらばっくれる彼に、私の中では何かプツンと切れる音がした。


「だったら説明してくださいます?玄関に置かれている見覚えのないパンプスに、そのソファの横に落ちている見覚えのない女性ものの下着、貴方の首元に付いているキスマークについて!」


 私の指摘に彼は慌てて首元を隠し、咄嗟に下着も拾い上げた。


「ママ……、話を聞いてくれ」

「私、あなたの母親になった覚えはありません!」

「……っ!」


 私の指摘に、彼は何も言えずに固まっていた。すると、これまで姿を見せなかった第三者が、床に落ちていた上着を羽織りながらソファから起き上がり、私を一瞥した。


「貴女のご主人、いつもこんな濃厚なんですの?」

 

 私とはまるでタイプが違う、妖艶という言葉が似合いそうな女性ひとだった。


「それは身をもって体験されたのでは?」

「ふふふ、そうですね」

「それより、貴女こそこの状況を理解されているのですか?」

「えぇ、もちろん。私にしてみれば、こんなの日常茶飯事ですので」


 この女性ひとは一体何を言っているの!?……日常茶飯事って、いつもこんなことをしているの!?


 私は何も言えずにその場で佇んでいた。

 すると、いつの間にか着替えを済ませた女が、彼の耳元で呟いた。


「またお店にいらしてね、ちゅ」


 首元に付いていたキスマークに口づけ、女は私の隣を通り過ぎて行った。仄かに香るブランド物の香水が鼻についたが、そんなことは全く気にならなかった。


「二度と来ないで」

「……仰せのままに」


 女がどんな表情で言ったのか定かではないが、話し方から察するに、人を見下しているように思えて仕方なかった。女に対する怒りよりも、目の前に呆然と立ちすくんでいる夫に対して言いたいことが山積みだった。


 あの女とはどこで知り合ったの?

 どうしてこの家に招き入れたの?

 仕事で帰りが遅かった理由は?

 私のこと……愛しているの?

 何から聞けばいいの?

 そもそも、今更弁解されたところで許してしまうの……?


 私が何も言わずにいると、夫は重い口を開いた。


「マ……、真っ、本当にすまなかった」


 深々と頭を下げる彼に、私の口からは冷ややかな言葉が出てきた。


「誰に対して謝ってるの?」

「……へっ?」


 私も自分で発した言葉の意味を考えていた。


 婚姻関係があるのに、別の女性といたことに対する謝罪?

 見知らぬ女を家へ招き入れたことへの謝罪?

 私を騙していたことに対する謝罪?

 ……子どもたちへの謝罪?


「見くびるのも大概になさい!今すぐ出て行って!」

「……っ!話を聞いてくれ、頼む!」

「お断りします」

「真っ!頼む!」

「頼まれてもお断りよ。早く出て行って!」

「……せめて、せめて子どもたちに会わせてくれっ!」

「お断りよっ!」


 ここで子どもを出してくるなんて……あまりにも残忍すぎる。


 私は、内から込み上げる怒りの沸点を超えないよう抑え込むのに必死だった。これ以上何かを言われると感情のコントロールができなくなる、そう思ったときだった。


「パパ!ママをいじめないで!」

「ママのことをいじめるパパ、きらいっ!」


 気づかない間に、私の両隣には子どもたちがいた。それも、2人のぱっちりした目には大粒の涙が溜まり、必死に我慢している様子が伺える。


「……お前たち」


 誰も味方する者がいないとわかった夫は、大人しく着替えを済ませ、荷物をまとめ始めた。その様子を見ていた子どもたちは、声を抑えながらも涙をぽろぽろと流していた。


 夫婦の問題なのに、子どもたちを巻き込んでしまったわ……。幼いながらもきっと、この状況が良くないことはわかっているわね……。この子たちは私がしっかりと育てないと。……なにも影響がなければいいのだけど、今はそんな事を考えたって仕方ないわよね。


 ある程度必要な物をまとめ終えた夫は、私たちの方を振り返り、小さな声で「すまなかった」とだけ言った。リビングを出て行こうとしていた夫を、私は思わず呼び止めていた。


「……鍵、返して」

「……っ、まだ荷物があるのに鍵がないと……」

「何言ってるの?金輪際、貴方をこの家にれるつもりはありませんので!」


 私が手の平を夫へ差し出すと、彼は徐ろにズボンのポケットから鍵を取り出し、私の手の上に恐る恐る置いた。


「確かに預かりました。では、さようなら。お元気で」

「……」


 無言で立ち去る彼を、私と双子は黙って見送った。

 ふと、服の裾がきつく締まる感覚を覚えた私は、力が込められた方を見た。


「……ゔっ……ゔっ……」


 双子と視線を合わせるように私はその場でしゃがみ込み、2人をそっと抱き締めた。


「……ごめんね」


 そう呟いた途端、私はこれまでに堪えていた涙を止めることができず、子どもたちと一緒に声を上げて泣き続けた。


 何が何でも子どもたちを守り抜く、そう私自身の心に強く誓いを立てた。

 

 

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