骸骨紳士と秘密のワルツ
星トラ子
第1話:冷たい指先、宵闇のワルツ
夜の霧が揺らめく墓場。
鋭い寒気に包まれながら、リリアは自分がどこを歩いているのかさえ分からなくなっていた。さっきまでいた世界とは色も空気も違う。まるで、入り込んではいけない領域へ踏み込んでしまったような感覚。
「……ここは……?」
震える声で問いかけた途端、不意に耳を打ったのは、優美でいてどこか妖しいワルツの調べ。
こんな夜更けに、一体誰が奏でているというのか。答えなどない。それでも、なぜか足が自然とその音色へ向かっていた。
――不思議な胸騒ぎがする。
恐怖よりも、奇妙な期待が心を満たしていく。リリアは深い霧の中を、あたかも何かに誘われるように進んでいった。
霧の向こうに揺れる灯りを追い、気づけば墓場の中央へと辿り着く。そこで目にしたのは、信じ難い光景。
骸骨たちが踊っていた。
瞳のない頭蓋骨が、まるで生きた人間のように舞い、骨と骨とが擦れ合うかすかな音が不気味なリズムを刻む。それなのに、なぜか艶やかで目が離せない。現実感を奪うほどの幻想的な眺めだった。
「ようこそ、夜の舞踏会へ」
どこか底冷えのする低い声に振り返ると、そこに立っていたのは漆黒の衣をまとった骸骨の紳士。闇を湛えた眼窩が、まるでリリアを射抜くように見据えていた。
「一曲お相手願えませんか?」
その声音は、底知れぬ闇と魅了を孕んでいるようだった。逃げるべきだと頭が警鐘を鳴らすのに、足はなぜか彼の方へ引き寄せられてしまう。
――この一歩で、リリアの運命は変わってしまうのかもしれない。
「……一曲だけ」
声を震わせながら、それでもリリアは応じてしまう。こんな異形の存在と踊るなんて正気ではない――そう思うのに、彼が発する甘美なワルツの余韻が、思考を麻痺させていく。
差し出された骸骨の手は冷たいはずなのに、触れた瞬間、ひどく生々しい感覚を伴ってリリアの指を包み込んだ。
「さあ、踊りましょう」
激しささえ感じる旋律に合わせ、リリアの足が動き出す。彼女の理性は霧散していくばかりで、心はただ、この奇妙な紳士のリードに溺れていく。
霧 の中でドレスの裾がゆったりと翻り、骨の指先が静かにリリアを導く。自分がこんなにも踊れるなど思いもしなかった。しかし、彼の動きは官能的なまでに滑らかで、リリアの身体はまるで自分の意志を失ったかのように、快感に似た浮遊感へ沈んでいった。
どこか懐かしく、そして切ない。まるで失った記憶を呼び起こされるような痛みと胸の高鳴り。それでも踊り続けることをやめられない。
「素晴らしい……」
骸骨紳士が吐息を混じえながら囁く。その声には少しの寂しさと狂おしさが入り混じっているように聞こえた。
「こんなに美しい踊りをする人間は……久しぶりだ」
リリアの胸が、締め付けられたようにざわめく。久しぶり――そこには、長い時間を孤独に彷徨ってきた者の嘆きが滲んでいた。
「君は……ここにふさわしいかもしれない」
ふいに、ワルツがふっと止む。冷たい空気がリリアの肌を刺し、彼女は思わず身を強張らせた。先ほどの陶酔の余韻を一気に断ち切られる。
「……私、帰らないと……」
自分でもか細い声だとわかる。それでも本能が警鐘を鳴らしている。こんな場所に留まってはいけない――。
しかし、骸骨紳士は微動だにせず、むしろゆるやかにリリアの手を握り込んだ。
「帰る……?」
その低い声は、先ほどの優雅な雰囲気をまといつつも、どこか残酷な響きに変わっていた。
「残念だが、君がこの舞踏会へ足を踏み入れた時点で……その道はもう閉ざされているんだよ」
「え……嘘……!」
霧が一層深く渦巻くように広がり、先ほどまで確かに見えていた出口らしき道を呑み込んでいく。リリアが目を見開くと、骸骨紳士の骨ばった指が獲物を捕らえるように彼女の手を支配していた。
「ここは、生者の世界とは違う。夜の舞踏会に招かれた者は――二度と生きた世界には戻れない」
ぞっとするほどの冷たさとともに、彼の声は楽しげでもあり、その楽しげな響きがより一層リリアの心を乱していく。
「やめて……離して……!」
悲鳴にも似た声を上げるが、身体は動かない。骸骨紳士がわずかに指先を添えただけで、まるで金縛りにかかったように自由を奪われてしまった。
「逃げられると思ったのかい?」
その言葉が耳に絡みつく。首筋に冷たい吐息を感じながら、リリアの鼓動は恐怖と別の何かで荒れ狂う。骸骨紳士の眼窩に、妖しく艶めく光が宿るのが見えた。
「……人間の世界へ戻りたいのなら……」
言葉を切るたびに、彼の声が甘く絡みつく。骨だけのはずの身体から、まるで狂おしいほどの熱が立ち上るようだった。
「……ただひとつだけ、方法がある」
骸骨紳士は、リリアの手をゆっくりと引き寄せ、その白骨の顔をぎりぎりまで近づける。まるで、唇が触れ合う寸前まで追い詰めるように。
リリアは反射的に息を詰まらせた。胸が痛いほど鼓動し、全身が震える。逃げたい、でも視線がどうしても彼から離せない。
そして、紳士は低く、囁くように告げた――。
「私の心を……奪え」
一瞬、時間が止まったように感じる。その言葉はあまりに突飛で、理解が追いつかないのに、なぜか胸の奥が軋むように強くうずく。
「……それが、唯一の道なのだよ」
最後の言葉は、静寂を切り裂くように響いた。あたかも深い闇に滴る毒が、甘やかな香りをともなってリリアの心に染み渡るかのようだ。
息が詰まる。恐怖なのか、あるいは彼の言葉が誘う陶酔なのか、もはや区別がつかない。ただ、魂が揺さぶられ、心臓を鷲づかみにされたような感覚に支配されていた。
「さあ……どうする?」
紳士の声は先ほどよりさらに甘美で、底知れぬ欲望を含んでいるようだった。その微笑みは人間離れした骸骨の顔にあるまじき妖艶さを帯び、リリアの抵抗心を弱らせていく。
もう、引き返す術などない。逃げ場のない夜の舞踏会は、さらに深い闇へとリリアを誘い込む。
霧の奥から再び流れ出すワルツの旋律。骸骨たちが静かに輪を描き始める中、リリアは自分の吐息の震えを感じながら、自らが踏み入れた夜の深淵をようやく知る。
――この声に応じたら、もう元の世界へは戻れないかもしれない。それでも、心が疼く。まるで彼に導かれることが、避けられない運命かのように。
リリアは喉を詰まらせながら、ただ、目の前の骸骨紳士を見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます