風の噂

猫煮

シロップ一本280ml

 山の上に建つ修道院の地下には扉の開かぬ牢屋があった。この牢屋を尋ねる人はいない。そもそも、この修道院自体が人の住まなくなって久しかった。おそらく、風雨と言葉を持たぬ鳥や獣が、格子をはめ殺しにされた天窓から中を覗いてみては、誰の姿も見つけられずに興味を失って空へと帰っていくばかりであろう。このような有り様であったから、牢屋の主人のことを覚えている者もまた、耐えて久しかった。


 この牢屋の主は、かつて地母神(クベレ)と呼ばれていた。彼女の生まれた国、と言ってもわずか数十の血族に連なる数百の人間が集まっただけの原始的な国だったが、は千年も昔に滅ぼされた。彼女の国を滅ぼしたのは内海から生まれた帝国だったが、その帝国も数百年ほど前に滅ぼされている。しかし、クベレはこれらのことを知らなかった。彼女をこの牢屋に入れたのは、彼女の民であったからだ。


 クベレは元は人の女の肚に黄金の雨が種を撒いて生まれた子どもである。クベレの母は身分の低い国民が略奪してきた奴隷の女だった。持ち主の予定にない妊娠をした母親は、腹が膨らんだのを見つかるとすぐに首を切り落とされたが、体はその後三ヶ月生きているときのように動き続け、クベレを産み落とすと同時に豊かな土に変わったのである。このような奇跡を見せたクベレは畏れと敬意によって国に迎えられ、奴隷の身分でありながらも巫女の下へと預けられた。


 自らを孕ませた雨と同じ色の黄金を瞳に宿したクベレは、あまり賢い少女ではなかった。用事を言いつけられれば行うだけの知恵はあったが、自ら何かを学ぼうという姿勢はない。巫女の側仕えとしての用がない時は、礼拝所の中庭で風と共に草花を眺め、鳥と共に心を空へ飛ばすような少女だった。ただし、どこから学んだものか歌の名手でもあり、幼いころから祭祀の歌い手として重宝されていたのである。クベレ自身歌を気に入っていたので、暇なときに鼻でメロディを諳んじたり、呟くように詩を風へと乗せることがよくあった。この詩の美しさだけならば、国の男たちはクベレの虜になっただろう。しかし、実際にはクベレを愛そうとするものはいなかった。彼女の名が地母神の意味を持つ所以のためである。


 朔の月になると、クベレの眼には変化が生じた。金の色は白に、白の色は金に、そして黒の色は冬の夜空へと変わるのである。この姿のクベレは、昼の姿とは異なった性質をはっきりと表していた。朔のクベレは夜が訪れると同時に若い男を抱く。そして、最後にはその男のファロス(突起物)を食いちぎってしまうのである。このような無法が許されるのは、事を終えたクベレが予言を行うからであった。


 クベレの予言は必ず的中した。山が崩れると言えば嵐が訪れ、川が枯れると言えば干ばつとなった。王が死ぬと言えばその通りになったし、麦が実ると言えばまたその通りになったのである。これは、祖霊からの託宣によってあらかじめ知らされていたことであった。朔の間に起きることを普段のクベレは覚えていなかったが、周りの者は彼女の予言を信じ、また畏れていた。


 ところが、クベレの変身が百ほど繰り返された時である。朔の日のクベレは予言をしなくなった。それどころか、男を抱くこともしなくなったのである。瞳の色を変じたクベレは、ただ夜に向かってどこの言葉ともしれぬ詩を歌い上げるだけであった。その調べは牡鹿のように力強く獅子のように勇猛だったが、雲のように捉え所がなく風のように吹き去っていく。国の民たちははじめこそ安堵していたが、やがてその詩が不吉の前触れでないかと思うようになる。聞いた者は多かれ少なかれ胸の奥に痛みのようなものを抱いたからだ。やがて、その恐怖は国の民たちに一つの決断をさせた。クベレを地下の牢屋へと幽閉したのである。それからというもの、クベレは普段は悲しみの歌を歌い、朔の夜にはおなじ歌を歌った。民たちはクベレを殺すに殺せずにいたが、二年ほど経ってから歌が途絶えた。クベレの魂が大地へと潜ったからである。


「なるほど、それであの廃墟からは歌が響くというわけだ」


 私はメモを取っていたノートから目を上げて、カフェのテーブルの上に座り込む醜い小男に話しかけた。この小男と出会ったのは数刻前。彼は風の妖精だと名乗り、ルガー社のシロップ一瓶とひきかえにこの地で見聞きしたことを教えてやると言い出したのだ。件の歌う修道院以外には名所もろくにないこの寂れた田舎町。旅行代理店の手違いを縁に訪れたものの暇を持て余していた私は、良い話が転がり込んできたと喜んでこの申し出を受けたのである。小男は町の小売店で買ってやったシロップを蓋に開けて一息にあおると、大げさにため息を付く。


「おいおい、人間ってのはこれだからいけねえ。そうだと思ったところで『止まっちまう』んだ。風としては理解できんところだ」


「そりゃどういう意味だい」


 思わず眉にシワが寄るのを自覚しながら、私は訪ねた。


「そのクベレとかいうのは死んでしまったじゃないか。それが牢の主だと言うんだから、他になにか考えるところがあるとでも?」


 しかし、小男はぬたぬたと粘ついた笑みを浮かべたままで答える。


「そりゃあ、あんた。なんだってこの話が地母神と関わり合うって思うんだね。ちょいと似た名前の女がひとり死んだってだけの話だぜ」


 それは、と続けようとして私は言葉に詰まった。言われてみれば、多少の予言の力があったからといって地母神と語り継がれるものだろうか。地母神(キュベレー)に纏わる話としては初めて聞いた話に興奮していたが、熱が引いてみれば奇妙な話である。小男の面白がる目がどうにも居心地が悪くなり、思わず顔を背けた。


「お茶のおかわりはいかが?」


 考え込んでいると、背中から女の声がした。見てみると、初老に差し掛かった女が立っている。さきほども料理を運んできたウェイターだ。


「ああ、いや結構」


「そうですか、こちらにはご旅行で? 何もないところでしょう」


「いいえ、そんな。あの歌う修道院の噂を聞いて、見に来たんです」


 来たくて来たわけではないとも言えず、とっさにごまかす。書き物はこの土地の文字でしていないので、何を書いているかもわかるまい。旅の記録でも取っていると思ってくれるだろう。しかし、この手の話好きの人間というのは、暇さえあれば聞いてもいないことを喋りだす傾向がある。二度も同じ話を聞く気はないのだが、彼女にはこの小男が見えないらしい。どう誤魔化したものかと考えていると、案の定女は喜色を浮かべて語りだした。


「ああ、あのお姫様の修道院」


 思わずオウム返しで聞き返しそうになるのを堪える。私の困惑をよそに、ウェイターの女は楽しそうに話し続ける。


「なんでも、昔。金の瞳をしたお姫様があの修道院に入れられて、故郷の恋人を思って歌っていたのを建物が覚えて、今でも時折歌うんだとか。実際は風の悪戯なんでしょうけれど、ロマンチックな話ですよね」


 満面の笑みの女に「そうですね」と生返事を返しつつ考え込む。女の話は、今しがた小男から聞いた話とも違うし、私がこの町に来る前に知っていた話とも違う。私の知っていた話は、修道院の下に建てられた古代の神殿の祭司が、祈りの声をうんぬんといった話だった。女の話に比べれば、小男の話のほうがまだ元々知っていた話に近いだろう。一体どれが本当の話なのだろうか。チラとテーブルの上の小男に目をやってみれば、面白がる目がこちらを見つめ続けるばかり。それからも女は雑話を続けたが、気のない返事をしている私に飽きたのか、「それじゃごゆっくり」と言うと奥へと引っ込んでいった。彼女の姿が見えなくなるのを確かめてから、私は小男に問いかける。


「おい、これは一体どういうことなんだ。あんたの話と、私の知っている話と、彼女の話。全部バラバラじゃないか」


「どういうと言っても、俺の話は千年も昔の話。あの女が言ってた話もいつかはあったかな。多分あんたが知ってる話もいつかにあった話だろうぜ」


 小男はまたシロップを一杯やると、ヘラヘラと答えた。


「なら、地母神の話ってのは一体どうつながるんだい」


「あんたに話してやっても良かったが、シロップがもう空になるからな。そろそろお別れだ」


 肩を竦める小男に私は思わず詰め寄る。


「そりゃあいくらなんでもあんまりじゃないか。シロップならまた買ってやるから最後まで聞かせてくれ」


「そりゃ無理だ。風というのは止まったら無くなっちまうもんだからな。まあ風の仕事は運び去っていくこった。その前も、その後も、知ったこっちゃない」


 そう言うと、小男は立ち上がり、テーブルの端で勢いよくかがみ込んだ。引き留めようと手を伸ばすが、なぜか小男の体に私の手がかからない。そんな私を振り返った小男は最後に言った。


「一つだけ話してやるとすれば、知の妖精なんてのはいないってこった。俺だって昔は風の神だったが、お前たちが来る随分も前に、風の妖精になっちまった。クベレの奴もいくらかは妖精になったが、そうでない部分もあったんだなぁ」


 小男がしみじみとした調子で言い終わるが早いか、強い風が吹いて私は思わず目を瞑った。そして再び目を開けたときには、小男の姿はどこにも見当たらなかったのである。釈然としない心のまま、修道院の廃墟を風が吹き抜ける音を聞く。その歌は悲しげにも、寂しげにも、どこか嬉しげにも聞こえた。

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