神格
ふと、瞼の内側が明るいことに気づいた。
外からの光がさしているのだろうか。
柔らかな風の感触が頬を撫でていく。
春の朝の、瑞々しい空気の匂い。
自然に、瞼が開いた。
慣れ親しんだ天井の美しい木目が視界に入る。
「…………ふう」
部屋に満ちる風を、肺に思い切り吸い込んだ。
ひんやりとした清浄が胸を満たす感覚。言葉にならないほど心地良い。
「——お目覚めになりましたか、旭様」
安堵したような声音が、俺の褥に走り寄る。
鴉の声だ。
以前と同じように、俺を起こしに来てくれたのだろう。
「ん、おはよう、鴉。
なんかすごくよく寝た」
むくりと身を起こした俺を見て、鴉の表情に一瞬息を呑んだような気配が過ぎった。
しかしそれを一瞬で消し去り、鴉はその場に正しく座すると、俺へ向けて深々と額を伏せた。
「旭様。この度は、齢分の儀のご成就、誠におめでとうございます!!」
凛と張ったその声は、喜びを隠しきれないように微かに震えている。
鴉の言葉に、俺は眠りに入る前のことをおもむろに回想した。
「……齢分。
そっか。そうだった……!」
「今朝は、齢分の儀を行った夜から三日目の朝にございます」
「え、三日!? 俺そんな寝てたの!?」
額を上げた鴉は、緊張を解いた柔らかな笑みで頷く。
「はい。
儀を終えて気を失われた旭様を、瑞穂様が抱きかかえてここまでお連れになりました。旭様の額には汗の粒が浮き、お身体はまるで火のようでした。
齢分の苦痛は決して術で鎮めてはならぬと瑞穂様は苦しげに仰られ、瑞穂様直々に旭様のお手当てをされておりました。
瑞穂様がここへおいでになれない時間は、私だけでなく青鷺や侍医の蝮がこの居室に参上し、旭様のお手当に当たっておりました。
なかなかお熱が引かず、つい先ほどまで酷くうなされるご容態が続いていたのでございます」
「え……それ、まじで?
俺、さっきまでうんうん言ってたってこと……?
そういえば、着てるものがじっとり体にへばりついてる……」
「左様にございます。命の危険はほぼないとはいえ、城の者たちも皆、旭様のご容体を心より案じておりました。
旭様がこのようにお健やかにお目覚めになったこと、真に——真に、嬉しゅうございます」
鴉の眼差しが、俄に潤んだ。
俺は苦しさなど全く感じずにぐっすり眠りこけた体感しかないため、それほどみんなに心配や手間をかけさせてことにあわあわと慌てる。
「いや、なんかほんとごめん!! いつもいつも世話ばっかりかけて……ここからはもう自分でやれるから! まず着替えて体洗って、このぐっしょりした布団も干さなきゃだし……!」
「——旭様は、やはり少しもお変わりにならぬのですね。半神となられても」
ふっと嬉しそうに呟く鴉の言葉を、俺は思わず聞き返す。
「へ?
鴉、今なんて?」
「旭様は、齢分の儀を経て、今や半神となられました。
その証拠に、瞳の色が、これまでと違うお色に輝いておられます。
瞳の色が変ずるのは、神格を得た何よりの証明にございます」
「……瞳の色?
俺、齢分の前と、目の色違ってるの……?」
「はい。こちらの手鏡にてご覧くださいませ」
鴉が懐より差し出した小さな手鏡を覗く。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
鏡に映った顔は、紛れもなく数十年を遡り……まさに齢分に臨んだ十七歳頃のものだった。
いや、しかし。若い時の自分とも、かなり違う。
恐る恐る指でなぞった頬は瑞々しく張りを持ち、透き通るように滑らかだ。こんな恐ろしいほど美しい肌になったことは未だかつてないと言い切れる。
たった数日で随分と伸びた髪の色も、何か青の褐色を帯びた吸い込まれるような黒だ。昔はもっとごく普通なダークブラウンだったのに。
そして——瞳の色が、深い紺青色に変わっていた。
青空が宇宙の闇に変わっていく境目のような、不思議なグラデーションを帯びた色だ。
「……俺、なんか昔の俺と違う……」
「旭様が、かつて最初に瑞穂様にお会いになった時のことを、覚えていらっしゃいますか?
その際、瑞穂様の全身から人ならぬ気配を感じ取られたことと存じます。
旭様も、齢分により、瑞穂様と同様の『人ならぬ気』を纏いつつあるのでございますよ」
この肌の奇妙な透明感や、髪や瞳の色。何か背中が微かに冷えるような気配。
俺の部屋のベランダに初めて降り立った瑞穂の、言葉にならない清浄な気配をありありと思い出した。
「……そ、そのせいなのか……
そう言われると、ちょっと納得がいくというか……」
「身を清められましたら、すぐさま蒼鷺をお呼びいたします。お髪や装束を美しく整えるよう申し付けましょう。蒼鷺が気合を込めて整えた旭様のお美しさが楽しみにございます」
「…………あのさ。
俺、見かけは多少変わっても、中身はこれまでと全然変わらず平凡な人間っぽいままだと思う。いつまで経っても。
それでも大丈夫なのかな?」
「ははは!」
鴉は大きく笑った。
「そのようなお人柄だからこそ、瑞穂様や初穂様、刻の守様、全ての方が貴方様を深く愛し、これからを託したいと願うのでございましょう」
「……そう、なの?
よくわからんけど、鴉のその言葉聞けてめちゃくちゃ安心した……」
「ははは! 貴方様はまことに愛らしいお方にございますな。
本日瑞穂様は刻の守様の離宮へお出かけになり、今はご不在にございますが、夕刻にはお戻りになられます。旭様のお目覚めをどれほどお喜びになることでございましょう。
城の皆にも、旭様のお目覚めを急ぎ報告して参ります」
「……うん。
ありがとう。鴉。
城のみんなにも、伝えてほしい。心より感謝します、って」
ここにきて様々な感情が一気に胸に込み上げてくるのを感じながら、俺は鴉に深く頭を下げた。
*
その日の夕刻。
蒼鷺に身なりを整えてもらった俺は、瑞穂の居間で彼の帰りをそわそわと待った。
髪は昔のように後頭部で一つに束ね、白と紺を組んだ美しい組紐で結われている。
久々に施された化粧と、艶やかな濃紺の羽織袴。気恥ずかしさが半端ない。
夕餉の少し前。夕闇が濃くなる頃、瑞穂が帰城した。
空の彼方から姿を現した垓は、夕暮れの光に鱗を輝かせながら城の欄干へ静かに身を寄せた。
その巨大な額から、滑らかな身のこなしで瑞穂が回廊へと降り立つ。
銀の長い髪を靡かせ、引き締まった肩と背が垓を優しく撫でている。
垓を見送り、こちらを振り向いた瑞穂は、かつて齢分に臨んだあの夜のままの艶やかな姿を取り戻していた。
瑞穂もまた、俺を視界に捉えた瞬間、ぐっと喉を詰まらせたかのように息を飲み込んだ。
「——旭」
小さくそう呟いた瑞穂は、俺に向かって大股に歩み寄り、俺の返事を待たぬまま大きな袂の中に俺を抱き寄せた。
「目覚めたか」
「うん」
「良かった」
何だかめちゃくちゃに頬が熱を持つ。俺は瑞穂の懐に顔を押しつけたまま、もごもご呟いた。
「——瑞穂、そんなかっこよかったっけ?」
「ははは!」
瑞穂は大きく笑ってから、真顔になって俺を覗き込んだ。
「そなたは——」
「な、なんかよくわかんないよな。思った以上に自分が昔と違うから、俺もちょっとびっくりしちゃって」
言おうとした何かを寸前で飲み込んだかのように、瑞穂は優しく微笑んだ。
「そなたは、昔と変わらぬ。少しも、変わってはおらぬ」
「……瑞穂にそう言ってもらえて、ほっとした」
俺の両肩を静かに胸元から離し、瑞穂は間近で俺を見つめた。
「そなたの瞳の色は、齢分の夜に私達が蝋燭の炎に念じた言葉がそのまま映ったものだ。
青空のような、宇宙の紺青のような——不思議に澄んだ色だ。
その瞳と、早くひとつになりたくてたまらぬ」
「——うん」
齢分の力だろうか。
離れ難く絡み合う蔓のような、強烈な気が行き交うのを感じる。
「——今宵、命を宿す力をいずれかの身に受ける儀を執り行う。
その時までに、どちらの任を選ぶか、そなたの意を固めて欲しい」
「わかった」
呼吸を乱すほどに打ち始める心拍を何とか抑えつけながら、俺は瑞穂の水の瞳を見つめ返した。
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