齢分

 俺が瑞穂に決意を告げた日から、十日後の深夜。子の正刻(深夜零時)。

 祭儀の間に、齢分の儀の支度が整えられた。

 身を清めた俺は、目の覚めるような純白の装束に着替える。


 かつて、齢分の成就を目前にしながら、嫉妬に狂った百合の精に儀式を妨害されたこと。彼女が俺に吹き込んだ毒により命を落としかけたこと。体内の毒を消すには人の世へ戻る以外に方法がなかったこと。——下界に戻った俺を追って瑞穂が神の座を降り、人として共に暮らした年月のこと。

 ここまで辿ってきた苦悩と幸せが胸の奥からごちゃ混ぜに溢れ出し、白い帯を締める指が微かに震えた。


 翡翠の玉を繋いだ首飾りを静かに俺の首にかけながら、瑞穂がこれからの儀式の次第を告げる。

「旭。これから申すことは、違うことなく守ってほしい。よいな」

「わかった」

 瑞穂の厳粛な面持ちに、俺もざわつく緊張感をなんとか鎮めながら頷いた。

「まず、最も大切なことから申す。

 齢分の酒は、決してひと息に飲み干してはならぬ。

 いくつもの強い呪言を込めた酒は、たとえ盃一杯とて老いた身体には負担が大きい。私はひと息に飲み干しても耐えられるが、そなたは舐めるように一口ずつ、ゆっくりと飲み干すのだ」 

「舐めるように、一口ずつ……」

 一言一言言い聞かせるような瑞穂の言葉を、脳に刻みつけるように小さく反芻する。

「全て飲み終えると、強い眠気が訪れるであろう。一時的に意識を手放すやもしれぬ。しかし必ず再び目覚めるゆえ、恐れることはない。

 飲み終えるまで、私がそなたを支えておる。飲み干した後は私に身を委ねておれば良い。

 ——よいな? 旭」


 不意に、かつての齢分の光景と自分を襲った苦痛が生々しく蘇った。

 儀式の際、栓を開けた酒から立ち上る濃厚な香りを吸い込んだだけで、強い目眩を催したのだった。

 盃を口に運ぼうとした瞬間の、呼吸を完全に奪われた苦しみと恐怖。百合の精の毒の影響とは言え、何かトラウマのような反射的な恐怖感が俺に襲いかかる。


 大丈夫なのだろうか。

 もしも、酒を飲み干したまま、再び目を開けることができなかったら。

 それきり、瑞穂に会うことができなかったら。

 次に目覚めたときには、むしろ俺自身が消失していたりしたら——。


「——怖い」


 瑞穂の瞳を見つめたまま、気づけばそんな呟きが唇から漏れた。


 俺の心の奥を感じ取ったように、瑞穂の白銀の袖が俺を優しく包む。


「案ずるな。

 あの頃と今は違う。

 私達を邪魔する者は、誰一人おらぬ。

 一度は機会を逃しながら、私達は再び齢分に向き合える幸運を手にした。——私達の齢分は、成就する定めなのだ」


 瑞穂の水の瞳が、揺るがぬ輝きを湛えて俺を見つめる。

 その眼差しと静かな声音に、激しく揺れていた感情がすうっと波を止めて凪いでいく。


 俺も、ひとつ深く息を吸い込んだ。

 自然と口元に微笑みが湧く。


「……うん。そうだね。

 わかった。瑞穂の言う通り、少しずつ飲むよ」

「そなたの傍におる。何一つ恐れることはない」

「うん」

 瑞穂の胸に顔を埋め、慣れ親しんだ甘い水の匂いを思い切り肺に吸い込む。

 神をやめて人の世に降りてからも、瑞穂のこの匂いはずっと変わることがなかった。


「——そなたが目覚めたら、その夜に、私達のいずれが子を宿すかを決めるための儀を行いたいと思うておる。

 かつても話したが、私はいずれの任でも喜んで引き受けよう。そなたが望む役割を、よくよく考えて決めて欲しい」


 額を押し付けた胸元から響く低音が、振動となって脳に届く。


 俺たちのどちらが子を宿すかを決める、儀式。


 その答えは、もう俺の中で決まっている。かつて自分に下した決断は、今も変わってはいない。

 いずれにしても——その夜は、どちらが何の役割をなどという思い煩いは、すぐにどこかに吹っ飛んでしまうに違いない。


「——うん。

 それも、わかった」


 ぼっと一気に熱を持った頬に気付かれたくなくて、俺は瑞穂の胸からなかなか顔を上げられなかった。








 丑三刻(午前二時)。

 祭儀の間の大きな祭壇の両脇に、蝋燭が灯された。

 祭壇に向かい、印を結びながら唱える瑞穂の静かな呪言が、広間の空間を厳かに満たしていく。

 俺は目を閉じて胸の前に合掌し、一心にその響きを噛み締める。先程までの胸の波立ちは治まり、心は鏡のように凪いでいる。


 呪言を唱え終えた瑞穂は、祭壇に灯した二本の蝋燭を燭台から取り出し、俺の目の前と自分の前に置かれた燭台に一本ずつ挿してゆく。

 祭壇へ深く一礼し、瑞穂は俺の隣へ静かに座した。

 背筋を整えて印を結ぶと、瑞穂はかつてと変わらぬ通る声で祝詞を告げた。


「この二つの灯が一方を残して消ゆることのなきよう、固き契りを結ぶものとする」

 

 ぶわりと、不意に目の奥に涙が込み上げた。 

 滲んだものを何とか引っ込め、小さな炎を一心に見つめて願いを託す。


 今度こそ、叶える。託されためいを、二人でやり遂げるために。

 俺の思念を受け止めたかのように、炎は微かに揺れながらふわりと大きく立ち上がった。



「良いか、旭」

 瑞穂の声に、静かに頷く。

 それを確認し、厳かな所作で立ち上がった瑞穂は、祭壇の前の酒の置かれた台へと進む。深く一礼をすると、その台ごと額の前へ捧げ持った。

 目の前に運ばれた徳利の放つ凄まじい気に、自ずと心拍が上がる。

 酒の前で小さく印を結ぶと、瑞穂は徳利の口にかかった紐を解き、静かに栓を開けた。

 二つの杯にとろりとした黄金色の液体が注がれる。意識を惑わす甘い梅の香りが立ち込めた。

 儀式に則った厳格な所作で、その一つを瑞穂が差し出す。

 額を伏せて両手で受け取り、そのまま捧げ持った。

 

 自らの杯を両手で額の前へ掲げ、瑞穂が祝詞を唱えた。

「この杯を交わし、齢分と為す」


 瑞穂に教えられた言葉を脳内に繰り返しながら、盃を口元へ引き寄せる。

 舐めるように、少しずつ。

 唇に触れる、ひやりと滑らかな感触。濃厚な香りと甘みが口の中に広がった瞬間、脳内が真っ白に吹っ飛ぶような凄まじい衝撃に襲われた。


「——……っ」


 訳の分からない感覚にぐらついた背が、横からしっかりと支えられた。

 気づけば、瑞穂がすぐ傍に跪き、長い腕で俺の肩と背を包むように守っている。

「大丈夫だ」

 柔らかな微笑が、俺を見下ろす。

 一度に盃を飲み干し、すぐさまここへ来てくれたのだろう。その息からも咽せ返るほどに梅が香る。


 大丈夫だ。一緒なら。

 何があっても。

 大きな温もりと穏やかな眼差しが、すぐ傍で支えてくれている。


 瑞穂へ向けて深く頷き、俺は再び盃を口に運んだ。

 少しずつ。

 僅かな量なのに、一口ごとに脳が焼け、目が眩む。意識を握りしめていなければ一瞬でバラバラになりそうだ。


 とうとう、最後の一口を飲み干した。

 空になった盃を瑞穂に手渡すと同時に、ぐらりと視界が大きく回った。

 全てが一気に空中へ拡散していく感覚と同時に、視界が真っ白な光に包まれ——そのまま意識はふつりと途切れた。



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