迷い

 俺が雨神の城の天守で目覚めて、十日後。

 瑞穂と俺は、瑞穂の遣い龍であるがいに運ばれ刻の守の離宮へ向かっていた。


 刻の守は、強大な力を持つ神である星の守の祖母にあたる。悠久の時を司り、星の守を凌ぐ凄まじい力でこの星の運命を動かしている存在だ。

 かつて彼女は星の守の居城の一室で暮らしていたが、星の守が瑞穂に課した残酷な仕打ちをきっかけに孫と居を分かち、今は森に囲まれた小さな離宮で暮らしているという。


 遣い龍の垓とも、先程久々の再会を喜び合った。

 瑞穂が空へ向けて送った合図からしばし後、垓は虹色に輝くしなやかな巨体を美しく畝らせながら雲間から現れた。

 城の欄干に立つ俺の姿を見つけると、彼はその大きな目を一層強く見開き、ごおっと鼻を鳴らした。

「ただいま、垓!!」

 速度をぐんと上げて欄干へ身を寄せた垓の鼻先に、思い切り抱きついた。

 垓はその嬉しさがダイレクトに伝わる優しい音でグルグルと喉を鳴らし、押し潰されるかと思うほど強い力で俺に巨大な鼻を擦り付けた。



 星の守の城から程近い森の中に作られた美しい庭園に、垓はふわりと降りた。

 静かな池の水面に、艶やかな黒の趣深い離宮が映り込んでいる。

 従者に案内され、磨き込まれた黒い廊下を歩く。ひんやりと滑らかな足裏の感覚が心地よい。


「よう来たな。瑞穂殿、旭殿」

 従者が静かに開けた襖の奥、刻の守は背の曲がった小さな体を濃紺の大きな褥の上にちょこんと乗せ、かつてと変わらぬ温かな笑みを浮かべた。

「お久しぶりでございます。刻の守様」

 刻の守の向かい側に用意された褥に着座した瑞穂と俺は、深く額を伏せた。

 刻の守が従者に運ばせた柚子の干菓子と茶の心安らぐ風味に、思わずほおっと深い息が漏れる。

「めちゃめちゃ美味しい……」

「ほほ、旭殿は全く変わらぬのう。見かけこそ老いたものの、相変わらず大層愛らしゅうて」

「は……? えっと、こんなおじいちゃんに可愛いってのは流石に意味わかりませんが……」

「やはり私の言った通りであろう。おじいちゃんになってもそなたは可愛い」

 刻の守の楽しげな笑みと瑞穂の謎のドヤ顔に、俺は年甲斐もなく照れて俯いた。


「さて。今日そなたたちを招いたのは、昨夜初穂より知らせがあったからじゃ。旭殿の体調が万全であれば、そろそろ出立の準備を進めてはどうか、とな」

 佇まいを改め、刻の守は穏やかな眼差しで瑞穂と俺を見た。


 出立の準備。

 その話は、三日ほど前に瑞穂から聞いていた。


 瑞穂の祖父にあたる初穂が主となっている、新たな星。そこで育まれるこれからの命のために、初穂は瑞穂を新たな神として迎えたいという。——そして俺は、瑞穂の正式な伴侶として、瑞穂を支える任務を期待されている。


 かつて瑞穂が力を尽くして完成させた齢分の酒は、あの時の儀式が不成立だったためにそのまま呪力を保っているという。しかも、齢分の酒には、儀式を受けた二人を子を成せる年齢にまで若返らせる力も秘められている……らしい。

 その話を聞いて、俺の思考はまさに驚きでひっくり返った。

 俺が同意すれば、瑞穂と俺は今度こそ齢分の儀を執り行い、垓で初穂の星へ向かう。新たな命の宿る星を、地球のように深い悲しみに沈む場所にしないために。


 黙り込んだ俺の様子を見て、刻の守はおもむろに瑞穂へ視線を向けた。

 瑞穂は微妙な表情を浮かべる。

「それが、まだ旭の同意を得られぬのでございます」

「ほお……」


 刻の守の視線を真正面から受け止め、俺はあわあわと今の心境を説明する。

「だっだって。俺ですよ!? 何の取り柄もなく平凡この上ない、フツー過ぎるちっぽけな人間だったヤツですよ!? そんな俺が、新しい星の新しい神様のパートナーとか……こんなふうに最強の神様方から期待されるとか土台無理じゃないかっていうか……!」


 これからも、ずっと瑞穂の傍にいられたら。

 そんなことが叶うなら、本当に夢みたいだ。

 けれど——


 俺の様子に、刻の守は穏やかに微笑んだ。

「ほほ。そなたに期待しておるわけではないぞ。

 そなたが今度こそ瑞穂殿の正式な伴侶となり、後継となる子を成し、真の幸せを得た瑞穂殿が本領発揮してくれることに期待しておるのじゃ。そなたなしでは、瑞穂殿は腑抜けだからの」

 今度は瑞穂があわあわと慌てる。

「とっ刻の守様、今それをおっしゃらなくとも……!」

「おお、これは済まぬな。初穂殿の口癖がうつってしもうたようじゃ」

 さらりと躱す刻の守の返答に、瑞穂は少しの間黙り込んでから呟いた。

「……まさに、刻の守様の仰る通りにございます」


 瑞穂は顔を上げ、真っ直ぐに俺を見た。

「旭。

 私は、ひとりではまともに神の仕事などこなせぬ腑抜けだ。

 それでも、この先永くそなたと共に過ごせるならば——二人で大切なものを生み出し、創っていけるならば。

 どんなことでもできる心持ちがするのだ。

 私ひとりではそなたに言えなかった言葉を、刻の守様が全て明らかにしてくださった。

 そなたに重荷を背負わせる気は一切ない。

 そうではなく——ただ、私の傍にいてほしいのだ。

 私と共に、生きてはくれぬか」


 刻の守も、俺に向けてますます背を丸め、静かに額を伏せた。

「私からも、お願い申す。

 そなたの迷いも、痛いほどよくわかる。そなたは元々、何の変哲もない人間であったのだからな。長い年月を神と寄り添い、子を成し、新たな星を創るなど、気の遠くなるような話のはずじゃ。

 それでも、そなたがひとりの神の命運を、そしてひとつの星の命運を握っていることも、また間違いないことなのだ」


「——……」


 大いなる神から頭を下げられ、俺は思わず言葉を失う。

 顔を上げた刻の守は、心臓を射通すかのような真剣な眼差しで俺を見つめた。

「そなたが同意できぬとなれば……それも致し方のないことじゃ。

 瑞穂は別の伴侶を探し新たな神として初穂の星へ赴くか……または、そなたも瑞穂も、やがて別々の生き物へと転生し下界へ降るか、いずれかじゃ。

 そうなれば、そなたたち二人は今度こそ永久に別れることとなろう。

 旭殿にとって、何を選択するのが最善か。よくよく考えて決めてほしい」


 俺の選択が、何かとてつもなく大きな流れを左右するらしいことが、その場の空気からビリビリと伝わってくる。

 俺は握りしめた掌にびっしょりと汗をかきながら、唇を噛み締めた。


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