まだ名前のない関係
えもやん
第1話 春風に揺れる距離
「なあ、今日って何の日か知ってる?」
放課後の図書室。窓の外では春風が桜の花びらをさらっていた。机の向かい側で、ノートに落書きをしていた悠人がふと顔を上げて、私を見た。
「うーん、なんの日だっけ?」
「嘘つけ、絶対知ってるだろ」
「ほんとに知らないよ」
そう言いながら、私は彼の目を見ないように視線を逸らす。だって、分かってる。今日は、私たちが初めて出会った日だ。中学の入学式、クラス分けの掲示板の前で地図の読めない私に声をかけてくれたのが、悠人だった。
「三年前の今日、お前、道に迷って泣きそうな顔してた」
「泣いてないし」
「泣いてた」
「泣いてない」
「ちょっと泣いてた」
「うるさい」
そんなくだらないやり取りが、私たちの日常だった。
勉強も、部活も、恋バナも。すべてを共有してきた。クラス替えしても、進路が違っても、いつも一緒にいた。
だけど、最近少しだけ、彼の言葉や仕草に心が波立つようになった。
誰かと話しているときの笑顔に嫉妬したり、手が少し触れただけで鼓動が早まったり。そんな自分が、怖かった。
「なあ、今日さ、帰りに寄り道しない?」
「どこに?」
「秘密」
「またラーメンとか言わないでよ」
「そんなガキじゃないって」
笑いながら、彼は立ち上がり、私のカバンをひょいと持った。
「お姫様、お迎えに参りました」
「返せ、バカ」
「はいはい、行こーぜ」
そして連れてこられたのは、小さな河川敷だった。桜が満開で、誰もいないベンチがぽつんとある。まるで映画のワンシーンみたいで、私は少しだけ言葉を失った。
「ここ、いい場所でしょ。最近見つけたんだ」
「うん、すごく綺麗」
春風が、また花びらを舞い上げる。
「俺さ、ずっと思ってたことがあるんだ」
急に真剣な声で、悠人が言った。風の音が一瞬、止まった気がした。
「お前といると、安心する。楽しいし、落ち着くし、でも時々ドキドキもする。これって、何なんだろうって考えてた」
「……うん」
「俺たちって、さ。友達って言葉じゃ足りない気がするけど、恋人って感じでもないよな」
私はその言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
「……うん、そうだね」
「でも、たぶん俺、ずっと前からお前のこと……好きだったんだと思う」
目が合った。嘘じゃないってわかった。
「でも、怖かった。今の関係が壊れるのが嫌でさ」
「私も……同じだった」
言葉にした瞬間、なにかがほどけた気がした。
「じゃあ、これからどうする?」
「……まだ分からない。でも、この距離は好き」
「そっか」
「でも、もう“友達以上恋人未満”じゃいられない気もする」
「うん、少なくとも、“ただの友達”じゃないよな」
桜が風に舞う。ほんの少しだけ、距離が縮まった。
それは、恋のはじまりにも似た春の出来事だった。
まだ名前のない関係 えもやん @asahi0124
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