第5章 第二の学校

妖精界の学校『ミル・アカデミー』は、現女王アリアが初代校長として築き上げた、妖精界唯一の六年制学校である。


「久しぶりに来たけど、相変わらずだな」


 トトは腕を組んで校舎を見上げる。白レンガで造られた校舎は日菜が思っていたよりも小さく、別に建てられた塔の一番上には大きな銀色の鐘が吊るされていた。


「まずは先生たちに挨拶だね」


 ララは校舎を指差して日菜の手を引く。トトを置き去りにしてやろうとララは強く手を引くが、日菜はその場を動かなかった。


「ゆっくり行こうよ」


 ララの企みはいつも、純粋なものによって台無しにされてしまう。日菜の言葉に、ララは素直に従うしかなかった。


 職員室を覗くと、緑の髪を三つ編みで一つに束ねた女の妖精が、三人に気づいてすぐに駆け寄ってきた。


「もしかしてあなたがヒナさん? 女王様から伺ってますよ」


 日菜の目線に合わせしゃがんだ先生はにっこりと笑う。戸惑う日菜は双子の方を振り向いて助けを求めた。


「ミント先生、お久しぶりです」


「お久しぶりです!」


 落ち着いたトトとテンションの高いララが同時に挨拶をする。おっとりとした口調の先生は双子の頭をそっと撫でた。


「しばらく見ないうちにこんなに成長して、先生は嬉しいです」


 まるで猫のようにそれを受け入れる双子。女王が撫でた時とは大違いだ。


「そういえば、ヒナさんはどこから来たのですか?」


 先生は日菜が人間だということを知らない。もちろんそれは誰にもバレてはいけない。今日菜が人間だということを知っているのは、双子と女王以外にはいないのだ。


「あ、えーっとね、それは……」


 ララは明らかに動揺していた。転入生を紹介するのに出身地は必須だ。おじさんに説明したような曖昧なものでは誰も納得しないだろう。


「くだもの村だ。田舎だからわかんないかもだけど」


 トトが平然と嘘をつく。くだもの村など、実際には存在しない。


「そうなんですね。転入表に書いておかなきゃ。ちょっと準備があるので、ここで待っていてください」


 先生は慌てた様子で机の上の書類を漁っている。職員室で一番汚い机上からたった一つの書類を探し出すのは困難だ。他の先生は見慣れているようで、特に気には留めていない。


「兄ちゃん、あんな薄っぺらい嘘で大丈夫なの?」


「お前にだけは言われたくない。まあ、大丈夫だろ」


 妖精界は広い。妖精界に住んでいる者でも、まだ知らない生き物や世界が隠れている。意地でもくだもの村を探し出すような妖精は稀なのだ。


「お待たせしました。教室に案内しますね」


 くしゃくしゃの書類を持って戻ってきた先生。『一年生』と書かれた札がぶら下げてある教室まで、一直線に歩き出した。日菜はその後ろを黙ってついていく。


「俺たちは外で待ってるから、楽しんでこいよー」


 日菜が振り返ると双子は手を振っていた。不安な気持ちを抑えながら、日菜も同じように手を振った。


 一年生から六年生まで、クラスはそれぞれ一つずつしかない。一クラスは三十人ほどで、女子が三分の二を占めている。


 先生が教室に入り、「どうぞ」という合図で日菜も教室に入る。生徒たちの目線が一気に日菜に向けられた。


「あ、えっと、日菜です。よろしくお願いします」


 トトから事前に、「苗字を名乗ってはいけない」と聞いていた日菜。妖精には苗字がなく、その代わりに『家系魔法』という、その家に代々伝わる魔法で判別している。しかし、日菜にはそれさえもないため、どうにか誤魔化していかなければならない。


「皆さん、仲良くしてあげてくださいね」


「先生―! ヒナさんはどこから来たんですかー?」


 先生の言葉を遮り、一人の生徒が質問する。好奇心旺盛なのか、その目はきらきらと輝いている。


「ヒナさんはくだもの村というところから来たんですよ、先生は知らなかったので、一度行ってみたいですね」


 先生はのんびりとした口調で丁寧に説明した。その雰囲気が生徒たちに好かれるようで、よく低学年の担任を任されている。少し癖のあるおっちょこちょいな先生、それがミント先生である。


「ヒナさんの席は窓側の一番後ろですね。たくさんお友達作ってくださいね」


 先生は空いている席を指差し、日菜を優しく送り出した。隣の席に座っていたのは、物静かな少年だった。


「あの、よ、よろしくね」


「あ、うん」


 これ以上会話は続かず、沈黙が訪れる。日菜の決死の挨拶は、たった一言で跳ね返されてしまった。その少年は、興味がない、といった様子で前をぼーっと見つめている。日菜はそれを見て話しかける気を失ってしまった。


 日菜が席に着いたのを確認した先生が口を開いた。


「早速ですが、次の授業は体育です。皆さん、十分後のチャイムまでに校庭に集合してください」


 先生の言葉に明るく返事をした生徒たちは一斉に外へと走り出した。


「廊下は走っちゃだめですよー」


 一応注意した先生は、教室に一人残った日菜に話しかけた。


「最初は慣れないこともあると思いますが、皆さんいい子たちなので大丈夫ですよ。隣の席のミヅキくんは誰に対してもあんな感じなので、気にしないでくださいね。さあ、ヒナさんも行きましょう」


 先生はにこにこと笑って教室を後にした。隣の席のミヅキのことを頭の片隅に置いて、日菜も校庭へと急いだ。




 一年生最初の体育は、妖精にとって最も重要な技術。


「皆さん、空を飛びましょう!」


 先生の言葉にはしゃぐ生徒たち。


電車や車、人間界でいうところの交通機関が妖精界には存在しない。つまり、飛べない者は遠くの世界をまだ知らない。


「まずは意識して、羽をゆっくり動かしてみましょう」


 無意識を得るには意識から、先生がお手本を見せながら説明する。二、三回目の授業ぐらいまではこれを続け、徐々に動かす速度を上げていく。


「先生、つまんなーい」


「おもしろくなーい」


 生徒たちが口々に文句を言い始めた。確かに羽を動かすだけで飛べる気配が一向にしない。毎年の一年生恒例のわがままタイムである。


「じゃあ、少しゲームをしましょうか」


 この状況をミント先生は嫌がらず、逆に楽しんでいるようだ。文句を言っている生徒たちを集め、向かい合わせに円になるよう指示をする。


「今、円を作っている子たちは、自分が出せる一番の速さで羽を動かしてください。それ以外の子たちは、誰が一番速く動かせているか、よーく観察してみてくださいね」


 先生は表情を一切変えず淡々と説明する。この笑顔の裏では何を思っているのか、日菜は綺麗に作られた円を見ながら、先生がしようとしていることの意味を考える。


「ではいきますよー。よーいスタート!」


 先生が手を叩いたのを合図に、円を作った生徒たちが一生懸命に羽を動かし始めた。日菜はぐるっと円を一周したが、特に大差はないように見える。


「はい! 終了―!」


 先生が再び手を叩き、約三十秒のゲームが終了した。


「一人ずつ名前を言うので、一番速かったと思う人に手を上げてください」


 円に混ざらなかった生徒たちは、先生が呼ぶ名前に次々を手を上げていく。多数決で決まった生徒が一人、先生の前に呼ばれた。


「じゃあ、次は先生と勝負しましょうか。先生が今から羽を動かすので、さっき見た皆さんのとどちらが速いか、よーく見てくださいね」


 先生は胸にそっと手を当て、さっき呼んだ生徒に合図するよう指示した。


「よ、よーいスタート!」


 生徒の拙い合図で先生は羽を思いっきり動かし始めた。その速さはもちろん、生徒とは比べ物にならないどころか、速すぎて止まって見えるほどだ。日菜も他の生徒たちも、その光景に言葉が出ない。


「お、終わり!」


 約三十秒間、呆気に取られていた生徒が慌てて終了の合図を出した。そしてまた、口々に文句が聞こえてくる。


「そんなのずるい! だって先生だもん!」


「大人なんだから勝つに決まってるじゃん!」


 確かにその通りだ。子供が大人に勝てるはずがない。経験してきたものが違うのだから、飛べる者に飛べない者が羽を動かす速さで勝つのは、絶対に不可能である。


「あら、少し本気を出しすぎてしまいましたね。でも先生も、皆さんと同じ授業を受けてここまで速くなったんですよ」


 文句の声がぴたりと止んだ。


 妖精界に住むほとんどの者はミル・アカデミーの卒業生だ。ここで教えている先生たちも同様、低学年で基礎を学び、高学年で応用を学び、立派に卒業して今に至るのだ。授業内容は創立当初から何一つ変わっていない。


「何事も最初が肝心! ってことですね」


 先生は怒ることもなく、相変わらずの笑顔で生徒たちに教えを説く。


「わがまま言ってごめんなさい」


「僕も、ちゃんと練習して先生みたいに速く動かせるようになりたい!」


 今度は反省とやる気の言葉が生徒たちから溢れ出る。日菜も改めて気合いを入れ、生徒たちは再び羽を動かし始めた。


「おお、やってんねえ」


「懐かしい、僕たちもよく速さ比べしてたよね」


 トトとララが様子を見に来た。それに気づいた生徒たちが一斉に双子に駆け寄る。


「わあ! 久しぶりだね!」


「今までどこにいたのー?」


 今の一年生にとっては大先輩の双子。女王の子供ということもあって知らない者はいない、人気者の妖精なのだ。


「待て待て、一人ずつ聞いてやるから」


「お、落ち着いて」


 おしくらまんじゅうのように詰め寄る生徒たち。もう授業どころではなく、先生も諦めている様子だ。その群衆に混ざらなかったのは、日菜とミヅキだけだった。日菜はチャンスだと思い、ミヅキに話しかけた。


「ミヅキくんは行かないの?」


「騒がしいのは嫌いだから。そういう君こそ行かないの?」


 同じ家に住んでいるとは到底言えない。人間だということも、トトのせいで妖精になってしまったということも、ミヅキには言えないことばかりだった。


「わ、私も騒がしいのは苦手、かな」


「そっか」


 咄嗟に考えた言い訳も、どうでもいいというように適当な返事であしらうミヅキに、日菜は少し寂しさを覚えていた。


 そんな二人の様子を人混みに揉まれながら見ていたトトは、群衆をかき分けてミヅキに近づいた。


「久しぶりだなミヅキ。元気してたかー?」


 わしゃわしゃとミヅキの頭を撫でるトト。せっかくの淡い金髪ショートが掻き乱されて台無しになっている。


「元気だよ。トト兄は、相変わらずだね」


 ミヅキはトトの行動に一切動じず、無表情でそれに耐えている。嫌がっているというのが、日菜の目には明らかだった。


「おう。日菜ちゃんと仲良くしてやってな」


 トトが作り物のような笑顔でミヅキに言う。日菜はその言葉に一瞬肩を震わせた。なでなでタイムから解放されたミヅキがこちらを見つめている。


「知り合いなの?」


「まあ、ちょっと色々あってな」


 ミヅキの質問にトトは言葉を濁した。疑いの目をトトと日菜に交互に向けたミヅキは一つの答えを導き出した。


「またしでかしたんだね、トト兄」


「な、なんのことだ?」


 しらを切るトトだが、ミヅキは完全に気づいてしまった。


「隠したいだろうから言わないけどさ、本当に気をつけないと三人目四人目ってなっちゃうよ」


「そこまでドジじゃねえって。てか絶対に言うなよ」


 トトの声が徐々に小さくなる。もう誤魔化すのは諦めたようだ。ミヅキの観察眼と状況把握力は、時に大人さえも負かすほどだ。


「じゃあ、前みたいに『お土産』持ってきてよ」


 頭が良いゆえに、その思考はずる賢い方向へも傾く。


「へいへい、おもちゃか? お菓子か?」


「そんな子供っぽいものじゃなくて!」


「まだ六歳が何言ってんだ」


 ミル・アカデミーの一年生は六歳か七歳、トトはその一年生たちとほぼ同じ背丈で童顔だが、実年齢は百歳を超えている。


「綺麗なものが欲しい。その世界にしかない、汚れてないもの」


「曖昧だな。まあ、今度持ってきてやるよ」


 トトはその意味を深く聞くことはなく、ミヅキの頭をぽんと叩いて、再び群衆の中へと戻っていった。


 ミヅキは少し寂しそうな表情で、戻っていくトトを真っ直ぐ見つめていた。


 学校のチャイムが授業の終わりを告げる。


「はーい、皆さんチャイムが鳴ったので、教室に戻りますよー」


 先生の掛け声で、双子に群がっていた一年生たちは素直に教室に戻っていく。日菜も教室へと歩き出した時、トトが声をかけた。


「日菜ちゃん、俺たちは校門の前で待ってるから。会わせたい人がいるんだ」


「うん、わかった」


 日菜はトトの言葉を受け取り、足早に教室へと戻っていった。十分ほどで帰りの会を済ませた日菜が双子と合流する。


「誰と会うの?」


「日菜ちゃんよりも前に、人間から妖精になった子だよ」


 ララが静かに日菜の手を握る。


「きっと、日菜ちゃんの知らない世界を教えてくれる子さ」


 トトも後から遅れて日菜の手を握る。


 三人は森にいる『初めて人間から妖精になった者』に会いに行くのだった。

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