代替ヒューマニティ

小狸・飯島西諺

短編

「お前の代わりはいくらでもいる」


 上司からのそんな説教が、一世を風靡した時代もあった。


 自分は社会に存在する数多くの歯車のうちの一つでしかなく、それが一つ欠落したところで別の部品に代替させられる。人のことを「人材」などと言い、まるで使い捨ての道具のように人権すら剥奪され、ただ仕事をする人形のようにこき使われるためだけに存在していると言っても良いような、そんな時代があった。


 否、今でもそういう風潮は残っている。


 それに実際よく考えてみれば、そこにいるのが「自分」である必要など、どこにもないのだ。たまたま人事担当が自分を選び(審査基準もあったのだろうが)、採用試験に受かって、内定をもらい、仕事に就いたというだけの話で、「自分」でなければならない必然性はどこにもない。


 私の代わりはいくらでもいる。


 それは、事実である。


 幸い、私は今の職場ではそんな風に言う人はいない。むしろ今の時代、そんなことを言えば、人権意識を疑われるだろう。


 しかし、人間という生き物は――代替品では満足できないものである。


 何かに、何者かでありたい。


 誰かにとって、何かにとって、特別な存在になりたい。


 代わりの利かない、かけがえのない、何かになりたい。


 そういう風に、世界に存在していたい。


 潜在的にそう思うものである。


 自己顕示欲、承認欲求ともまた違うものだと思っている。


 特に幼少期に家族や保護者がいなかった者については、顕著だろう。


 家族にとって、子どもは特別な存在である。


 その待遇を受けられなかった子どもというのが、具体的にどういう状態なのかは、ここでは示すまい。


 誰かの何かになりたい。


 不思議なもので、そう思えば思うほど――人は何者にもなることができなくなってゆく。


 採用担当者が、ただ何者かになりたくてたまらないだけの奴と、冷静に企業分析して採用に臨む奴、どちらを採用するか、という話だろう。


 しかし、それはあくまでも仕事、採用、就職活動についての話であって。


 安易に人生やその他に拡張して考えて良いものではない。


 いくら代わりはいるとはいえ、どこかで代わりにならない、かけがえのない自分というものが存在していなければ、人は人でなくなってしまうとも思うのだ。


 故に、「特別な人間などいない」なんて。


 そんなことを臆面もなく言えるのは、既にその特別の座にあぐらをかいて座っている、恵まれた人間なのである。

 

 かといって、「誰しも誰かの特別なのだ」とも、私は言えない。


 それは理想論である。


 誰の、何の「特別」にもなることができなかった人間というのを、私は大勢知っている。


 私も、その一人である。


 私は、何にもなることができなかった。


 何にもなれないまま、ここまで生きてきてしまった。


 きっと私がいなくなったら、代わりの誰かが、すぐさまそこを埋めるのだろう。


 それでいい。


 私は所詮、代替品なのだから。


 それでも――いな、だからこそ、か?


 私は。


 そんな誰かの何かの代わりでしかない私自身を、大切にしようと思う。


 それは、私にしかできないことだから。




(「代替ヒューマニティ」――了)

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