Depth12 技術開発部長

 その1週間は優音にとって正にあっという間だった。多くのことを学び、深層での有意義な実戦経験も積むことができた。そして実際、対心海魚戦における彼女の成長は目覚ましい。敵の能力と特徴を深く洞察し、相手の選択肢を削りつつ、自分の持つカード内での最も合理的な選択をする。それは中級以上の心海魚戦における基本であり、彼女の非常に得意とすることであった。


 だが、その得意とは裏腹に彼女の課題も浮き彫りになった。それは、対人戦である。人は感情に基づいて、時に不合理な行動をするものだが、彼女にはそこに対する理解が下手である。彼女のバディ能力はそれを補う能力ではあるものの、十分には扱いきれていないようだった。彼女自身の感情に対する理解がまだ足りていないのが原因だろう。


 そういった課題もあったものの、彼女にとって実りの多い時間であったことは確かだ。たった1週間だが、彼女はすでにDepth20であればやすやすと潜って活動ができるようになっていた。佐久間の指導の質もそうだが、優音の吸収力も相当に高い。非常に相性の良い師弟関係と言える。


 優音は病室のベッドで、手にしていた文庫本のページをめくる。空いた時間には心を学ぶ。それが彼女の習慣だった。この休養期間中、久しぶりに沢山の本を読み、映画を観た。名作と呼ばれるものは得てして、人の葛藤や愛を描いていた。そのどれもが彼女には縁がない。脚本やストーリー展開、アクションの良し悪しは理解できるが、やはり自分の心が揺れるというようなことはなかった。彼女が心を感じることができるのは、心海の中だけ。それも、他人の感情だけだった。


 ノックの音と共に佐久間が病室に現れた。優音は文庫本を脇に置き、すぐに目を向ける。


「失礼いたします。私は間もなく出発しますのでご挨拶だけでもしようと思いまして」


 佐久間は相変わらず慇懃いんぎんな態度で優音に笑顔を向けた。

 

「佐久間さん、本当に……ありがとうございましたっ!」


 優音は立ち上がり、恭しく礼をして佐久間を見上げる。彼は笑顔で握手を求めてきたため、彼女もそれに応えた。今日で彼とも暫くは会えないだろう。いや、また会えるのかどうかもわからない。佐久間は明日にはもう海外へと出立するらしい。彼女自身も明日から現場に復帰する予定だ。


「どういたしまして。しかし、こちらこそ、色々と興味深いものも見ることができましたし、なにより櫟原さんの成長ぶりにも目を見張るものがありました。本当はもう少し貴方の能力についても深堀りが出来ればよかったのですが……」


 優音は横に大きくかぶりを振った。


「とんでもないです!佐久間さんのお陰で明日から一層頑張れそうです!」


「それは良かったです……櫟原さん、本がお好きなんですね」


 彼は置かれた文庫本を興味深く眺めている。


「ええ……まあ。佐久間さんもお好きなんですか?お勧めがあれば知りたいです!」


「私はこう見えてすぐに泣いてしまうので、あまり嗜まないのですが……」


 彼は少し考えてから告げる。


「『アルジャーノンに花束を』などいかがでしょう?もし読んでいらっしゃらなければ、ですが」


「名作と聞きますが、まだ読んでいませんでした!ぜひ読ませていただきます!」

  

「それでは、私は出ますね。お休みのところお邪魔いたしました」 


「いえ、見送らせてください!」


 2人は部屋を出て、廊下を歩きながら話を続けた。

  

「C-SOTの方は大変な状況のようです。私ももう少し協力できれば良かったのですが……」


 そんな話を始めたときだった。「あ、佐久間氏じゃん、もう出発だっけ?」と、通りがかりの小柄な女性が話しかけてきた。彼女は白衣に眼鏡姿でそばかすがあり、ボサボサの髪を腰辺りまで伸ばしている。ポケットに右手を突っ込んで、左手には電子タバコのようなものを持っていた。目の下にはクマがくっきりとあり、声に覇気はない。すべてが佐久間とは正反対、とも言えそうだ。


「おや、花咲はなさきさん。この時間に起きているとは珍しいですね。見送りに来てくれたんでしょうか?……いや、貴方に限ってそんなことはあり得ませんか。ふふふ」


 そんな相手にも、丁寧かつ冗談を交えて応じるのが佐久間である。どうやら面識はあるらしい。


「いや、寝てないだけ。見送りはどうでもいいんだけど、ちょうど新しいマスクができたから実験の同行者を探してたんだ。どう?」


 このボサボサ髪をしだれ柳のようになびかせる女性は花咲薫はなさきかおる。28という年齢ながらC-SOTの技術開発部における部長を務めている、佐久間とは違うベクトルでの天才だった。彼女自身ダイバーでもあるのだが、一度潜るとなかなか戻ってこないため、基本的に1人で潜ることを禁じられている問題児である。佐久間とは以前から交流があるらしく、心海への深い好奇心という一点で妙に馬が合うようだ。


「それは興味深いですね。ただ残念ながら私はこれから別件で出ますので……」


 そう言って2人の視線が自然と優音へと吸い寄せられた。


「え、ええ!?私ですかっ?」


「んーと、誰だっけ?まあ付き合ってくれるなら誰でもいいんだけどさ」


 しかし、花咲の方は優音のことなど覚えていなかったらしい。仕事柄、何度か顔を合わせてはいるし、何なら会うたびに電子タバコについて注意をしていたのだが、結局いつもルールの抜け穴を突かれて言いくるめられていた。彼女にとっては非常に扱い難い人物である。花咲は基本的に名前というものに拘りがなく、ただの記号だと思っている節があった。自分の興味がないものには極めて淡白なのである。


「彼女は櫟原優音ひらはらゆうねさんです。非常に興味深いバディ能力も持っていますし、潜在能力も高い優秀な人材ですよ。一度、一緒に潜ってみてはいかがでしょう?」


 優音は少しだけ苦々し気な笑顔を浮かべて花咲の方を見た。彼女は虚ろで眠そうな目をしていたが、眼鏡の奥にある目が一瞬キラリと光った気がした。


「ふーん、佐久間氏がそこまで言うなら……。じゃ、いこっか」


 そう言って彼女はポケットから手を出すと、何の躊躇もなく優音の手を掴んだ。彼女は少し動揺する。

 

「それでは、私はもう発ちますので。また研究の話などもゆっくり聞かせてください」


「りょーかい。テクスト送るよ」


「あ、佐久間さん!本当にありがとうございました~!」


 優音がそう言って手を振ると、佐久間も笑顔で手を振り返した。そして、すたすたと振り返ることもなく歩いて行ってしまった。優音は正直に言って花咲のことが少し苦手である。彼女の持つ人間関係のルールが悉く通用しないからだ。花咲は電子タバコを吸いながら、優音の手を取ってずんずん歩を進める。デバイスの先端が青白く光り、吐いた煙からはミントのような香りが立ち込めていた。


「えっと……その新しいマスクというのは、どんなものなんでしょう?」


「単純に諸機能をアプデした。それと……まあ後はお楽しみってことで」

 

 2人は研究室へとたどり着く。ここは技術開発部の中でも彼女が個人的に使用しているラボらしい。優音自身は、そこに足を踏み入れるのは初めてである。だが、室内を見渡して彼女はため息をつきそうになった。室内は文系の彼女にとっては用途の分からない機械やパーツで溢れかえっており足の踏み場もない。


 そして、花咲のたどった道(なんとか足の踏み場ある)を辿って奥のテーブルにたどり着くと、そこには心海用のマスクが2つ乱雑に置かれていた。もう少し丁寧に扱えばいいのに……優音はそう思いつつも口にはしない。


「じゃ、これ付けて。Ver4.2」


 彼女はそれをポイと放り投げて優音に渡した。優音は予想外の行動に少し慌てたが、なんとかそれをキャッチする。


「そ、それで、どんな実験をするんでしょう?」


「ああ……毒ガスだよ。理論上これ使って潜れば、VXだろうが吸っても問題ない……予定」


 VXというのが何なのかは優音にはわからなかったが、化学的な毒の一種だろうと予想はできた。しかし、それはあまりに危険な人体実験である。失敗したらどうするのだろう?まあ恐らく弱性の毒で試すのだろうけれど……巻き込まれてまた病室生活を送るというのは避けたかった。


「えーと……弱い毒で試すんですよね?」


「は?それじゃ意味ないじゃん。大丈夫。失敗しても死ぬだけだし」


 優音は、花咲の言葉が全く理解できなかった。だが、当の本人はすでにマスクを付けて準備万端の様子である。毒ガスについても準備済みらしく、その手には明らかに危険であることが表示されているグレネードが握られていた。毒ガスを噴出するものなのだろうか。確か国際規定で製造が禁止されていたはずだが……。


「さ、潜ろう」


「いや、ちょっと待ってください!危険すぎますっ!」


「はぁ……。アイの能力知らないんだっけ?めんどくさいなあ。深度と座標これね。先行ってるから。潜行ダイブ


 花咲は大きくため息を漏らした後に、早口でそう言うと心海へとそそくさと入っていった。彼女は自分のことを”アイ”と呼ぶ。曰く、「日本語は一人称が煩雑すぎる。英語のほうがエレガントだよ」ということらしい。この部屋の方が煩雑だ……優音は少し呆れつつも、彼女1人でのダイブという禁止事項を許すわけにはいかなかった。失敗しても問題ないというのも、彼女のバディ能力が関係しているのだろう……きっと。そう希望的観測を抱きつつ、後を追う。


「本っ当にあの人苦手ですっ!潜行しますダイブ!」


 彼女のその叫びは、誰も居なくなったラボで少しのあいだ反響して残り続けていた。

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