下
どうしようもないほど渦巻く思考の波の中で、
「もう書くのやめようかなって思ってて、最近。今書いている長編で最後にしてもいいかなって」
気づいたら、私はそんなことを言葉にして発していた。
姉は目を少し丸くして、それから落ち着いた声で返してくれる。
「そうなの? それはもったいない気もするけど。ずっと続けてきたことでしょ?」
「うん。でも、賞も通らないし、多くの人に読んでもらえてるわけでもないし、もういいかなって。今年でもう二十五だしさ」
「うーん」
姉はうめいたかと思うと、お茶を一口飲んだ。もう一度「うーん」と悩んでから、言う。
「そもそも、あんたは何で書き続けてるの? ある時急に書き始めたけど、多くの人に読んでもらうため? 賞を取るため?」
一瞬、世界から音が消えた気がした。
『そもそも、あんたは何で書き続けてるの?』
なんでだろう。
小説家になりたいから? いや、違う。明確にそう思ったのは中一の時だ。それより前、ずっと前からあるであろう、本当の書き続けている理由。
必死に考えていたら、引っかかるものがあった。そうだ、最初に書いた小説。あれを書いた時に。
「ねぇ、覚えてる? 私が初めて書いたお話」
「ああ。何だっけ、あれだ、『らきらにお任せあれ!』」
姉が不意に叫んだ言葉に、私は驚いた。
「台詞を覚えてるの?」
「お、合ってた。私の記憶力まだまだ衰えてないぜ。やったね」
子供の頃から本が好きで、本の中に広がる世界が大好きだった。
自然に、頭の中で、勝手に物語の続きを考えたり、もしもの場合を考えたり、そうしてある日、自分でイチから話を考えた。大好きな物語を自分でも書いてみようとした。
といっても、まだ九歳だったから、今まで読んできた物語に所々似たところもあるような、展開も唐突な、今思えば本当に稚拙な物語。
『妖精らきらの相談所』。
小学生の女の子めいはある日、妖精を名乗る小人に出会う。らきらは飛べないけれど、立派な妖精らしく、めいがなくした筆箱を見つけてくれる。
らきらは修業のためだとか言って、人助けをする相談所を始めるから、めいに、その手伝いをするように言う。
らきらの決め言葉が『妖精らきらにお任せあれ!』。最初の依頼は習い事に挫折しかかっている男の子を励ます、だったはず。
書き上げた私は自分で読んでから、誰かにも読んでほしいと思った。思い浮かんだのは、自分と同じように本が好きな姉。
私が初めて書いた物語を、初めて読んだのは姉だ。姉はあの時十四歳だから、きっと、あの物語の稚拙さもわかったはずだ。なのに。
『
市販のノートに拙い字で書き進めた、消し跡だらけのそれを、笑いながら読んでくれた。褒めてくれた。
『続きは? 書いてみたら?』
大好きな姉に褒められたのが嬉しくて、続きを書いた。それも読んでもらう。今度は違う物語を書いて。また読んでもらって。
私が中学の部活で忙しくなりその頻度が減って、姉が大学に行くのをきっかけに、物語の往復は終わった。
書くのがすっかり好きになっていた私は、それでも書くのを続けて、高校生の時に小説サイトに登録して。
でも、姉にはそのことを言えてなかったのだ。私が高二の頃、姉はすでに大学四年で、卒論や就活で忙しそうで。
メッセージを何度か送ろうとして止めた。そうして言えないまま今日まで来てしまっていた。
ああ、そうか。
小説サイトに投稿して、誰かに読まれても、コメントをもらっても、ずっとどこか物足りなかったのは。
一番読んでほしい人に、自分の物語を読んでもらってなかったからだ。
なんで。なんで、こんな、簡単なことに気づかなかったんだろう。夢とか、賞とか、閲覧数とか、そんなことに気を取られすぎていた。
小説家になりたいという夢は本当だ。でも、私にとって、一番の、書き続けてきた理由は多分。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「うん?」
「私、今は小説サイトに小説載せてるんだ」
「へぇ、そうなんだ。どこ?」
「『ユキカイ』」
「あーなんか聞いたことある。大手出版が関わってるサイトだよね」
私は唇を湿らせるために、お茶を飲んだ。リラックス効果のあるというハーブの匂いが口に広がって鼻に抜ける。
「今度ユーザー名教えるから、よかったら読んでくれる? その、忙しいと思うけど」
姉はそこでニッコリと笑った。
「ソシャゲの時間減らせば、全然いける。読むよ」
「いいの?」
「うん。どれだけ引いても出ないゲームの推しを眺めてるくらいなら、妹の小説を読もうじゃないの。お姉ちゃんにお任せあれ!」
妖精らきらの言葉をなぞるように、姉は宣言する。
「感想をメッセージで送ってあげるから。だから、ちゃんと返信しなさいよ。たまに連絡してもすぐに会話打ち切るじゃん、あんた」
「ごめん、忙しいと思って」
「忙しいよ? でもいつかは返すに決まってるでしょ。そこまで薄情じゃないわよ私。じいちゃんの葬式にだって、こうして帰ってきたんだからさ」
「そっか、ごめん。ありがとう」
私は姉に小さく頭を下げた。やはり姉は、私の大好きな優しい姉だ。
「お、顔色良くなったじゃん。そしたら私もそろそろ寝る努力をしようかな。あんたも早く寝な」
「うん、ありがとう」
「じゃあお先に。おやすみ」
「おやすみ」
姉は自分のマグカップを流しに運んでから、リビングから出ていった。残された私は大きく伸びをして、残りのお茶を飲んで、キリのいいところまで小説を書いた。
パソコンの電源を落とし、台所に行ってマグカップを洗う。姉のカップの横に、自分のを並べる。
パソコンを小脇に抱えつつ部屋に戻る。スマホをズボンのポケットから取り出して、何気なく『ユキカイ』のサイトを開いた。階段を上がりながら、サイト上部にあるベルマークが赤くなっているのに気づく。読者からの反応があった印だ。
通知を見ると、いつも読んでくださるユーザーさんから評価とコメントが来ていた。『ユキカイ』が実施している周年企画用に投稿した短編を読んでくれたらしい。
『大島さんらしい、温かくてそれでいて、幻想的な世界が素敵な作品でした! 周年企画始まったばかりですが、今年も完走される予定なんでしょうか。楽しみにしてます』
大島らき。それが私のペンネーム。名字は本名から、そして下の名前の「らき」はそう、妖精のらきらから、取ったんだったと思い出す。
私は自室の前で立ち止まり、姉の部屋に顔を向けた。スマホをポケットに押し込む。
これから先、もっと多くの人に読んでもらえるようになるのか、賞を取れることがあるのかはわからない。
でも、と思う。
最も読んでほしい相手に読んでもらえる物語ほど、幸福なものはないのではないだろうか。その幸せに勝るものはないのではないか。
あの日、『妖精らきらの相談所』を書いたから、今の私がある。あの日、姉が褒めてくれたから今でもこうして私は書き続けている。
私が忘れていただけで、気づかなかっただけで、いつもそばに、暗中にあった創作の答えはあったのだ。
ありがとう、らきら。ありがとう、あの日のお姉ちゃん。
まだしばらく、書き続けてみます。
姉の部屋に向かってそうつぶやいてから、自室のドアを開けた。
妖精と姉がつなぐ物語 泡沫 希生 @uta-hope
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