解放


 朝になっても、瓶の中の「妖精」の向きが変わっていたことが気にかかっていた。


 錯覚かもしれない。しかし、確かに昨夜は瓶をじっくり観察したはずだ。それなのに、今朝になって見ると、妖精は少しだけ前のめりに傾いているように見えた。


「……ただの勘違いだろ」


 自分にそう言い聞かせ、祐介は朝食を済ませた。大学の講義に向かう前に、もう一度棚の上の瓶を見たが、それは静かに佇んでいる。まるで、最初からそこにあったかのように。


 しかし、その晩。


 再び、あの音が聞こえた。


 ――チリ……チリ……。


 寝つこうとしていた祐介は、布団の中で目を開いた。


 爪で硝子を引っかくような音。それは、昨日よりも明らかに大きくなっていた。


 身を起こし、棚の上を見た。


 瓶の中の妖精は、明らかに昼間と違う姿勢を取っていた。


 ……手が、瓶の内側に押し付けられている。


 それだけではない。昨夜は気のせいだと思ったが、今度ははっきりと分かる。


 ――妖精の瞼が、ほんの少しだけ、開いている。


「……」


 息を呑む。心臓が速く打ち始めた。


 これは、本当にただの人形なのか?


 祐介は、おもむろに瓶を手に取った。硝子の表面に触れると、妙に冷たかった。手のひらにじっとりと汗が滲む。


 ――カチリ。


 どこかで、小さな音がした。


 ……いや、違う。音の発生源は、今まさに彼の手の中にある瓶の中だった。


「……嘘だろ」


 瓶の底にひびが入っていた。昨日まではなかったはずだ。


 それが、今、確かに広がっている。


 祐介は息を詰めた。


 まるで、中の何かが、出ようとしているかのように。


 

――――――――――

 


 それからの数日間、祐介は瓶をじっと観察し続けた。


 ひびは日を追うごとに増えていった。まるで、中にいる「何か」が外へ出たがっているかのように。


 そして、その夜。


 ――パキッ。


 ガラスが、割れた。


 祐介は反射的に振り向いた。棚の上の瓶が、大きくひび割れていた。


 まるで、内側から力を加えられたかのように、放射状に罅が走っている。


 そして――


 瓶の中の「妖精」が、祐介を見つめていた。


 今度は確実に。


 その瞼は開かれ、硝子の向こうから、青白い瞳が彼を見上げていた。


「……っ」


 息が詰まる。動悸が激しくなる。


 ――パリンッ!


 次の瞬間、瓶が砕け散った。


 硝子の破片が床に飛び散る。その中心に、何かが倒れていた。


 ――それは、瓶の中にいた妖精だった。


 彼女はゆっくりと身を起こした。


 そして、祐介を見上げる。


「……やっと……出られた」


 それは、確かに、声だった。


 少女の唇がかすかに動き、囁くようにそう言った。


 祐介は、凍りついたように動けなかった。

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