憎い人
夏融
憎い人
Ⅰ
最初はこうでなかったと思う。私と彼女はお互いの自我が確立するずっと前には出会っていて、それから一時と離れることなく成長し、今はただ、彼女が憎い。
彼女は不良ではない。不良ではないから、酒も煙草もやらない。何を食ったら、人を食ったらそうなるのかという品行方正で、息苦しい。細やかな肌、「夏」という名前に相応しい先天性の明るい髪、どこをとっても細工の不出来な私には似つかなくて、通る道はどこだってブロードウェイだ。じゃあそのブロードウェイがどこにあるかといえば、それはうちのぴったり隣だ。みすぼらしい二階建てのすぐ横にはこれ見よがしに新築の三階建てが聳えている。まるで私と彼女。笑えないほど滑稽だ。あんまり滑稽なんで、塗り立ての壁に石をぶつけてやろうと何度も思った。だがどう下手を打っても許されるのに、愚行を犯す必要がどこにある?
だから私は毎朝、石を投げる代わりに呼び鈴を鳴らしてやり、彼女と登校を設計する。ほんの数秒で扉が開いた。
「待たせちゃった?」
「毎度言うけどね。君の支度が速すぎて、待ちたくても待てないんだよ、夏」
彼女は会うなり、私の浅黒い肌に気兼ねなく接する。私はハイド博士の仮面なぞ脱ぎ捨てたくて仕方ないというのに無神経だ。
「ユウちゃんの隣は落ち着くね」
「それは結構」
私の憎悪にも関わらず、私たちの関係は至って良好に見えなくもない。なぜなら人間関係には幾つかの分類があるからで、私たちの関係はその一種、片方だけが重荷を背負うことで成り立つ不安定なシーソーだ。私だけが瓦解を止め、私だけが瓦解させられる、そういうシーソーなのだ。
寒空の下、私たちはくっついて学校へ行った。彼女はいいダウンを着ているくせに末端に血液が通っていないようで、私だけが一方的にカイロにされる。見ろよ、私なんか制服一丁だ――コクトーが言ってたっけ、貧乏自慢なんかするもんじゃない。だが貧乏以外に自慢もない。彼女の細腕はいつの間にか私の服へ滑り込むけれど、私はまるで抵抗しなかった。
学校。私が辛うじて孤独を楽しめる場所。彼女のように健全な人は友達を作らないでいることが難しいらしいから、彼女が他人に構っている時、私は束の間の休息を得ることができる。教室の隅で窓から差す光をぬくぬく享受していると、やっぱり視界の端には彼女がいて、他の女と他愛のない話で暇を潰している。やはり彼女と並べばあらゆる人間は格別の間抜けに見える――私が隣にいる時もきっとそうなのだろう。
帰り道、冷たい手をそのままに、頬だけは林檎みたいに赤くした彼女が隣を歩く。他にいくらも帰る人がいるというのに――
「こんなに冷えるなんて、手袋をしてくれば良かったね」
彼女は手を差し出すけれど、私のざらざらと病的に荒れた手はそれを握り返す資格を持たない。躊躇している私を彼女は強引に引っ張って、つむじ風の魔女みたいにくるくると軽やかに。やっぱり私は彼女が嫌いなのだ。
Ⅱ
私の家には娯楽を持つ余裕がない。だから冬の休日は大抵、図書館で借りてきた本を手に、明かり取りから差し込むほんの僅かな陽光を目一杯浴びる努力をしながら過ごすことになる。地球の自転が止まらないから私も動かなくてはならない――ストーブがあればこんな思いをしなくてもよいだろうか。
昼頃になると彼女が玄関の扉をノックする。私が鍵を掛けないので彼女は簡単に侵入でき、私の母に「おばさんは今日もお綺麗ですね」なんて本心からのおべっかを忘れず、二階まで足音を隠さずやってくる。
「今日はどうかした?」
本に目を向けたまま問いかけるが、彼女の寛容さはこの程度で揺るぐはずもない。
「やだなあ。試験近いし、今日は一緒にお勉強する約束でしょ。ユウちゃんはすぐ忘れたフリするね」
通学鞄から次々と教科書、ノート、筆箱が――我が家のぼろい机に向かいながら彼女は防寒具を放さない。彼女は私に無いものなら何でも持っているのだから、勉強と冷笑しか取り柄のない私と違い、暖かな家と十分な娯楽を持っているはずだ。だのに、わざわざすきま風の絶えないうちへ来ては寒がるのだから始末が悪い。
「そうだね、そうだった気がする。そんなら、ほら、そんな陰に居ないでこっち座んなよ。日が当たるほうが暖かいから」
「悪いよ、ユウちゃんが先に居たのに」
「何年の付き合いだと思ってるの。今さら何も申し訳なさそうにする必要無いでしょうに」
それじゃあお言葉に甘えて、彼女は日の当たるほうへ移る。流石普段から明るい場所にいるだけあって、光のヴェールがよくお似合いだ。そわそわしていなければもっと。
「やっぱり、無理に場所を奪ったみたいで嫌だ。ユウちゃんもこっちにおいでよ」
「私は寒くても構わないから」
心底からどうでもよかった。
「いいから来て!」
こんな時ばかり強情に、胸に抱き込められて、私は彼女と狭い光柱へ押し留められる。半畳もない空間、私より背の高い彼女はそれだけで手一杯なのに、あまりに無理なポーズじゃないか。私に無いものばかり持つ彼女は私の持つものだけはそうはいかなくて、要するに頭が足りないからこうなるのだけど、眼前すぐの彼女の身体から発せられた花を煮詰めた空っぽの香りが鼻腔へ脳へ瀰漫する。その一片でも奪えたら。これは嫉妬と呼ぶべきか。
「これで二人とも暖かいでしょう?」
得意気に言われても、云々。
「でもさ、夏、これじゃ勉強できないじゃない」
「あ」
私は釈放され、明かりは――少なくともその日のうちは彼女のものとなった。その通り。平素から光の当たらぬ私より、彼女が相応しかろう。容易に許されることもまた、憎むべき醜悪さの一つである。
夜になれば私は眠る。正確には目を閉じるだけであって、眠りにつくわけではない。瞑想のようにひたすら泰然と、そして部屋には月明かりが差す。でもむこうの彼女の部屋には差さないんだ。何の意味もないが、きっと運命的なことなのだと思う。
静かにしていると遠くからほのかな歌声が聞こえる。私は彼女に確かに言った。「風呂場で歌うとこっちまで聞こえる」って――でも彼女は歌うことを止めない。どうしてだろう?セイレンのごとき彼女の歌声に、なにも持たぬ我らカインの末裔は羨むしかない。止めろなんて口が裂けても言えないじゃないか。
Ⅲ
春すら過ぎて、蝉時雨。馬鹿みたいに歳だけ食った。アンダー・ザ・ウォッチ、ファイブ・タウンス――間延びした声が午後の教室にぼんやり谺する。死ぬほどの恋なんてあるはずないのに。
生存圏ぎりぎりを維持する空調では私の意識を維持できない。また一つぼたりと汗滴が落ちて、ノートを台無しにした。今ばかりはセーラー服を導入した人間に感謝しよう。素晴らしき英国よ!トラウザズなど通気の悪魔だ。
生徒たちは音読をさせられる。オールドミスの教師が彼等の名前を順繰り呼ぶ。肝心の彼女はぼうっとしていたみたいに――この暑さでは茹だるのも仕方ない――名前を二度呼ばれてようやく立ち上がった。読むところもわからずおろおろして、そのまま間違えて恥をかけばいいのに、隣の親切屋が教えてしまうんで、後ろで見ている私には面白くない。どうせ順は回ってこないだろうからと、冷たい空気を求めて頭を低く突っ伏した。
夢を見た。
古い記憶。十年前。かつての春、かつての公園で、私たちは池のほとりを回っていた。早生まれの彼女は小さくうえにすばしっこく、来る日も来る日も私の傍をうろちょろして、当時既に目障りだった。どれもこれも、無駄に近所付き合いの良い母親と、断れない私の性格が不味かった。
私はこの世話係からどうしても解放されたくて、頭の中でさんざん策を弄すると、彼女を適当な石に座らせ、すぐに戻るから待っているように命じた。彼女は疑心無く頷いた。
誓ってもいい。数分で戻るつもりだった。厠へ寄るのとそう変わらない時間。息を整えて、孤独を噛み締めて、それからゆっくり、また彼女の面倒を見てやればいいと思っていた。それがどうした、ずるずる戻る気が失せて――本なんか読み始めて――気付けば空の色は完全に変わってしまっていた。
そんなことだから、どうせ彼女はもう帰っただろうな、もし親に責務の放棄を言いつけられたりでもしたら大目玉を食らってしまうだろうなと、私は薄汚れた観念とともに戻ってきた。すると彼女は池のほとりで、まだ所在無く待っていた。
私は幼心にもしてはいけないことをしたような気がして――何も言葉にできないまま、彼女を連れて家路についた。一匹の烏が夕暮れに鳴き、路面に伸びた自分の影とそれに比例した負い目ばかりが克明に脳へ食い込んだ。
どうして今さら、こんな夢を?
名前を呼ばれた気がして。瞼が上がると、やあ、やってしまった。私まで巡ってきてしまったようだ。がたんと立って(椅子が跳ねた)、寝ぼけ
その時限が終わると私はこっそり抜け出して、もう家に帰るつもりだった。昇降口では間の悪いことにざあざあ夕立まで降ってきて、傘のない私は濡れなば濡れよ、全身を雨滴に晒し一心に駆けた。ローファーに浸みる水が靴下を濡らし、ぐじゅぐじゅ音を立てていた。
それでお手本のような風邪をひいたわけだね。恥の上塗り。情けなさに涙まで零れた。
咽頭がすっかり腫れちまって、口蓋垂は舌の上に乗っている。決して易くない発熱によって私の思考は鈍り、分厚い布団の中で息を一つ一つ数えるしかやるせない。
「大丈夫?何か要る?」
彼女が布団の裾から覗く。私は流れ込む光に怯えてさらに縮こまる。何か言葉を出そうにも、喉が塞がれて口がきけない。唾を飲むだけで激痛が走り、自決用のナイフを所望したかったが、彼女は氷嚢を取り替えてくれ、新鮮な冷たさに脳が引き締まり、いささかの理性が戻って、自決はよすことにした。
私は餌をねだる鯉みたいに口をぱくぱくさせて、必要はないから帰って欲しいと伝えた。
「水?水が欲しいの?」
なのに彼女はグラスの水を私の喉に注ぎ――察しの悪いのは変わらないな。人の気も知らない間抜けなのに、一丁前に世話を焼きたがって私の部屋をあっちこっち、今さら看護の仕方なんか学んじゃって、厄介者は日が沈んでも帰らない。きっとみんなグルなんだ。
そこで私は一矢報いようと、わざと咳をした。彼女めがけてできるほど度胸もないから、ささやかに、静かに。でもそれは本物の咳を誘引して、私は危うく、血でも吐きそうなほど本気で咳をした。浮かんだ涙はどういうわけだったか。
彼女はひどく慌てて、このままじゃ何だって持ち出しかねない――そうなっては困るから、私は力を振り絞った。
「薬を、買ってきて……」
「薬?」
「そう、アスピリンを……」
ようやくうざったい手が止んだんで、私は暗がりで息を数えなおす。とんだ皮肉だと思わんかね!私が彼女の不幸を願うたび、彼女は私の幸福を願っているだなんて、私たち幼馴染みはなんと足並みの揃わぬことか。そりゃそうさ。彼女の長い足じゃ、私の短足と歩幅が合わぬのも無理はない。
夜半、息苦しさに目を覚ますと、彼女は手に白い錠剤を握ったまま、頭を私の腹にのせてぐっすり寝こけていた。なんと無防備なるかな。私は錠剤を枕の下に隠すと(端から必要ない)、妄想の鋭い刃物を握り――寝首をかくのは実に容易いけれど、もし彼女の流れる血までもが美しかったら、私は今度こそ気が触れてしまうんじゃないか。私にできることは目を塞ぎ、言い訳を探すことだけだった。
Ⅳ
また風が肌を切るようになった。首が絞まるほどマフラーを巻いて、手はポケットにカラオケへ行く。彼女はどこで買ったのだろう、セラブ風の帽子で頭を固め、私の腕にすがり楽しげな話題を並べるが、私は家に残したハンカチを悔いている。いつまでゴドーを待てばよいのやら。彼女は
店内は存外暗くない。彼女は既に選曲に悩んでいるが、私は流行の音楽より、喫茶店で流れている名前の知らないジャズのほうが好きだった。だからさっさと受話器を取って、ドリンクを二杯頼んだわけだ。
彼女は店員がいつ来るかなんて気にも留めず歌う。リサイタルに付き合わされるのは何度目か知れないが、私は一度も彼女の歌った曲を覚えていたためしがない。それでもマイクを握る姿は悪くないから、こうして気晴らしに付き合ってやる。私はグラスを一杯やり、もう喉が焼けそうだ。
「やっぱり夏は稀代の歌手だよ。才がある」
無論華も――とは言わないけれど、多少は本気の世辞を言って、乾いた拍手。彼女は額にかいていない汗を拭うふりをして、さもやりきったように得意気になる。その目はモニタのスコアを見ているのか。
「たくさん練習してるおかげだよ。この間もみんなで来たから、そこで」
「それだと
「ううん、合ってる」
彼女は喉を潤した。昔はこうした時、よく私に歌うのを勧めたのに――今じゃもうそんな素振りすら見せなくなってしまったね。喜ばしいことなのだろうな。
彼女が休憩をするんで、静寂の時間が流れた。狭い個室で、並んで、互いに何も言わない。私が壁の模様を数えていると、堪えかねたのか向こうから野暮ったい口をきいた。
「ユウちゃんは推薦が決まったんだっけ」
「一応ね」
「いいなあ。私も同じところに行けたらいいのに」
「どうせ家が隣なんだからすぐ会えるじゃない。引っ越すわけでもないんだし」
「そういう問題じゃなくて」
そこで初めて彼女は私を見た。真っ直ぐな瞳は憂いを帯びて、墓守のカンテラより誘惑的だ。
「実を言うと私ね、みんなが嫌いなの」
「それはまあ、薄々」
「誰も彼も、私にずいぶん関心があるみたい。そんなのってないと思わない?」
彼女がグラスを揺らすと結露が尾を引いて、墜ちる星みたいにきらりと光る――ああ、そんなのってないよなあ。
「私たち、幼馴染みだもの。いつまでも仲良くいましょうね」
「……うん」
「きっとよ」
陳腐なラブ・コールなんて流してしまえばいいのに!絆されるとは
私は黙って曲を入れた。こうしてマイクを持つのは久しぶりだ。ほら、彼女にも立つよう促して――十八年だ。十八年のデュオだよ。私は精一杯力を込めて、裏返る声を抑えながら、彼女だけが私を顧みて歌う。顔を真っ赤にして、恥と共に心から笑った。
「すがりすがられ この世の夢よ 巡り巡って流れゆく 我ら二人に火をつけ給え」
もう口もきけない。足も動かない。だが憎い人よ、私の耳だけは貴女を捉えているようですよ!
憎い人 夏融 @hayung
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます