第2話


 辞めた理由など、いくらでも思いついた。

 それでも、ここには「一身上の都合」としか書けない。


 薄暗いリビングで真っ白の履歴書を前に、弥栄は握ったペンを走らせることができないでいる。



 半年前、大勢の職員の前で公開処刑のように糾弾された弥栄だったが、それでも長年培ってきた職を辞することなく、通常通り出勤し続けた。


 しかし、半年前のあの日から、弥栄に対して課長からの明確な指示はなくなり、窓口業務から外され、簡単な雑務のみを任された。


 閑職に追いやられた弥栄を、課長に近い若い職員たちが、疎ましく思っていることも知っていた。


 それでも辞める覚悟はつかず、頑張れば再び報われると信じて雑務をこなしていく中で、ある時、弥栄は初歩的なミスを犯した。


「…どうして、」


 それは、事前に確認をしていたならば防げた単純なミスだった。


「霧島さん、私にいつも言ってましたよね、必ず事前に確認してくださいって。霧島さんもできてないじゃないですか。そんな人が私のことを注意できるんですか?」


 ミスに気が付き、焦りながらもパソコンに向かう弥栄の背中に浴びせられた、新人だった彼女の、笑みを含んだ言葉。


「そう、…ね、ほんとに…」


 消え入るような声で弥栄は頭を下げた。

 キーボードの上の手が固まったように動かない。

 一気に血の気が引いていく。


「…ほんとに、…あなたの言う通りだわ。」


 もう、気持ちを立て直すことができなかった。


 弥栄はその数日後、課長に辞意を伝えた。


     ※  ※  ※


 相変わらず白紙の履歴書を放り出して、弥栄は夕飯の準備を始めるべく、キッチンに向かった。


 しかし、まな板を前にしても、包丁を握る気持ちにはなれなかった。

 ただぼんやりと立ち尽くす。


「母さん、」


 ふと、背後から高校3年生の息子の声がした。

 弥栄は驚いたように振り返った。


「え、おかえり、…もうそんな時間?」


 少し見上げる位置にあった息子の顔は、薄暗い部屋ではどんな表情をしているのかハッキリ見えない。

 陽の光はもうずいぶんと前に西へと落ちた。


「ごめんごめん、すぐに夕飯用意するね」


 弥栄は慌てて息子の横を通りすぎて冷蔵庫を開けた。


「母さん、」

「なに?ちょっと待ってね、」

「母さん、俺、卒業したら働くから」

「…え?」


 冷蔵庫を開けていた手が止まる。


「もともと大学行く気はなかったけど、母さんが勧めるから進学する予定にしてただけだし、働くわ」

「…何、…何言ってんの、」

「だから、母さんはしばらくゆっくりしなよ」


 冷蔵庫の冷気が弥栄の顔を、身体を、どんどんと冷やす。


 凍りついたように身体が動かなかった。

 

 弥栄の背後から伸びた息子の大きな手が、冷蔵庫の扉をそっと閉める。


「俺が働くから」

「………っ」


 息子が3歳の時に離婚して、女手一つで育ててきた。がむしゃらになっていたつもりもないし、自分には職があったからこそ頑張れた。


 弥栄は勢いよく振り返り、笑うつもりで笑顔を作ってみせた。


「何言ってんの! 母さんすぐ就職先見つけられるわよ、だからあんたは大学行って、それで、」

「俺は働くよ。働きたいから」

「そんなのだめ、…そんなの、…母さんが働いてないからって気を使わないでいいのよ、あんたは、子どもなんだから」

「もう18だよ。」


 弥栄が作り笑いで見上げた先にいた息子は、薄暗い中で穏やかに笑っていた。


 弥栄の顔から表情が消える。

 弥栄は慌てて息子から顔を背けた。

 

「俺もう18なんだよ、母さん」


 母一人子一人の生活だった。

 息子は、ずっと、弥栄にとってはまだ小さく幼い子どもだった。


 だが、数年前から息子にはすでに背丈は抜かれていた。声もずいぶんと前から低くなり、別れた旦那の声に似てきている。


 そんな息子が、母親である弥栄を気遣って、進学を諦めると言う。


「………」


 大学が全てだと思っているわけではない。

 それでも、息子の将来の選択肢を増やすために大学を勧めた。


 …息子の本心を、本当の希望を聞きもしないで。


「……っ」


 そもそも弥栄に、母子家庭だからという負い目があったのかもしれない。


 居た堪れなかった。

 鼻の奥がツンと痛い。

 弥栄は逃げるように駆け出して、暗いだけのトイレへと逃げ込んだ。

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