悲劇を愛でれば

Rin

1. 腐れ縁

サトルが俺を好きだと気付いたのは、出会ったその瞬間だった。当時、その好き、というのはきっと今の好きとはだいぶ違う感情だったろうけど、それでも好きという感情は溢れ出ていて、中学生だった俺が、好かれてんな、と一発で自覚するくらいにはその感情はダダ漏れていた。


俺はそんなサトルの感情に胡座を掻いていて、その好き、が恋愛としての好きに変わった高校時代も、好かれている事を良い事に、俺はサトルを側に置いては遊び呆けた。別に恋人同士だったわけじゃない。ただ互いに欲を晴らしていただけ。いや、サトルは本気だったろう。俺はそんなサトルの気持ちを知りながら、笑って誤魔化しては他で恋人を作り、傷を負った時だけ都合良くサトルの元へと転がり込んだ。


そんなサトルとの関係が変わったのは専門学校を卒業した後だった。サトルは大学へ通い、俺は服飾の専門に通っていた。駅近くにマンションを借りてふたりで暮らしていた。


その頃の俺は人生をどれだけ謳歌できるかという事しか考えておらず、蘭というやけに男前なヤンキーっぽいやつに片想いしていたが、それが最終的にはサトルとの関係を大きく変えた。蘭に振られたからだったのか、否かは分からない。自分に振り向かない相手を好きになる俺にとって、蘭に振られた事は傷にはならなかった。


だけど、それからだった。心のどこかに、埋めきれない後悔の種が落ちたのは。今まで笑って誤魔化して流して、良い薬として接してきたサトルの想いが薄く、だけど確かに胸を締めつけるようになった。それは、振られた痛みよりもずっとタチが悪かった。


だからいつものように振られて慰められて、サトルの細い指が愛おしそうに体に触れた時、サトルを見上げながら思った。こいつがいなければ、俺は、どうなるんだろう。ゾッとした。背筋が粟立ち、自分自身を否定されたようで怖くなった。専門学校を卒業した後、逃げるようにアメリカのカレッジへと進学した俺は、ニューヨークで出会った青い目の美しい青年に口説かれ、まぐわおうとして確信してしまったのだ。サトル以外とはもう、出来ない、と。サトルじゃないと体はひくりとも熱を持たなかった。踏ん切りつけて帰国した俺は、サトルが泣いて喜ぶかと思っていた。だって中学から想いを寄せていた俺がようやく手に入るのだから、泣いて喜ぶかと思った。


でも現実は大きく違った。



「あーもう、無理。無理だ無理!」



「そんな大きな声で叫ぶなよ、うとうとしてたのに」



「…悪い」



夕方六時、アメリカから帰国した俺は時差ボケが治らず、ソファの上から同居人の背中をコツンと爪先で蹴飛ばした。コタツに突っ伏した着物男のサトルは、どうやらスランプに陥ってるらしい。サトルは作家志望で日々何かを書いているが現実、彼の本は売れそうにもない。


儚く、美しく、ロマンに溢れた悲劇小説。そういうのがこいつのスタイルらしいが、こいつの書く結末はとんでもなく胸が苦しくなるからハッピーエンド好きな俺はサトルの作品が嫌いだった。世の中ありきたりなハッピーエンドが溢れすぎている、だから自分の狂おしほど愛しい悲劇小説はもっと評価されるべきだ、というのがこの悲劇好きでお堅い男の言い分だけど、ハッピーエンドの何が悪いのだろうか。俺には分かりそうにもない。



「…なぁ、眠いなら部屋行って寝たらどうなんだ」



コタツに突っ伏したままサトルは俺に訊ねるが、ソファの上で横になっている俺はもう眠気に襲われ夢うつつであった。寝られるならどこでも良い、そんな風に思いながらサトルの背中を見ている。



「んー」



「風邪引いても知らないぞ。僕は言ったからな」



「分かってるよ。今寝ると変な時間に起きちゃうって事も、時差ボケ治らないって事も、分かってはいるンだけどさぁー」



俺の瞼はもう半分閉じかけていた。ここがソファで、起きたら体のどこかが痺れているのだろうけど、今が最高に気持ちよく眠れそうだから動きたくない。そんな怠惰な俺にサトルは呆れた顔を向けて腰を上げた。



「やっぱり寝るなら部屋に行こう、ほら」



なんだかんだでサトルは昔から俺の世話をしたがる。長い事一緒にいすぎて、俺の世話をすることが癖になってるのかもしれない。放っておいても良いのに母親のように俺の面倒を見る。俺はひとりじゃ何もできないと思ってるんだろうなぁ。俺のこと、中学から知ってるんだもんなぁ。俺は体をゆさゆさと揺らされる。もう俺は中学生じゃないんだぞ。俺もお前のこと、おサルって呼ばないだろ? お前だって俺のこと、タカちゃんって呼ばないもんな。いつからそう呼ばなくなったんだっけ。



「タカオ、寝ちゃダメだって。起きてくれよー。風呂入ってそのままの格好なんだから、絶対風邪引くって」



眉間に皺を寄せるサトルを見ながら、俺は欠伸をひとつして口を開いた。



「おサル、うるさい」



久しぶりにそう呼ぶと、サトルは目を丸くして一瞬固まった。けれどすぐに「せめて服くらい着ろよ」と呆れながら俺を起こそうと腕を引っ張り、盛大な溜息を漏らしている。起きる気のない大人の男を起こす事は無理そうだ。



「タオル巻いてるから寒くないもん」



「お前なぁ…。濡れたタオルって、余計風邪引く」



「風邪引いたら看病して」



「嫌だよ」



話しながらにやにやと笑って誤魔化しているうちに、俺はとうとう意識をふわりとどこかへ手放した。再び目を覚ました時、部屋はすでに暗く、かなり肌寒かった。毛布を一枚掛けられていたが体は冷え切り、俺はいい加減布団で寝ようと毛布片手に寝室へ向かった。


けれど向かったのは自室ではなく、サトルの部屋。ふたりで眠るには少し狭いが、十分な広さのあるダブルベッドでサトルは心地良さそうに寝ていたから、俺はにやりと笑いながら邪魔をする。俺は唯一身に着けていたタオルをするりと外すと、サトルの温かい布団へと潜り込んだ。寒い日は、肌をくっつけながら寝たいだろう。ベッドに潜り込むのが毎度の事だからだろう、サトルは裸の俺が入って来ても動揺しないし、焦りもしない。



「いい加減、服着たらどうなの」



「裸で寝るの気持ち良いじゃん」



壁の方を向いて眠っていたサトルの背中にぴったりくっつくと、サトルはうざったそうに反応した。



「見てるこっちが寒いンだけど」



「確かにねー。うーさみぃ、サトルあったけぇから幸せ」



「僕はどんどん君に熱を奪われてるけどな」



サトルは寝る時、温泉みたいに薄地の浴衣一枚だけ着て眠る。だからそんな彼の背中にくっつくと温かい体温がよく伝わった。冷えた体には、人の温もりほど幸せなものはあるだろうか、そんな事を思いながらサトルの足に自分の足を絡めると、「冷たっ!」 とサトルの短い悲鳴が部屋に響く。俺はつい笑ってしまった。



「ごめんごめん、だって寒いから」



「体冷えるってあれだけ言ったのに、本当に学習しないな」



「怒らないでー、おサルさーん」



ぴったりと冷えた体をサトルにくっつけると、サトルはまた溜息をつきながらも俺を受け入れた。サトルは少し上体を起こすと俺の方に体の向きを変え、毛布を俺の肩までしっかりと掛ける。



「で、どうして急にそんな懐かしいアダ名で呼んでんの」



「んー? なんとなく? 何でアダ名で呼ばなくなったんだっけ」



サトルは俺の目をじっと見下ろすと、片眉がひくりと一瞬だけ反応するように上がった。



「さぁね、何でだったろうか」



「本当は覚えてんだ?」



「どうしてそう思うんだよ」



「長い事、お前と一緒に住んでたらそれくらい分かるよ。原因、俺?」



「何も覚えてないのかよ」



「覚えてない。ってか、そんなちゃんとした理由あったろうか」



サトルは口を歪めると眉根を顰めた。



「僕も、お前とは長い事一緒にいて、嘘か本当か嗅ぎ分けられるようになったけど、今のは本当なんだな。本当に覚えてないんだ?」



「覚えてない」



「そ。なら、思い出さなくて良いよ



サトルはそう言って俺を寝かし付けようと、母親が小さな子供にするようにポンポンと胸元を布団の上から撫でる。



「風邪、引かれたら困るから、ちゃんと肩まで掛けてよ」



話しを逸らしたのだ。アダ名で呼び合う事をやめるキッカケになった出来事なんて、本当にあったか曖昧だが、サトルの様子を見る限りだときっとあったのだろう。あったとしたらいつだろうか。何でやめる事になったんだろう。おサル。おサルねぇ。サトルという名前を文字って俺がそう呼びはじめると、じゃぁタカオだからタカちゃんだ、とサトルは笑ってたっけ。中学の頃はそう呼んでた気がするが…。


その時、ふと思い出す。中学三年になると、サトルは俺の事をタカオって呼んでた。アダ名なんて子供染みていたから、とも考えられるが、違う。他に理由があったんだ。



『タカちゃーん、ふふ、俺もタカちゃんって呼んで良い?』



中学の時、好きだった先輩はバスケ部のキャプテンだった。いつからだろうか、あの先輩は、サトルだけが呼び続けていたタカちゃんというアダ名を揶揄って呼ぶようになった。



「……思い出したわ」




「え?」



「お前がタカちゃんって呼ばなくなったキッカケ」



「へぇー?」



「先輩だ。名前何て言ったっけ。一個上の先輩がさ、俺の事を揶揄ってタカちゃんって呼ぶようになって、そんで俺、その時その先輩の事が好きだったから、そんなアダ名で呼ばないで下さいよ、って。名前で呼んで下さいって。あれ、教室だったっけ? お前、それを聞いて呼ぶのをやめた?」



「さぁね、どうだったか」



「それしかないだろ。そんなアダ名でって、…そういう事じゃなかったんだけど、」



「そんな細かいセリフまで覚えてたなんて意外だよ。僕は単純に、僕以外の誰かが君の事をタカちゃんって呼ぶ事が嫌だった。君は僕に名前を呼ばれた時には見せない顔で喜んで、嬉しそうにしてたから。だから呼ぶのをやめた。僕だけのタカちゃんじゃないなら意味がない、ってさ」



「あ、そういう事?」



「そういう事。ほら、もう寝なよ。僕は寝るよ」



そう言って俺の方に腕を伸ばしてくれるから、俺はサトルの体に飛び込むようにその薄い胸板に顔を埋め、サトルの温かい足に自分の足を絡める。サトルの淡い嫉妬心を久しぶりに聞いた。俺に対する態度がやけに冷たくなってからは嫉妬も執着もなかなか見せてはくれないから、今は幸せなひと時だと上機嫌になってしまう。でもそれを顔にも言葉にも出す事はできない。だから寒い体を温めてくれるから幸せなんだという言い訳を盾に、タカオに擦り寄った。



「あったけぇー。サトルって体温高いから、まじで天国」



「お前の体が冷えすぎてんの」



「おサル大好きー!」



俺は能天気にそう叫んでいると、サトルは相変わらず表情も声色も変えず、呆れた様子丸出しだった。



「良いよ、今更思い出したように呼び合ってたアダ名で呼ばなくても。もう本当に寝るよ?」



「ん、良いよ」



サトルは眠そうに目を瞑るから、俺はそっとその唇に軽くキスを落とす。唇を離すとサトルと視線が重なった。その気になってくれたかな? と俺はもう一度食むように唇を重ねると、サトルは俺の胸を押し返した。



「そういう気分じゃないから。するなら自室に戻ってひとりでシてくんない」



帰国してからずっとこれだった。お前、俺と恋人同士になりたかったんじゃないの、そう俺は眉間に皺を寄せるが、サトルにはする気が一切ないらしい。こんな事になろうとは思いもしなかった。



「マジでしねぇの?」



「しないって言ってるだろ」



「……浮気、するよ?」



「今更だし、そもそも僕達は付き合ってないだろ」



俺は唇を尖らせて頭を掻く。サトルの冷たい瞳を見下ろしながら舌打ちを鳴らして、再びその胸に頭を押し付けながら体を横たえる。サトルは半ば呆れながら俺を包み込むと、途端に体中全てがサトルの熱で温かくなった。



「ま、そっちがする気ないなら待つしかねぇわな」



そう呟いて俺は目を閉じた。タカオは俺の髪を撫でるように手を髪に絡めると、うとうととぽつりと呟く。



「……おやすみ、タカオ」



「おやすみぃ、サトル」



サトルの長い腕は俺をきっちりと抱き締めてくれるが、まぐわう事はなかった。


サトルが俺につんけんと冷たくなってから、数週間が過ぎた。そんなある日の午後、ひとりの男が家を訪れた。サトルはその時、珍しく買い物に出かけていなかった。エントランスのインターホンを鳴らしたその客人は、甘い顔立ちのいかにも優しそうな男だった。涼しげな白いシャツとジーンズ姿で、清潔感のある短い黒髪は、後ろを軽く刈り上げている。一文字の眉と甘い印象の垂れ目、鼻筋の通った高い鼻と、少し厚みのある唇が印象的だ。海にいる爽やかなお兄さん、って感じした。



「どちら様、ですか」



俺がそう言うと男は「…あれ? サトル君、じゃない?」と眉根を寄せる。サトルに用があるらしい。



「えっと、同居人ですけど…、あの、サトルなら出掛けてます」



そう言うと男は「なるほど」と顎を撫でた。



「あの、私は赤浜 翔悟っていいます。サトルくんの古くからの友人で、今日は彼に用があったのですが、…えっと、彼、しばらく戻って来ませんか?」



「いえ、たぶん、すぐ戻ると思います」



サトルの古くからの友人、そう名乗る男は怪しそうな人には見えないが、俺が思い出せる限りのサトルの交友関係を思い返したが、こんないかにも爽やかな男前な友人は思い出せなかった。それにサトルから一度もこの人の名前を聞いた事がなかったのだから、怪しむべきだろうか。


でも家を知ってるってことは、サトルが教えた? それとも、…ストーカー? いやいや、まさかな。なんて自問自答を繰り返していた俺に、男は「あのー」と申し訳なさそうに声を掛ける。



「もし邪魔じゃなければ、中で待たせてもらえないでしょうか。渡したいものがあるんです。あの、怪しい者ではありません。サトル君の兄の友人なんです。昔から付き合いがあるんですけど、あ、これ、サトル君のお兄さんから預かってきたんです」



そう言ってサトル兄の友人らしい赤浜 翔悟という男は、手に持っていた紙袋をインターホンのカメラに見えるように掲げた。確かに、サトルには年の離れた兄さんがひとりいる。俺達が親しくなった頃には、その兄は家を出ていたからもういなかったし、その存在すら俺は今の今まで忘れていた。たった一度だけ会った事があったが、気さくな人だったよなぁと頭の片隅で必死に思い出していた。



「分かりました。今、開けますね」



俺はその男が単純にサトルに用があるのだと理解し、家の鍵を開けた。何か企みがあって、とか、サトルに危害を加えようとして、とかそういうわけではなさそうだったからだ。玄関を開けて招くと、男は「ありがとう」と申し訳なさそうに眉を下げながら笑った。



「良かったら、コレ、ふたりで食べて下さい」



手土産も持って来たらしい。高級そうな茶菓子を手渡され、「良いンすか?」と躊躇すると、「えぇ」と甘く微笑まれる。「ありがとうございます」と礼を言いながら茶菓子を手にリビングルームに案内すると、男は紙袋を片手に俺の後をついて来た。



「お邪魔します」



男は背が高く、体格も良かった。背が高いから、そんなに筋肉質だとは思わなかったが、シャツの上からでも筋肉がしっかりついているのだと分かるほどではある。



「急に押し掛けて本当に申し訳ない。隼人さんには連絡しておいてって言ったんですけど、どうやら連絡が出来てなかったみたいですね」



「隼人…?」



「サトル君のお兄さん。俺、サトル君の連絡先知らないんです。だから、隼人さんに連絡を頼んでいたんです」



「そうでしたか…」



男をリビングのソファに座らせ、俺はキッチンでお茶を淹れる。茶菓子は甘そうな最中だったから、少し濃いめの緑茶を用意した。トレーにお茶と茶菓子を置き、男の横にある小さなコーヒーテーブルに置くと、男は「突然来たのに、すみません」と再度頭を下げた。腰の低い人らしい。



「いえいえ、あいつ、あまり外出はしないンすけど今日に限って出掛けてて。あの、サトルに電話してみましょうか? 散歩がてら近くのスーパーに行ってるだけだと思うンで」



そう言って携帯を取り出すと、男は「大丈夫」と首を横に振った。



「サプライズゲストってことで」



「そう、ですか。もし必要であれば言って下さい。連絡しますんで」



「うん、ありがとうございます」



軽い気まずさを感じながら、その人の座るソファ横の赤いシングルソファに俺は腰を下ろし、無難に茶を啜りながら最中を一口食べる。「美味いっすね」と感想を述べると、「良かった」と男の瞳が弧を描いた。



「…素敵な内装だね」



男は茶を少し啜った後で、そう沈黙を埋めるように言いながら俺の座っているソファを骨ばった長い指で撫でている。赤いスエードのシングルソファは、指先で撫でられた部分が繊維の流れる方向に逆らい色を濃く変えた。

男はそれを元に戻しながら、「これも良いソファですね」と興味を示す。



「ありがとうございます。このソファもそうですが、ほとんど貰い物なんです。俺が友人のところから貰って来たものばかりなんで、統一感がないンすけど…」



「あぁ、なるほど。貰い物には見えないほど使用感のないソファです」



「本当っすよね。全然使ってなかったのかもしれないです」



「全体的に部屋は君のコーディネートですよね?」



「え? あ、はい、そうです」



「サトル君のシュミではなさそうだなぁと思ったので」



その言葉が妙に引っ掛かった。サトル君のシュミではなさそうだ、とわざわざ俺に言った事に対して、牽制されているような、試されているような気がしてしまう。いや、気のせいかもしれないが、まだ分からない。この人はサトルの昔馴染みで、サトルとも親しいだろうから洋風なインテリアがサトルの好みと違うよね、と雑談のひとつとして言っただけかもしれないのだが、何だか妙に引っ掛かっては胸が騒ついた。



「あいつ、物に執着とかないですから。共有で使うものは全部俺に任せてたんで、俺の好みになってしまいました」



「色鮮やかで、洗礼された内装です。とても」



「ありがとうございます。…あ、コタツはサトルのなンすけどね」



「あー、っぽいですね。上に散らばっている本もそうでしょう?」



「あ、はい」



「どれも悲劇小説ですね」



「見て分かるンすね」



「そこにあるのは全部、俺も読んだ事がありますし、俺のお気に入りです」



サトルに会いに来た男に、俺は言い知れぬ何かを感じてしまう。サトルのことは中学から知っていて付き合いは長いのに、この男の存在なんて微塵も知らず、なぜ今までサトルとの会話の中で名前が出てこなかったのだろうかと、疑問を抱かざるを得ない。そう思うと、サトルはわざとこの男の事を俺に伏せていたように思えて仕方がなかった。俺は逃げるように視線を男から外した。


サトルはずっと俺の事が好きだった。俺があいつを頼ればあいつは文句を言いながらも、毎回俺を受け入れていたし、俺の事が好きだったのは目に見えていた。けれどこの男といると、その考えが揺らぎそうになる。この男はサトルの何々だ。怪訝な顔をしていたであろう俺に男は小首を傾げた。



「…サトル君は相変わらず小説を書いてるんですか」



「はい。そう、みたいです」



男はコタツに散らばるメモ書きや原稿用紙、ノートパソコンを眺めている。



「やっぱり彼の書く作品は相変わらず悲劇的な結末なのかな? 恋人が死んだり、大親友に自分を殺させたり」



そう言いながら男は原稿用紙を一枚だけ取って眺めている。「そうかもしれません」と曖昧な答えを返した俺に男は何も答えず、ただじっと原稿用紙に視線を下ろしていた。


その時、玄関のドアがガチャンと開く音がした。扉の閉まる音が聞こえた後、ビニールの袋がガサガサと擦れる音、靴を脱ぐ音、疲れ切っているようなサトルの溜息が聞こえた。



「帰ってきたみたいです」



俺がそう言うと男は俺と視線を合わせた後、嬉しそうに微笑んで、リビングルームのドアをじっと見つめる。その横顔は、まるで想いを寄せる人を待つような、嬉々とした興奮の色を交えた視線だった。玄関の靴を見て、来客がいる事は分かっているからだろう、そっと静かにドアを開けて部屋に入って来たサトルは男を見ると、まるで時間が止まったようにその場に固まった。


眉間に深い川の字を作り、それからようやく愛想笑いのひとつやふたつした方が良いと思ったのか、困ったように眉を下げたまま口角を上げている。



「……翔悟さん、お久しぶりです」



男はソファから腰を上げると、立ち尽くすサトルの目の前に立ち、大きな体でサトルの体をすっぽりと包んだ。それは訳あって別れた恋人の再会を思わせるような絵だった。俺の心臓はきりりと痛み、瞬間、目を背けたくなる。けどなぜか、俺はその光景をただじっと見つめていた。目を離してはいけないと、咄嗟にその時思ったからだった。自分がこの痛みにどれだけ耐えられるか、試したかったのかもしれない。サトルはそっと男の広い背中に手を回すと、嬉しそうに柔らかく顔を綻ばせた。男はしばらくサトルを抱き締めた後、すっと体を離した。このままふたりは熱くキスを交わしてしまうのではないかと思うような状況だ。熱い抱擁の後は唇を重ねて互いの愛を確認する、なんてお約束だろうと俺はふたりを凝視していた。



「久しぶり、サトル君」



でもそんなドラマチックな展開にはならず、サトルは男の瞳を見上げると、「本当にお久しぶりです」と動揺を隠しながら言葉を絞り出しているようだった。



「あ、あの、あまりにも突然でびっくりしました…。兄さんに何かあった、とかですか」



サトルは買い物袋をキッチンに運ぶとすぐにソファに戻り、男の隣に腰を下ろした。それも俺にとっては少し癪である。いや、癪だと反射的に思ってしまうのはあまりにも幼稚だった。だってソファは三人掛けとシングルソファしかないし、シングルには俺が座ってるからサトルは三人掛けに座るしかないわけで、分かってはいるのだ。でも翔悟さんの隣に座るのはどうも胸がざわざわしてくる。



「いいや、隼人さんは相変わらず綺麗な奥さんと楽しくやってるみたいよ。…これ、この本を預かってきた。あと、この二冊は僕から」



「あ、わざわざ、すみません。兄さん、郵送するって言ってたのに」



サトルはそう言うと眉を顰めている。男はその顔を見つめながら、「ごめん、」と困ったように笑った。



「俺がワガママ言って来たんだ。サトル君にも会いたかったし、丁度この辺で用事もあったから。今日行くって伝えてたんだけどな」



「本当にすみません。兄さん、ちょっとボーっとしてるところがあるからなぁ…。絶対忘れてますよ」



「ふふ、隼人さんは少しだけ天然だもんね。でも突然だったから、同居人さんも驚かせてしまったみたいで、申し訳ないよ」



そう言うと翔悟さんは俺を見た。俺は「いいえ」と首を振って、サトルに茶菓子を見せる。「すっげぇ美味い最中もらっちゃったよ」と報告すると、サトルは「本を届けてもらったのに、最中まで、すみません」と頭を下げる。



「しかも僕の好きな蜂月庵の最中…」



「まだ好きだった? 買って来て良かったぁ」



ただの友人と呼ぶには異様に距離が近い。本を運ぶという理由までつけて会いに来る友人、再会してすぐ強く抱き締めるような友人、これは普通じゃねぇよな。この人は海外から来た、だから挨拶はハグなんだ、という無理矢理な理由も考えてはみたが、あんなに愛おしそうに抱き締めないだろうと、その理由は呆気なく脳内で否定される。あれは愛のある抱擁だったなと、俺はふたりの会話を横目に最中を食べるが味はせず、嫌な想像をしては、何度似たような経験をすれば気が済むのかと溜息を漏らしそうになる。自分がする事もされる事も、自分が好きだった人がしている事も経験してきた。あぁ、これは気まずい。まさかこんな嫌な経験をサトルでするとは思いもしなかった。



「あ、あの、翔悟さん、紹介が遅れました。僕の友人で同居人のタカオです。タカオ、こちら翔悟さん」



改まって紹介され、俺は自分が名乗ってなかった事に気付かされる。



「名乗ってなかったですね、すみません。仁科 峰緒です」



「いえ、ご丁寧に、…あの、本当に門前払いせず入れてくれてありがとうございます。助かりました」



翔悟さんは謙虚で腰も低く、良いヤツなんだろうな、俺と違って。それでも俺は余裕を見せた。嫉妬なんかしないし、俺はもともとお前に熱中するような男じゃない、そう強がるように心の中で何度も繰り返し、茶を飲んで口を開く。



「サトルと翔悟さんは昔っからの知り合いなんですか?」



俺がそう翔悟さんに訊ねると優しい表情の彼は「そう」と頷いた。



「サトル君の兄が大学の先輩でね、夏休みはサトル君家の別荘に泊まらせてもらってて、だから夏休み限定の家庭教師みたいなポジションでした。ね?」



そうだったよね、と首を傾げてサトルに問う翔悟さんをサトルは見上げて頷き、俺を見た。



「高校の時、勉強を教えてもらってたんだ。特に文学は翔悟さんの影響が色濃くてさ、僕の悲劇好きは、翔悟さんの影響なんだよ」



「へぇー、そうだったのか」と俺は目を見開いた。サトルにそこまで影響を与えていたとは知らなかったし、こいつの核を担っているようで正直嫉妬心から苛立ちを感じた。嫉妬に胃が焼けて、今にもサトルの腕を引いてこの場を去りたい気分になった。高校からの知り合いなら、俺の方が長くサトルを知っているし見てきてる。だから今すぐ俺の前から消えてくれ。そう口から溢れそうだったが、俺はそんな哀れな言葉は吐かないし、吐いてなんかやらない。



「こいつの悲劇好きはひどいンすよ。なんでもかんでも悲劇的な結末にしてしまうんです。俺はハッピーエンド好きなんで、こいつの作品読むとなぁんか心が落ちちゃうンすけど、それって翔悟さんの影響だったんですね」



「ふふ、そんなに? 俺は昔からハッピーエンドも好きだったんだけどなぁ…」



そう言って頬を緩めたままサトルを見た翔悟さんに、サトルは「嘘だ」と目を細めた。



「幸せを経験した者だけがハッピーエンドを描ける、上辺だけのハッピーエンドは読むに耐えない。そう言ったの、翔悟さんでしょう」



「…言ったかな?」



「言いました」



「本当? えー? 言ったかなぁ…」



「だから僕の物語はいつも悲惨な結末になってしまう。癖、みたいなものかもしれないけど」



サトルはそう言うと、コタツに散らばっていた原稿用紙を集めて束ねて閉じていたノートパソコンの上に置いた。少しの沈黙が生まれる。きっと俺はとても邪魔だろうと、最中の最後の一口を口に放りこんで考えていた。飲み込んで茶を飲んだら出て行ってやるよ、そう余裕をかましてやりたいが、嫉妬心は厄介だ。何か事が起きちまうんじゃないの、と頭の片隅で不安がぐるぐると渦巻き、その場を立ち去る事を躊躇させる。そんな俺をよそに翔悟さんはサトルに体を向けた。



「…実はさ、今日はサトル君に報告があって来たんだ」



重い口調に、サトルは何を言われるのかと身構えるようだった。眉根が潜められ、翔悟さんはそれを見ながら眉を下げると口を開いた。



「離婚、したんだ」



その言葉に俺は正直驚いた。サトルに対してあんな風に抱擁した男が、結婚してたという事実に。俺は出て行くタイミングを逃し、どうしようかとサトルの方を見ると、サトルは一目で分かるほど動揺していた。目を大きく見開き、「……え」と小さな声を漏らす。サトルは一体、何に対してそれほど驚いているのだろう。相当仲が良い夫婦だったのか、それとも別の理由があって驚いているのか。サトルの表情は驚愕した後、頭の中で無理矢理に離婚という言葉を飲み込んだようだった。



「そう、だったんですか……」



「せっかくサトル君にも隼人さんにも、おばさんやおじさんにもお祝いしてもらったのにね。結局はダメだった。まぁ、だからね、お世話になった人達にはきちんと直接報告しておこうと思ってね」



結局はダメだった、その言葉から少しだけ、翔悟さんの背景が見えた気がした。この人は男も女も愛する事ができる、いやもしくは、女は愛せないとどこか分かっていたのに隠して結婚しなければならないような環境にいた。両方の性を心も体の面でも愛せる人なんてきっと少ない。けれどこの人はもしかしたら、女も愛せると言い聞かせてきた類の男かもしれないと、翔悟さんの横顔を見ながら感じていた。


そして俺は今、気付きたくない事に気付いてしまっている。翔悟さんは離婚した事をサトルに直接伝えたのだ。つまり、自分は今独身で、あとは君次第だ、そうサトルに言ってるようなものだろう。だから俺は茶を飲み干すと腰を上げ、これはもうサトルが決めるべき事なのだと意を決した。



「すみません。俺、ちょっと出ますね。友達が急用あるみたいなんで。あの、…ゆっくりして行って下さい」



俺は気持ちを隠すのに必死になった。翔悟さんは俺の方に体を向けると、「ありがとう」と困ったように礼を言う。たぶん、きっと、俺が気を遣って出て行く事を分かっているのだ。



「 それじゃ、また。…あ、サトル、飯は俺の分いらないから、また連絡する」



そう自分の気持ちを読まれないように、いつも通りに接しようとサトルに言うと、サトルは「分かった」と頷いた。俺は正直、耐えられなかった。翔悟さんとサトルとの間には、俺には決して入る事のできない何かがあり、ふたりの間に過去があったのは明白だったから、その関係がまだ戻ってしまう事が。それを目の前で見せられる事が。俺は外に出ると舌打ちを鳴らし、繁華街の方へと歩き出した。


[newpage]


僕は無愛想なのだとつくづく思う。可愛げというものが皆無なのだろうと。



「おはよー! おサルくーん」



僕が靴箱の前で靴を履き替えていると、後ろからやって来たタカオという典型的な甘い顔の男は、白い歯を剥き出し、少し乱暴に僕の肩を抱くと顔を覗き込んだ。歯並びの良い、無駄に整った顔で今日も笑っている。



「おはよう」



タカオは僕の挨拶を聞いているのかいないのか、無表情な僕は面白くないやつと認定している為か、すぐに僕から離れ、一緒に登校してきた他の男友達のところへすっ飛んで行った。タカオは誰にでも愛想が良く、誰とでも距離が近い。僕と彼はまるで光と影だった。もちろん光はタカオで影は僕。冴えない僕はただひたすらに光を追う毎日だった。


彼はいつもキラキラと光り輝いて、楽しそうで、誰とも分け隔てなく接して誰からも好かれていた。だから僕は思った。タカオを手に入れないと僕は一生何かが欠落したままだと。


僕は彼に好かれようと必死になった。彼の好きなものを調べ上げ、話しを合わせ、彼の口から僕らは友達だと断言させる。結果、タカオは他の連中に僕を紹介する時、友達のサトル、と紹介するようになった。ただのクラスメイトから友達に昇格し、彼の隣を勝ち取ったのだ。


そして僕達は高校へと進学する。僕は相変わらず無愛想で、タカオ以外に話す友達はいなかった。だが口数は多くなったろう。他の人、特に女の子からタカオの事について聞かれる事が多くなり、人と話す機会は驚くほど増えた。僕とタカオは高校でも仲が良かった。ただ、



「サトル、…もっと、激しくして良いから…っ」



友達と呼ぶにはあまりにも不純な関係だった。あれは十七の梅雨の時期。僕はタカオがずっと好きだった。タカオを失う事は、欠落した僕に戻る事。だから彼を手離す事はきっと死ぬまでないと、僕は必死になっていた。僕にはタカオが必要で、タカオも僕が必要で、互いにそんなの分かりきっていたはずだった。


なのにタカオは、



「あーごめん、今週末パス。俺、蓮司先輩にデート誘われちったから。ほんと、ごめんな。でも俺らって、そんな束縛し合う関係じゃないでしょ? だからそんな顔すんなよ、な? じゃぁ、またな!」



簡単に僕を裏切り、僕を捨てる。 僕の元にようやく転がってきたかと思った矢先、僕の気持ちはどん底に突き落とされる。それを何度も何度も繰り返した。僕には学習能力がないのかもしれない。阿呆な鳥のように二、三歩進めば何があったか忘れてしまうように、僕はタカオに微笑まれると傷付いたくせに全てを受け入れてしまうのだ。こんなやつ大嫌いだと、そうその時には思っていたとしても、タカオが僕に頼ってくると断れず、大嫌いが、やっぱり好きに簡単に変わってしまう。僕は何ひとつ学べないのだ。



「サトル…慰めてよ。本当、俺、自分が嫌になる。…なぁ、お前は俺のこと嫌いになんないでよ、…俺、お前なしだと生きていけないから」



繰り返す。傷を負ったタカオは何度も何度も僕の元へ戻って来ては、傷を癒してまた違う男の元へ転がっていく。タカオは自分の事を好きにならない男に毎度熱をあげ、傷を負い、泣いて目を腫らし、そして僕と死ぬほどまぐわってはまた何処かへと消える。僕はただただタカオを慰め続けた。


でも僕は心のどこかでタカオにはほとほと呆れているし、僕だってマトモな愛情が欲しかった。僕の事を愛してくれる人がいたら、僕はその人に心底絆されたかった。タカオが他の男の元へ行く度に、僕はそう同じ事を考えていた。でも同時に、心のどこかでは、それが不可能な事だと分かりきっていた。だって結局、僕は僕の事など愛してはくれない彼を死ぬ迄愛しているから。僕は、悲劇を愛でてしまうようだ。

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