三
***
丘を下りた後、ヴェイルは近くの靴屋で厚手のブーツを買った。
今はニコと
車両の人はまばらだ。
冬場だが、換気のために車窓の上部が数センチ空いている。髪を
ふと、肩にこてんと重みを感じる。
「……ニコ、寝たのか?」
今日はあちこち連れ回したから、きっと疲れたのだろう。
ネットの時間は制限したが、毎日きちんと眠れているんだろうか。
舟を漕ぐ小さな頭のつむじが訳もなく可愛いく見えた気がして、ヴェイルは若干、苛つきながらそこを押した。指の背にふわふわと髪が触れる。触り心地が思いのほかよくて、しばらく撫でていた。
人はすぐ死ぬ。
だからこそ、その生命力や意志の強さに惹かれる。
儚さや弱さに出会うたび、守りたいと思う。
大事にしたかった。
そうするうちに絆もできたが、同時に隔たりもできていたのかもしれない。
「なぜ、そんなにも早く死ぬんだ」などと言われても、どうしようもない。
人は
そういう線引きのようなものが、自分の中で出来上がっていたのだろうか。
(じゃあ、なぜ俺は、あんなことをお前に話したんだろう)
――死ぬな。行くな。頼むから俺を一人にしないでくれ
引き止めて良いのか?
それは許されることなのだろうか。引き止めることは、奪うことになりはしないか。今までそれを避けてきたのに、どうしてニコには自分から「任せろ」だなんて言ってしまったんだろう。
「死ぬな」「生きろ」「頼むから」。
ただの一度でも、込める熱量を間違えて願いを口に出してしまえば、もう歯止めは利かない気がした。
一度、愛してしまったら「死なせてくれ」と頼まれても聞き入れることはできない。「もう精気は要らない」と懇願されても、「お前とは生きたくない」と吐き捨てられても、他人に戻ることなど到底できない。
(お前が、自分には何にもないみたいに言うからだ……)
全部、端から諦めているように言うからだ。なぜそんな、叶わない夢のように言うんだろう。
自分のことを顧みず、人の心配ばかりして。
見ていると痛いのだ。手を伸ばさないと、あっさり何処かに行きそうで。
(いや、駄目だ)
胸ポケットでまた携帯が震えた。
そのわずかな音でニコは目を覚ます。
ちょうど、
ヴェイルは電話に出た。
「さっきからなんだ」
「ヴェイルこそ何なんだよ。さっきは突然、切って」
「ダニ?」
「え? あ、ニコちゃんそこにいるの? ああ、そっか!今日って二人で観光に行く日だったっけ。ごめん、すっかり忘れてた。またかけ直すから――」
「良い。続けろ。何かあったのか?」
「今、周りに人居る?」とダニが聞く。
大丈夫だと告げつつも、結局、声を落として会話を続けることになった。
内容が内容だったのだ。
「誘拐事件の後でさ、捜査協力として僕らも指紋提出したの覚えてる?」
「うん。ダニとジェンナと僕のを取ったよね」
「メデレヴラ研究所の焼け跡から出てきた指紋が、ニコちゃんのと一致したんだ」
「僕?! いやいや、やってない。やってない。僕じゃない!」
驚きのあまり、ニコは口をはくはくと開閉させた。
「当たり前だろう。お前のどこに家を抜け出して工場を爆破する暇がある。ひたすら寝てただろうが」
「ニコちゃんを疑ってなんてないよ! 当たり前だろ?」
落ち着けと二人がかりで声をかける。
見た目に反し、焦った様子のニコから出てきた言葉は冷静だった。
「でも工場って全焼したのに指紋なんか出てくるの?」
「それは僕も警察に聞いたよ。金属製だったりセラミック製だったり、耐熱性の高い素材は表面についた指紋が部分的に残ることもあるんだって。煙や
ドアノブか操作パネルの類か、奇跡的にそれらの類が残っていたのだろう。
「念の為聞くが、研究所の職員のものじゃないからお前のところまで連絡がきたんだな?」
「そう。職員のとも警備員のとも一致してない」
つまり、爆破に加担した犯人の側にニコと同じ遺伝子を有するクローン、"ニコル”が居る可能性が高い。
遺伝子研究所で実際にクローンが生み出されていたとして、生まれたクローンが施設内部で十代を越えるまで生育されることは可能性として低い。となれば、"ニコル”は研究所の外から侵入し、指紋を残したと考えるべきだ。
「本題はここからだ。ごめん、言い直すよ。ニコちゃんの他にもう一人、指紋が一致した人がいたんだ。だから、うちに『そっちの人物に心当たりはないか?』って意味で連絡が来たんだよ」
今から十年前。
警察のデータベースに、もう一人の"ニコル”の指紋が登録された。身元不明でハンガリーの病院に運び込まれた"ニコル”は、年齢も出自も何もかも、自身のことは一切語らなかったらしい。
こうなると病院の手に余る。
誘拐被害者か家出少年か、移民か孤児か。対処に困るので警察が呼ばれ、指紋を採取して行方不明者データベースとの照合が行われた。
そんな
それ以来、現在に至るまで行方不明となっている。
「指紋って、模様自体は一生変わらないけど、成長するごとにその模様が引き伸ばされていくんだって。じゃあ、大きさで年齢がわかるかなって思うでしょ?」
「うん」
「でも、それはできないらしいんだ。大きさだけで正確な年齢を予想することは難しい。成長期なら指が大きくなるから模様が引き伸ばされるけど、成人あたりを過ぎたら大きさはほぼ安定するらしくて。……今回は研究所に残った指紋と、昔の行方不明少年の指紋、ニコちゃんの指紋がかなり高い一致率だった。ここから先は警察も手詰まりで、ニコちゃん以外に同じ遺伝子を持った子供を保護しているかって僕らに聞いてきた。これが話の全容です」
もっと話す順番を工夫してやれと思うヴェイルだったが、気になることが一つあった。
「ダニ、そろそろ人が増えてくる。一旦、切るぞ」
通話を終わりにして、口をつぐむ。
帰宅した頃には夕飯の時間になっていた。
ギッツィ、ダニ、ニコと共に食事をとる。その後、寝室でニコが寝息を立てるのを確かめてから、ヴェイルはリビングでダニに告げた。
「例の行方不明になった子供が保護されていた病院の名がわかるか?」
「待って、警察が言ってたはず……えっと、あった。『ニーファル総合病院』だ」
ニーファル。ハンガリー東部の地名だ。
「カルパト原理会の本拠地が近い。十年前の指紋の持ち主と、研究所の指紋の持ち主は同一人物かもしれない」
「なに、どういうこと?」
ニコが見つけた動画から得た情報を、ヴェイルはダニに話して聞かせた。
カルパト原理会。
反ヴァンパイア、反遺伝子操作を掲げる人間の集まり。
ダニが焦った声で言う。
うろうろとリビングを歩きはじめた。
「少年が病院を出た後で、その、なんとか原理会に保護されていたとしたら。それで今回の一連の爆破に関わっていて、だからこそ指紋が出てきたんだとしたら……ああ、あり得る! ……でも、待てよ? 原理会は反クローンなんだろ? 少年を保護なんてするか?」
「その子供はヴァンパイアに関する情報を持っていただろう。利用価値があると判断されれば、一時的にでも保護される可能性は高い」
当然、断定はできない。
これまで、いくつかの宗教団体には疑いの目を向けていた。ここへきて、絞り込むための情報が増えたのはいいが、よりによって。
ニコを保護したとき、ヴェイルは彼に尋ねた。
――お前、自分と同じ顔の人間に最後に会ったのはいつだ?
――最後に会ったのは……十年前です。でも彼はもう亡くなっていて
本当にそうなのか?
"ニコル”がそうあちこちに何人も居るとは思えない。
ニコを助け出したルーマニア北西部のあの森から見て、ハンガリー東部は目と鼻の先だ。もしもカッシアンが、ニコにしたのと同様のことを先代の"ニコル"に対して行っていたら……。
今日、ニコはカッシアンの屋敷で出会った"ニコル”のことを「友達」と呼んでいた。
「ダニ。ニコには病院の場所は黙っていろ」
「え?」と、戸惑う声がダニから上がる。
「それでいいの? お前、ニコちゃんにいつも言ってたじゃないか。『お前に関わることはなるべく話す。その方が自衛しやすいだろ』って。事情はよくわからないけど、今更この話だけ伏せたところでニコちゃんはすぐに気づくんじゃないか?」
「気づくだろうな。それでも伏せたい」
十年前に死別したニコの友人。
それと、ぴたりと重なる時期に病院で保護された少年。
二人が同一人物だと示唆するような、カルパト原理会との繋がりを。
何一つ確証はないのに、これを知ればニコは混乱する。
友が生きているかもしれないと希望を抱く。けれど、もしそれが誤りだったら?
仮に生きていたとして、"ニコル”が燃やし尽くしたものは、あまりに物騒だ。
(ニコを外へ出したくない。傷つけたくない。この家で平穏に過ごすのが、あいつのためになるはずだ)
不安を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます