***




「ああ、ヴェイル。お帰り」


 帰宅すると、ダニとジェンナがキッチンで鍋を覗き込んでいた。ジェンナはまだしもダニが自らキッチンに立っているなんて、今日はひょうでも降るのだろうか。


「……何してる? ギッツィはどうした」


Hühnersuppeチキンスープを作ってるんだよ。ニコちゃんが熱出しちゃって。ギッツィさんは、自家製はちみつハーブティー煮出しに実家に戻ってる」


「は? おい、大丈夫なのか?」


「そんな慌てるなって。まあ、お前もニコちゃんと打ち解けてきたってことで、良い傾向なんだろうけどさ」


 ダニの軽口につづけてジェンナが答えた。


「熱が上がってきて苦しそうだけど一旦、風邪薬飲んで寝てるよ。これも食べれるかわからないけど一応ね」


「やっぱり頑張りすぎちゃったんだよ。ここ半月で二回も死にかけてるんだもん。……あ、ヴェイル。一応の報告なんだけど、さっき警察が来たよ。『今回は庭師の買収もあって内部犯扱いだから、任意で関係者の指紋提出をお願いしたい』って言うから僕らの指紋を渡しておいた。 問題なかったよね?」


「ああ。あの修道院がどういう場所かは既に警察に通してある。ニコ含めて子供たちの指紋についてはそれを受けて処理してくれるはずだ」


「OK、了解」


「あの子さ、酷い環境で育っただろう割に優しくて真面目だよね」


 何事かを思案するように目的なくスープを掻き回し、ジェンナが呟く。


「真面目がすぎるよ。知恵熱出しちゃうまで頑張らなくていいのに。ネットの使用時間、決まりをつくってあげたほうがいいのかな」


「どういう意味だ?」


「ニコちゃん、これまで知らなかったこととかPCにかじり付いて片っ端から調べてるみたいでさ……今日もため息が多かったし。もし悩みがあるなら、一回ちゃんと膝を突き合わせて話すべきだと思うんだ。これまでどんな風に育って、何があったのかとか、聞いた方がいいんじゃないか」


「いいや、ダニ。まだ早いね。修道院だって三ヶ月くらい経ってお互いに慣れてから聞くじゃん。あたしは反対」


「三ヶ月も待ってたらあの子、熱で蒸発しちゃうよ! ヴァンパイアから人を買うようなクソ野郎もいる世の中なんだ。なんかこう……その……いわゆる性的なトラウマとかがあるなら、カウンセリングは早い方が絶対にいい」


 室内がしんと静まり返る。


 ダニの主張には一理あった。朝食時にニコと会話するようになり、ヴェイルも気づいたことがある。

 ニコには「自分はバウトゥーラで、人間ではない」という自己認識がある。それは言葉選びの端々からうかがえる。

 しかし、そこに人へのうらやみやひがみが込もっているようには思えない。どんな風に育ち、何があり、何を思っているのか……悩みがあるならそれも含めてどこかで聞いてみるべきだ。

 

「よし、俺が行く」


「わかった。僕もついてくよ」


「いや、二人とも待ちなって! ヴェイルから聞くのはさ、ニコは嫌かもしれないだろ?」


 「なぜ?」「なんで?」。ヴェイルとダニの声が重なる。

 ダニが言った。


「人の立場で僕らが聞くよりも事情通のヴェイルからさらっと聞く方がむしろ、話しやすくないか? 僕はただ、聞き役に徹するつもりだし」


「違う、二人とも待ちな。こういうのは焦らずいこう。もしものときは、あたしがそれとなく聞き出すから今はやめておいてあげて」


「異性から聞かれたほうがニコは気を使うだろう」


「だよな。僕もそう思う」


「煩いなお前らは! いいから黙んなさいよ。ヴェイル、とにかくデリケートなことは聞かない上で、ニコの様子見に行ってあげて。ついでに洗面器も回収してきて。水を新しいのに変えるから。ほら行けよ」


 ドンっと背中を押され、さっさと行けと促される。キッチンカウンターに体温計が出ていたので「ついでに体温も測るか」とヴェイルはそれを手に取った。

 二階へ上がる。

 オーク材のドアを三度ノックした。返事はない。


「入るぞ」


 音を立てないようドアを開けると、室内の照明は落ちていた。

 しかしまあ、ヴェイルの目からすればなかなかに明るい。ニコはドレープカーテンを引く前に眠ってしまったようだ。

 ベッドで眠る彼の身体に合わせて掛け布団が波打つ。その輪郭を縁取るように、月明かりが照らしていた。


 マットレスを不必要に沈めないよう注意しつつ、ヴェイルはベッドに腰掛けた。

 横向きのニコの身体を仰向けに直す。額から滑り落ちていた熱冷ましの濡れタオルを回収し、再び洗面器に浸して絞る。彼の丸い額に戻すと「すぅ」と寝苦しそうな息が上がった。


(まだ熱が高いのか?)


 いつか見た縞模様しまもようのパジャマは上のボタンがいくつか外され、襟元がゆったりと開かれていた。しかしそれでもまだ、脇に体温計を差し込むには不十分だ。ヴェイルは留まっている一番上のボタンに手をかけた。

 ニコのまぶたがパチリと開き、数回の瞬きをする。

 榛色はしばみいろの瞳がこちらを向いた。


「悪い。起こしたな……おい、まだ寝てろ」


 上体を起こして座ろうとする彼を、ヴェイルは制止した。けれどニコはそのまま座ると、こちらの意図を汲んでかシャツのボタンを自分で外していく。

 一つ、一つ、一つと。

 そして全てを外し終わるとシャツの肩を落とした。うなじの髪がかかる首の白さ。肩から腕へと至るつるりとした線。鎖骨のくぼみの端から端も、全てがあらわになる。


「つっ、おい……」


 静かな夜に突然混じった艶やかな気配に、ヴェイルは咄嗟に視線を逸らした。

 先ほどまでは確かに、庇護すべき人間の、子供の肌だったものが突然、異質な艶かしさで眼前に迫ってくる。


 ニコはそのまま、ヴェイルの膝上へと上がった。栗色のまつ毛でけぶる瞳から、感情は読み取れない。まるで抱きしめるかのようにニコの腕がヴェイルの首にまわる。華奢な足がヴェイルの腿を跨ぎ、細い腰が胴へと振れる。そしてニコは、ヴェイルの口元に自らの首筋を差し出した。


 ドンッ。


 気づくとヴェイルはニコを突き飛ばしていた。心臓が拍動する。口内がじわりと潤む。ヴェイルは腹の底へ押さえ込むように唾液を飲み込んだ。

 ただの食欲とも違う。それだけならまだ我慢できる。


「う、うぅぅ〜……痛っ」


 ベッドと壁の間に挟まるように、ニコは倒れ込んでいた。

 小さな呻き声が上がる。


「悪い。大丈夫か!」


「ん……あれ、ヴェイル? なんでここに?」


 寝ぼけたような瞳。

 だが、いつもの彼らしい感情が戻っているように見える。


 「お帰りなさ……うわ! なんで僕、シャツ脱いでるんだ?」


 ベッドの中央にのそのそ戻り、ボタンを留めながらながら言う。

 念の為、ニコの頭部に触れて確かめてみたが、こぶなどはできていなかった。


(……落ち着け)


「ほら、ちゃんと布団を被ってろ」


 苛立ちが込み上げる。

 押さえても押さえても、不快感が湧き上がる。

 嫌でもまざまざと思い浮かぶのだ。ニコの首に牙を立てるカッシアンの顔が。

 ニコがかつての主人として口にした男の名を、ヴェイルは以前から知っていた。

 保守的だが、自分を中心とした強固な共同体をつくるのが妙に上手く、長くあちこちに潜り込みながら影響力を保ってきた。ささやかなのに捉えどころのない、かすみのような男だ。


 カッシアンに限った話ではないが、保守的なヴァンパイアほどバウトゥーラの扱いが雑だ。仲間内での貸し借りは当たり前。

 だから、多くのヴァンパイアが"ニコル"の身体を……その血の味を知っている。

 誰とも知らないヴァンパイアが、あどけない少年に群がる様が浮かびかけ、打ち消した。否定したい自分がいた。


(気色悪い。お前にそんなのは似合わない)


 お前にこんなことは。お前はもっと健全で……こんな仄暗い、性の匂いさえ感じるような行為はお前には似合わない。


「あの、すみません僕、風邪を引いたようで。移すといけないからもう少し離れて……僕がもっと端に寄ればいいのか」


「良い。移らないから。そこで寝ていろ」


 意図せず語気が強くなり、ヴェイルはため息を吐きながら言った。 「はい」と小さな返事を残して、目を閉じたニコが再び寝息を立てはじめる。


 しかしもう一度、彼の熱を測ろうという勇気は持てなかった。

 

(体調を崩すまで一体、何を調べていたんだ)


 ヴェイルの意識は自然と室内のPCへと向く。一応、現在の彼の保護責任者として確認しておかねばなるまいと思った。もちろん、恨み言は受け入れる前提で。


 先ほどの光景を振り払うように頭を振ると、ヴェイルはマウスを握った。

 PCのアクティビティ・レポートを調べる。そして出てきた数字に目を疑った。


(は? この一週間で八十三時間もネットに齧りついてたのか?)


  家の手伝いをして外出して、警察の聞き取り調査を受けて、食事や風呂など身の回りのことをして……寝る時間はどこにあるのか。馬鹿なのか。

 単純に計算しても一日、二時間から四時間程度しか寝ていないはずだ。それを一週間もつづければ熱も出すというものだ。おまけに直近、二回も死にかけている。


「何がしたいんだお前は」


 もっと賢く、落ち着いた子だと思っていた。

 いや、けれどニコだけを責めていいのだろうか。

 閉じられた世界から外へ出て目の前にネットがあれば、たいていの者が同じことをするのではないか。そこに思い至らずほいほいとPCを渡した自分達だって悪くはないか。ダニに言われなければ、こうして確認すらしなかった自分が悪くはないか。


 マウスを動かす。


 出てきた履歴からは、世の中を知ろうとする直向ひたむきな思いが感じられた。


 最初は漠然としていた検索ワードが、やがてニコの関心に導かれるように一点へと収束していく。


——ヒトゲノム編集、世論 


 ヴァンパイアの欲望は、人が倫理観を理由に長らく踏み込んでこなかった「クローン作成」「ヒトゲノム編集」分野の研究を果てしなく押し進めた。

 バウトゥーラが生まれる過程で培われた技術はやがて、人へも応用されることとなる。


 ニコが深掘りしていたのは、ゲノム編集手術を受けた人間への、人間による差別。病原遺伝子を取り除いた少女に対する壮絶ないじめ事件だった。


 事の発端は学校ギムナジウムの上級過程、親への感謝を作文にして発表する授業だった。

 いじめの被害者となった少女Aは、本来なら自分の寿命を大きく削るはずだった病原遺伝子についてクラスメイトの前で語った。

 少女の両親は娘を救うため、彼女が受精卵の時点でゲノム編集を行い『後に死を招く原因』を排除したのだ。

 少女が言うには、これまでも学級が進むたびにそういった授業はあったから、今回も特に気にすることなく今まで通りこの話題を発表のテーマとして選んだらしい。

 けれど、このときの少女のクラスメイトはそれを良くは受け取らなかった。


 授業の後、少女の周囲は一変した。


 少女が何事かを上手に成し遂げると「ズルだ」と言い、うまく行かないことがあると「ゲノム編集をしたくせに」と陰口が横行した。


『私がしたのはただの病原遺伝子を取り除く手術で、遺伝子を優秀なものに置き換える手術なんかじゃありませんでした。IQも容姿もいじっていません。ちゃんとお母さんのお腹の中で育って、お母さんに産んでもらったのに……』


 少女の声は、しかしクラスメイトには届かなかった。「病原を取っただけ」と言えば、「証明しろ」と言われ、医者の証言を出せば「いくらでも捏造ねつぞうできる」と言われ、少女は心を病んで結局、自主退学した。

 数年後、これが社会問題になる。

 議論は白熱した。

 少女の家が資産家で少女の容姿が美しく、一見無関係に見える事柄すら話題に上がる。意見とも言えないネット上の書き込みの数々。


 (なぜこんなものを何時間も……)


  背後でニコが咳き込んだ。


 「咳まで出てきたのか?」


  独り言のつもりで呟いてベッドに寄ると、思いがけず返事が返ってきた。


 「いえ。なんか唾が変なところに入っただけ……はあっ」


 身体を起こすのを手伝って、水差しから水を注ぐ。ヴェイルはニコの口元へグラスを持っていった。こくこくと喉が動く。


「ありがとうございます。ちょっと、楽になってきた気がします」


「そうか」


「はい。……あの、風邪が移らないって本当? もしそうなら、少しだけ話し相手になってもらいたくて」

 

「何を話す? お前が決めていい」

 

「修道院の子どもたちがバウトゥーラだって隠してるのは、公表すると危ないから?」


(直球だな……)


「別の話じゃ駄目か? 何も具合が悪いときに考えることでもないだろう」


「今日、ヴェイルに会ったら最初に聞こうってずっと考えてたんです。なんだか最近、寝てるときも頭から離れないことが多くて。答えられないことだったら良いんです、全然。忘れて」


 聞いて楽しい話じゃない。だから敢えて伝えなかったことが、結果的に寝不足の原因になったのだろうか。

 ヒトゲノム編集。世論。

 バウトゥーラが人間からどう見られているか調べるには、通っておかしくないワードだ。その結果、少々テーマはずれるが例のいじめの件に辿りついたのだろう。

 ゲノム編集をした人間に対する、人間からの風当たりの強さ。

 これを見れば、クローンへの差別の強さなど推して知るべしである。

 

(余計な傷を増やしたな……)


 ヴェイルは口を開いた。


「修道院がバウトゥーラのための孤児院であることを隠す理由は、三つだ。子供たちがヴァンパイアの標的にならないように。その懸念が近隣住民の不安をあおらないように。子供たちが人から差別されないように。だから子供たちは学校でも自分の出自を語らない。同じ遺伝子型を持つ子供の居住地は敢えて離している。フーバー家が支援する施設はヨーロッパ中にあり、数も多い。その中の幾つかがときどき場所を変えつつ、バウトゥーラのシェルターになる」


 もちろん、うまくいかないこともある。先日の誘拐事件のように、どこからか話が漏れて傷つく子供が度々出る。

 そんなときは都度、大人たちでケアする。そうして回してきた。


「やっぱり、人からの差別があるんだ。みんなゲノム編集に嫌悪感を持ってる」


「未知のものは怖いんだろう。大なり小なり遺伝子操作したことのある人間が増えてくると世論も変化するだろうが……それが良いことなのか、悪いことなのか。お前も色んな記事を読んだだろう?」


 寝ている間にPCを見たことをニコに伝えた。

 怒るかと思っていたが、意外とすんなり受け入れて「ならば話が早い」とばかりに話を振ってきた。やはり、少女Aの件だった。


「すごく嫌な気持ちになった。彼女の家族が決めたことに一々、口を出す権利なんて他人にはないはずなのに。色々と理由を並べて、たくさんの大人が女の子に向かって『お前はそのまま死ぬべきだった。それが運命だったんだから』って言うんだ」


 寿命を金で買う時代になった。

 遺伝子操作してる子と普通の子が同じ土俵で戦うのは不利だから、試験では少女から減点すべき。

 子供たちが言うのではない。これらを言うのは大人たちだ。

 そのことにニコはいきどおりを露わにしていた。こらえていた熱が身体をむしばんで、行き所なく溢れたような。いつになく苛立った様子だった。


「ああ。もしかしたら、いじめの裏には嫉妬心もあったのかもしれない」


「でも、ヴェイル。大事な子供が将来、病気で苦しまないように大金をかけてでも手術をしたいって思うことの何が悪いことなの? 羨ましかったら虐めていいの? 羨ましいと思ったときこそ、自制しないといけないんじゃないの?」


「その一拍の思考を持てない奴もいるんだよ。不快感を相手のせいにする。無意識だからたちが悪く、下手をすると一生を棒に振る悪癖あくへきになる」


「女の子は学校に通えなくなったのに、そいつらは”悪い癖だね”ってだけで済まされるの?」


 ヴェイルは静かに問うた。


「じゃあ何か? お前が裁くのか?」


「だって、ヴェイルは怒らないの?! こんなの、おかしいじゃないか」


 この子の危うさの正体がわかった気がした。生きたいと言いながら自己犠牲的な理由。きっと、なまじ共感力が高いだけに自他の境界が曖昧になる瞬間があるんだろう。若い上に社会経験が乏しいのもある。けれどおそらく、元々の気質だ。

 

 そっと、ニコの頭を撫でた。

 気性の優しい人間は、易々やすやすと色々なものを抱え込みがちだ。


「落ち着け……怒るな……」


 ニコは一瞬目を見張り、驚いた顔をした。

 けれどすぐに口を引き結ぶ。


「子供扱いしてる?」


「いいや?」


「嘘だ。親が子供に言うみたいな……なんか、保護者が言い含めるみたいな言い方だった」


「保護者がどんなのか知ってるのか?」


「本で読んだし、映画でも見た」


 「はいはい」と、ヴェイルは適当に相槌を返す。

 あながち間違いでもないとは思った。


「まあ、守りたいから言ってるしな……。憤る気持ちはわかる。でも、怒るな。お前はその子じゃないし、その子の知人でもない。お前は他の誰でもない。そうだろう?」


「だけど!」


「お前は書いてあること以上の情報を知らない」


「でも」


「部外者の癖に騒ぐ連中とお前の違いがどこにある?」


 ニコは、むすくれて黙り込んだ。

 こんな子供っぽい表情をされるとは思いもよらなかった。

 いつも彼は聞き分けがよかったから。今日は熱のせいか、心が顔に出ているようで。その新たな一面は、ヴェイルの目に瑞々しく映った。


「お前の言ったことは間違いじゃないと俺は思う。でも心を重ねすぎるのはよくない。見ず知らずの人間のために費やす時間も、体力も、今のお前に一番必要なものだとは、俺は思わない」


「他人だから放っておけって?」


「そうだ」


「でも、それって冷たくない?」


「優しい奴はそれくらいで丁度いい。『他人なんだから放っておこう』くらい思ってやっと普通だ。『冷たいかな』くらいで適温なんじゃないか、お前の場合は」


 言葉は毒にも薬にもなる。

 自分に相応しい言葉を、相応しい時に与えなければ人は安易と壊れてしまうものだ。


「ニコ。急がなくて良い。ゆっくりでいいんだ。ゆっくり色んなものを見て自分の考えを広げていけばいい。俺はお前を心配してる」


 目の前の少年の顔が勢いよく顔を上げた。


 「ヴェイルが僕を心配してる……それに今、僕の名前呼んだ?」


「ということで、明日からネットの使用時間を制限する」


「ふぁっ!?」


「PCは一日四時間だ。お前が自分に負担をかけずに調べ物ができると俺が判断するまでこれはつづく」


 いかにも動揺していますというように、ニコが視線を泳がせる。


「そ、そんな! もっと段階を踏んでください。注意を受けたのは今日が初めてなのにいきなり四時間だなんて。お、おお、横暴だ! ダニには話したの? このパソコンはダニのなんだから」


「へぇ……お前はそうやって食い下がるのか。なるほど、小賢こざかしいな」


「こ、こここ交渉してるだけです」


「なら仕方ない」


「何をする気ですか」


「効果抜群。クールなあの人にアプローチする5つのテクニック」


「……はい?」


「恋愛心理学。相手を落とす魅惑のしぐ——」


「はっあ、ああっ!ああ無理っ!無理いい!」


 なぜだろう。とても楽しい気がする。

 気づくとヴェイルは口を開けて笑っていた。


 「悪用禁止。彼があなたに夢中にな——」


「ああぁうあぁああああっ!!」


 勢いよく伸ばされた手が、ヴェイルの口を塞ぐ。

 全く、この子供は。頭でっかちなのか直情的なのかどっちなのだ。

 それに今度は目まで潤ませて……


「なんで泣いてる」


「すみません。熱で涙腺が溶けて、恥ずかしくて」


「それは熱が下がれば戻るのか?」


「はい。もちろん」


「嘘くさい」


 ダニとジェンナがニコで遊ぶ理由がわかった。

 熱を出していると知っているのに、これには抗えない引力がある。


「可愛いな」


「……幻聴かな。頭がぼんやりしてきた。熱が上がってきたのかも」


 ヴェイルの口元から離した手を、ニコは自分の目元に持っていった。

 パジャマのそでを指で引っ張って、熱で潤んだ目元をぬぐう。擦れたまぶたの血管が膨張し、彼の肌に赤みが増した。


「僕の血を飲んでください」と言われたときのこと思い出す。

 ヴェイルはただ、苦手だった。人が何かの見返りほしさに、ヴァンパイアに自らの血を差し出す行為が。

 自分は奪いたくない。叶うなら与えたいのだ。


「上限四時間は譲らない。その代わり視聴履歴を見た俺への罰として、お前の望みを叶えてやる。外にでもどこにでも連れて行ってやるから希望を言ってみろ」


 少し時間が必要だろうかと思っていたのに。意外にもニコはすぐに望みを口にした。

 

「それなら、絵が見たいです。オーストリアの街にある美術館を巡って、図鑑で見た名画が見たいかな」


 そうしたいと思った理由について、ニコはアドリアンの名前を口にした。年上の彼とメールのやり取りをする中で、自分の進路についても意識したらしい。自分の将来を選ぶなら、自分が唯一好きで、長く時間をかけてきた絵に関する仕事がしたいと。


「まだぼんやりしてるけど、将来像がまとまったら聞いてくれますか?」


「ああ。追加ルールで、芸術系の本なら取り寄せ可能にしてやる」


「なんで本なら良いの?」


「ゆっくり知れるから。ネットよりも」


「また”ゆっくり”?」


「早く元気になれよ」


「今度は”早く”なの? ……もう。ヴェイルのせいで熱が上がったのに」


 なぜ、こんなに気分が良いのか。

 上気した頬も、睨むような上目遣いも、不思議と胸をつく。


 本当はまだ、話をしていたい。

 「『クールなあの人』とは誰のことだ?」

「一体、何のつもりで動画を見たんだ?」

 そう問えば、目の前のこの子はどんな顔をするのか……。


「さ、もう寝ろ。邪魔して悪かった」


 ドレープカーテンを引くべく、ヴェイルは立ち上がった。月明かりを消してニコが深く眠れるように。

 ふと、窓際のサイドテーブルに置いてある開きっぱなしのノートが目に入った。見るつもりはなかったのだが視力がいい分、走り書きされた内容が勝手に飛び込んでくる。



〜ドイツ語の悪口メモ〜

ふざけるな:Verarsch mich nicht!

地獄を見たいか:Geh zum Teufel!

ヒゲもじゃ野郎:Bartgesicht!

※絶対に覚えること。使う機会がなくとも



「ふっ、ぐ」


 (お前。最後になんて不意打ちを)


 たまらず携帯を取り出した。ニコに気づかれないよう事を終え、ドアを閉め、階下へ降りる。キッチンへ戻るとジェンナに声をかけられた。


「あれ、ヴェイル。頼んでた洗面器は?」

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