第七章 生きたい理由
一
フーバー家の朝食の定番メニューは、オーストリア発祥のロールパンであるカイザーゼンメルだ。
外はカリっと、中はフワッとした丸いパンで、表面に星とも花とも言えるような切り込みがある。
今日もダニはこれにジャムとバターを塗って食べていた。
ギッツィ、ヴェイル、ニコはチーズやハムを載せて食べる。コーヒーとの相性も抜群だ。
「やっぱり、ここのゼンメルが一番だよ。いつ食べても最高に美味しい!」
「ふふ。ダニ、いつもそれ言ってるね」
厳密に言えば、今日食べるゼンメルと明日食べるゼンメルは違うものだ。
ニコはふと思う。もしかしたらカッシアンにとって、"ニコル"はこのゼンメルのようなものだったのかもしれない。
(ニコルは本当に……死んでたのかな?)
十年前のあの夜。ニコはニコルを追いかけ森へ下りた。
すぐにカッシアンに捕まり、宴の会場となっていた屋敷の一室に連れ戻されて……そこにニコルを捕らえたあの男が戻ってきた。
月の光が差す静かな部屋の中。
ニコは長椅子の上でカッシアンに後ろから抱かれ血を捧げた。
目の前の絨毯にぐったりと横たわるニコル。その首元にサイラスが顔を
白の短髪が動く度、ニコルが苦しげに唇を噛む。
やがてサイラスがニコルの服を暴いた。人間の抵抗なんて、ヴァンパイアを前にすれば無いに等しい。サイラスの律動に合わせて、堪えきれないニコルの喘ぎが徐々に大きくなっていく。
――嫌だ。見ないで。カッシアン様。助けて……
顔を逸らすことも、耳を塞ぐことも許されなかった。
ニコの身体はカッシアンに抱き込まれ、身動きをとることはできなかった。ただひたすら、目を瞑って耐えた。
やがて声は止み、気づいたときには血溜まりの中に目を見開き倒れるニコルの遺体があった。首元が無惨に
「おい。大丈夫か?」
はっと顔を上げると、こちらを覗き込むヴェイルと目があった。
「あ、うん。……大丈夫。ちょっと、食欲がないだけで」
実を言うと、身体が少し熱っぽい。
そのまま伝えたら心配をかけると思い、ニコは敢えて黙っていた。
(あの日、僕が見たニコルの遺体が幻術だったとしたら……)
その可能性を考えると、うまく眠りに就けなかった。
熱はきっと、そのせいだ。
ニコがヴェイルと出会ったのは、ハンガリー北西部の森だった。けれどニコルのときは、あの城ではなかった。
木々の様子や屋敷の内装など、記憶を頼りに場所の特定ができないかと衛星画像を探しはした。でも、宛てがなくては特定できない。
自分と同じ指紋を持つ例の少年。
彼が保護されていた病院について、あれからダニに聞いてみた。しかし、得られたのは「そこまでは警察も教えてくれないと思う」という、もっともな回答だけだ。
(幻術だったとして、ニコル一人で人里まで……病院まで辿り着けるのか?)
わからない。
いくら考えても答えは出ず、ニコは二階の自室に戻ると一人、ため息をついた。
結局、朝食の場では三人を心配させてしまった。
目の前にはサンドイッチが乗った皿がある。
出社前のヴェイルがわざわざ、ニコの食べかけのゼンメルで作ってくれた。
「少しずつでもいいから、腹が空いたら食べろ」と言って。
「……何やってるんだ僕は」
自己嫌悪に陥りながらPCの電源を入れる。
今日は十一時から一時間だけ、施設にいるトビーとビデオ通話する許可をもらっていた。アドリアンがとうとう施設から旅立っていったこともあり、トビーとニコとの間でお互いに近況を報告しようという話になったのだ。
「よう」とぎこちなく通話に出たトビーの膝の上に、リュカが乗っていた。後ろで小さな子供たちが数人駆け回っている。
思わず笑顔になった。
「みんな元気そうでよかった」
「まあ、うん」
顔が映っているからか、お互い妙に緊張する。
しばらくして、ぎこちなさが消えたタイミングで「外で遊んでこい」とトビーが子供たちを室外に出した。
「お前も知ってるかもしれねえけど」
「ん?」
迷うように口に出す姿に、身構える。
「モリスが辞めた」
「えっと、モリスってあのモリスさん? スタッフの」
「そう。俺らと一緒に病院に居たモリス」
ニコも確かに覚えていた。
オレンジのニットキャップを拾ってくれた彼だ。
「辞めたって、どうしてそんな急に」
「あれから俺、チビたちと話すようになったんだけどさ」
「うん」
「チビたちみんな口を揃えて言うんだよ。少し前、モリスの奴が『前に暮らしてたヴァンパイアの屋敷の場所を覚えてるか?』とか『産まれた場所を覚えてるか?』とか、色々と聞いてきたって」
「え、それは」
「だろ? 無神経だろ? 俺、頭来てさ。修道院長に言ったんだ。そしたらあいつ、辞めやがった」
「もしかして、僕らが誘拐されそうになった事件に絡んでる?」
「わかんねえ。でも修道院長たちも同じこと思ったんじゃねえかな。なんかまた警察が大勢来たから。この事、ヴェイルから聞いてなかったか?」
「うん」
「へぇ。珍し」
トビーが呟いた一言が、嫌に胸に引っかかった。
でも実際は、なんでも共有してもらえると思っている方がそもそも間違いなのだ。
ヴェイル自身が忙しかったり、内容が込み入っていたりすれば、話してもらえない事があるのは当然のことなのに。
今朝の自己嫌悪もあって、「自分ではやっぱり頼りないのかな」と、おかしな疎外感というか格好の悪い被害者意識のようなものを勝手に抱いてしまった。
そんな自分がなおさら、嫌になる。
「あ、そうだ。お前の進路の話どうなった? ヴェイルたちに話したんだろ?」
「あ、うん」
「俺にも聞かせろよ」
一ヶ月後の二月中旬。ニコはウィーンの美大に出願届を出す。
併せて十点の絵画データを
身元については大学提供の、謂わゆる『難民や事情のある若者のための補助プログラム』があるためそれを使い、ダニのお兄さんにも推薦状を書いてもらう。
無事通過できれば、4月の頭に実技試験と英語での面接だ。
「それで、大学に合格したら奨学金の申請ができるんだ。そこでも面接があって……聞かれても大丈夫なように、今月末にある大学の『学年末展示会』にも行っておこうと思ってて――」
トビーを見ると、眉根を寄せ、何やらぎょっとした顔をしていた。
「お前、本当タフだよな。普通、保護されて数ヶ月でそんなとこまで考えないって」
「別にタフじゃない。僕一人だけダニの家に保護してもらって、パソコンだって一人で使わせてもらってて、他にも色々……それなのに何の役にもたってないのが辛すぎるだけだ」
もらってばかりで、与えられてばかりで進めない自分が嫌いになる。
「家事、手伝ってんじゃん」
「それは、したいからしてるんであって、『手伝う』って言うのも
正直に言って、家事は楽しい。ヴェイルの服の香りがする柔軟剤をちょっと多めに入れて洗濯したり、その間にあちこち掃除したり。部屋中が優しい香りに満たされて、心が落ち着く。だから、働いている感覚はないのだ。
金銭的援助を受けるのは、当たり前ではない。
将来をしっかりと考えるなら、アドリアンのように早く独り立ちしなくてはいけない。
ヴェイルは家族だと言ってくれた。
家族だからこそ、重荷にはなりたくなかった。頑張りたい。嫌われたくない。
自分だって、働いてお金を稼いで恩返しがしたい。
「わかったけど。あんま無理すんなよ。難しい顔して頑張られてもあいつら心配するよ。ダニとか特に」
「うん。『そんな、気を使わなくていいんだよ』ってちょっと前に言われた」
「ほら見ろ」
「でも、勉強したいことをちゃんと説明したら応援してくれるって」
「ん? んー……、美大って何するとこか俺まだよくわかってねえんだけど」
ニコが専攻で学びたいのは絵画と美術史だ。加えてダニも選考している「アートマネジメント」や「美術館学」。
そして、ヴェイルが仕事をしている「インテリアデザイン」や「空間デザイン」の分野も学びたい。志望校ではクロスオーバー・カリキュラムが採用されているから、専攻以外の分野も選択科目として学べる。だから、ここしかないと思った。
「お前、やば……。しっかりしてるよ」
素直な賞賛が
「ありがとう。今は、がむしゃらに頑張るタイミングかなって。僕も変わりたくて」
あの日、森の中を走ったのはニコルの願いに報いるためだった。
彼の背を追いかけ彼と同い年になることは、ニコにとって長年の間、心に定めた運命だった。
けれど生きたかったのは、本当にそれだけが理由だったんだろうか。
あんなに生きたいと望んだ理由。
それなのに命を危険に晒してもトビーを助けたいと思った理由。
どちらも、正直よくわからないのだ。
ただの本能なのか、それとも別の理由があるのか。
外に出て色々なことが未だぐちゃぐちゃと形にならない。
何を
けれど、ヴェイルが家族と言ってくれた。繋がって引き留めてくれるから、ここで頑張れる気がするのだ。
借り物でないコートを彼の膝にかけたい。
ダニたちと、あのウィーンのカフェに行きたい。
これが今、自分が生きたいと思う理由だ。心からやりたいことだ。
自分のことをただ一人の個人として見てくれる彼らの役に立ちたい。
夢が生まれたことで情熱が生まれて、日々がもっと楽しくなる。受験に向けて小さな目標が達成できるごとに、自分にもこれができたのかと、自分が好きになれる気がした。
「わかった。でも、疲れたときは言えよ。動物動画のオススメいっぱいあるからな」
「俺はな、将来、ペットトリマーになるんだ」と宣言したトビーに、それは天職だなとニコは思った。
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