現代クローン研究における吸血鬼の寄与、貢献について

七 文

第一章  飲み物の少年は、大切に廃棄される

 




 "ただ生きているだけで恨まれる"

 それは、ヴァンパイアにとって長年の悩みの種だった。


 人の血を飲まねば生きられない。けれど人を襲えば、その親類縁者しんるいえんじゃからは武器を持って追われる。苦労して飲んだ血も美味いとは限らず、運良く気に入る血を見つけても人の生はあまりに儚い。


 ヴァンパイアは考えた。

 無いなら新たに作ればいい。親もなく、友もなく、後腐れもなく、生死は思いのままの飲み物を。


 人が倫理観で踏み込まぬ科学の領域はヴァンパイアには大層、魅力的に映った。気に入った人間の皮膚から体細胞を取り出し、その核を卵子に移植しクローンとして複製する。

 クローンが老いれば、同じ遺伝子を持つ新たな個体と入れ替えた。そうすれば、永遠に若く旨い血が手に入るのだ。


 ヴァンパイアはこの都合の良い模造人間をルーマニア語で飲み物バウトゥーラと呼び、いつくしんだ。








【第一章 飲み物バウトゥーラの少年は、大切に廃棄される】



 命をかけた鬼ごっこの最中さなか、思い出すのは古い記憶だ。

 ニコルの主人はカッシアンという名のヴァンパイアだった。

 七歳で初めてカッシアンの屋敷に迎えられたとき、幼いニコルは十歳年上の「もう一人の自分」と出会った。


 背の高い彼が、ニコルと話すために身を屈める。


 大きいニコルの焦茶色の髪はふわふわで、太陽の光で金色に透けて輝いていた。榛色はしばみいろの大きな目は水を溜めたように艶やかで、白眼しろめのところなんて薄い青色に見えるほど清らかに澄んでいる。

 笑うとクイッと横に広がる口元。ニコルを抱き上げる力強い腕。


(かっこいいな……)


 今の自分にはないものが彼にはあって、いっしょに過ごすうちに心も優しい人だと知った。自分もこうなれるんだと思うとニコルは誇らしかったのに。

 ほどなくして、カッシアンに血を捧げる役目が自分の元へくると、大きいニコルは遠くへいってしまった。彼が十六の誕生日を迎えてすぐのことだった。


「はぁっ、はぁっ」

 

 時が経ち、今度は自分のばん


 冬。ルーマニア北西部、ザラウの森をニコルは走っていた。

 汗で濡れたシルクのシャツが胸に貼りつく。気道は荒れて熱を帯び、口の中が鉄臭い。

 雪の表面は氷の粒を寄せ集めたかのように、シャリシャリと鳴った。

 踏み抜くとくるぶしを超えるほどの厚さで積もっており、深いところは膝上まで埋まってしまう。右足のローファーは何度も脱げるから、とうとう諦めて雪の中に置いてきた。音も跡も目立ちすぎて、これではすぐに見つかってしまう。


 (せめて雪のない場所を走らないと)


 針葉樹の木立を縫って、ときどき西陽が視界を遮る。けれど、陽光に雪を溶かすほどの力はなかった。右足の感覚は遠く、吐く息は白く濁っては消えていく。


 数時間前のこと。

 「最期さいごは華やかな場所で過ごさせてあげたい」というカッシアンの計らいで、ニコルはこれまでの人生のほぼ全てを過ごしたハンガリーの屋敷から国境を越え、この森まで連れてこられた。

 森の中には古城があり、木々に囲まれた石造りの城では飲み物バウトゥーラの譲渡を目的とする宴が開かれていた。

 バウトゥーラを産み育てるには莫大な金がかかる。人間の科学者を囲う財力のないヴァンパイアには、多数のクローンを持つ余裕はない。「不要なものを手放したい高位のヴァンパイア」と、「同胞のお古でさえご馳走になる者」とで需要と供給が噛み合った。


 日暮れが近づくと、庭へとつづく城のテラスに着飾った少年、少女が集められた。ニコルを含めて数十名。上階の窓際には、獲物を見下ろすヴァンパイアたちの白い顔が並んでいた。

 給仕の男がバウトゥーラに告げる。「日没後、君達の次の主人となる方々が迎えにきます……


 ――さあ、行きなさい


 つまりは、逃げる自分たちを最初に見つけたヴァンパイアに所有権が移る。

 状況が飲み込めず戸惑う子もいたけれど、ニコルは他の幾人かと共に迷わずテラスを駆け降りた。庭を走り抜け、その先の森へ。

 城へ着くまで目隠しをされていたが、ここへは車で来ている。どこかに除雪された道路があるはずで、辿れば人里へ行けるかもしれない。城を横目に森の中を移動すれば道路が見つかると踏んだが、石を積んだ城壁に阻まれ、そう容易くはいかなかった。

 最初は側に誰かの気配があり草木をかき分ける音がした。でも今は皆、散り散りになってしまったようだ。


「痛っ」


 木の枝を踏んで右足の皮膚が裂けた。白い雪に、滲む血の赤が嫌に目立つ。

 止血できるものはないかと考えて、走るのに邪魔だからと一旦、脱いで腰に巻いていたジャケットをほどいた。たしか胸元に飾りのポケットチーフが入っていたはず。と、急にかたわらから小さな声が上がった。

 目をやると、雪の上に十二、三歳に見える少年がへたり込んで座っている。華やかなフリルの襟元には見覚えがあった。顔は青白く、唇は紫に染まり震えている。寒さで動けないのだろうか。

 彼の頭上の木の枝に、黒いネクタイでつくった輪がぶら下がっていた。

 腹の中で、胃がねじれたような心地がした。ヴァンパイアから"逃げる" 方法は一つじゃない。

 ニコルは上がる息を抑えつつ少年に一歩、近づいた。

 

「あの、城に居た子だよね?」


 「お、お前、血が出てるじゃないか!こっちへ来るな。匂いで奴らが来たら」


 「これ着て」


 ハンカチだけ手元に残し、ニコルはジャケットを少年に差し出す。


「は?」


 「僕はすぐ行くし、これには血はついてないから。早く羽織って。きっと血の匂いで僕を追ってくるから、そしたら、君は反対方向に走ればいいし」


「えっ、あ……」


 少年の視線がさまよう。枝に結えられたネクタイとニコルを交互に見る。

 

 (もしかしたら今、首を吊ったほうが楽に死ねるかも)


 少年の心の声が聞こえる気がした。

 この宴の目的は「バウトゥーラの譲渡」だ。でも、それは建前でしかない。

 なぜなら宴は、それなりの頻度で開かれるからだ。


 ニコルも少年もヴァンパイアに捕まれば、手持ちのバウトゥーラと比較される。


 血の味で他のクローンに勝たねば生き残れない。持ち帰る価値のない者と判断されればそこで終わりだ。そもそも、はなからこちらを食い殺すつもりでくるヴァンパイアが多い。捕まった時点で死を覚悟するのが賢明だった。


 ニコルと同じように、少年もその現実をどこかで知ったのだろう。


 だけど、お願いだから自死は選ばないでほしい。ニコルは少年に向け願った。彼が何を選択しようが自分に口出しする権利なんてない。それでも、目の前で命を断つところなんて見たくない。耐えられない。ずっと、みっともなく叫び出してしまいそうだった。激情が喉元まで迫り上がってくる。


「迷ってる場合か。ほら、走って!」


 少年の腕にジャケットを押し付けると、ニコルの勢いに驚いた彼はそれを手によろけて立ち上がり、最後は駆け出した。


 ニコルも右足を庇いながら反対へ歩き出した。しばらく進んでから屈み、靴下の上からポケットチーフを巻いた。

 まだまだ走らなくてはいけない。どこへ向かえば良いのかは、わからないけど。


 ――そのとき、ふわりと何かが鼻をかすめた。


 嗅ぎ慣れたそれは、油絵具の香りだった。

 違和感から周囲を伺い木々の奥に目を凝らすと、細く重なる葉の奥に赤茶色の屋根のようなものの一部が見える。

 この匂いはあそこからだろうか。だとしたら、そこへ行けば血の匂いや体臭を誤魔化せるかもしれない。このまま闇雲に夜の森を走り続けたところで、そのうち体力の限界が来る。立ち止まればすぐに体温も失われるだろう。だったら……。


 ニコルは覚悟を決めて、家屋へと近づいていった。最初、小屋か何かかと思ったそれは、思ったよりしっかりとした造りの一軒の家だった。高さから言って二階建てで、窓の数と並びを見るに二階には数部屋ありそうだ。

 外壁があるため窓から中を覗いて室内を確認することはできないが、少なくとも窓辺に人影は見当たらない。壁には蔦が這い、ところどころひび割れ、手入れされている様子もない。


 家の正面玄関と思しき場所まで回ってみた。

 木製の玄関扉は雨に打たれて、地面に近い方から褪色の度合いが激しくなっていた。緑青色のドアノブを押すと、開くかどうか期待半分だったところを裏切り、わずかに軋む音を立て、重厚感ある扉は滑らかに開いた。

 薄く土埃を被った円形のホワイエに真新しい足跡はない。左手には厚手の絨毯じゅうたんのついた階段があった。ホワイエと地続きで真正面に広い部屋が一つ。がらんと広いそこには予想通り、いくつかのイーゼルと、白い布を被ったキャンパスが点在していた。最奥の壁際には、裏返しにしたキャンパスが幾枚も重なって立てかけられているのが見える。


(アトリエ? でも、なんでこんな森の中に……あの城と関係あるのか?)


 大理石のホールを抜けて、無垢材の張られたアトリエと思しき部屋へニコルは足を踏み入れた。床に落ちていた白い布を一枚借りて肩から羽織る。一歩、一歩と進むたび、油絵具と木の匂いが濃厚になる。

 窓から差す夕日は窓枠の形に切り取られ、四角く伸びて室内を照らしていた。


 平穏な一日の午後、暖かなベッドでまどろんでいるような、あの感覚。ここだけ時の流れがゆっくりで、誰もいないのに人の温かさがあり、でも寂しげで……一瞬、今の自分の状況を忘れてニコルはぼうっと周囲を見渡した。


 部屋の最奥、右側にガラス張りのサンルームの入り口が見える。壁をぶち抜いて後から取ってつけたような感があるそこは、空からの日差しも取り込んで一際ひときわ、輝いて見えた。明るさに惹かれてニコルはサンルームへと近づき、中を覗きこんだ。

 夕暮れの日差しの下、角がすり減ったゴブラン織りのくたびれたソファが置かれていた。その上に銀髪の男が目を閉じて横たわっている。何も植わっていない鉢植にソファからはみ出した長い足を乗せて。

 あまりに急で頭が混乱した。

 作り物か?いや、作り物のように整った顔だが生身の男に見える。もしかして、死んでいる?そう思えるほどに微動だにしない。

 どこまでも薄く白い肌は、その下に流れる血潮すら感じられるほどの透明感で、「これは人の肌じゃない。ヴァンパイアの皮膚だ」と思った。でも、服装が妙だ。ジーンズに白のセーター、黒のロングコート。城にいたヴァンパイアたちとはまるで違う。市井しせいの人間みたいな格好だ。

 美貌のひたいを滑って男の銀色の前髪が一房、ソファへと落ちた。


 逃げなくては。


 なのに視線が吸い寄せられ、逸らすことができない。


 ニコルは男を見つめたまま、後ずさった。背中が何かに当たり、羽織っていた布が落ちる。バサリという音に肝が冷えた瞬間、部屋の中の闇が濃くなった。太陽が雲に隠れたのか。それだけで、室内は夜の暗さだ。先ほどまでの、どこか不可侵で穏やかな空気が消え、何かが忍び込んできたような……玄関扉の向こうで声がする。くぐもっていた話し声は扉が開いた瞬間、冷えた空気を貫いて室内にはっきりと響いた。


「ここか?」


「ああ。鼻がイカれそうだ」


 男が二人、入ってきた。

 本当は、戸外こがいの物音を聞いた瞬間に物陰に隠れようとした。なのに、どういうわけかニコルの意思に反して体がまったく動かない。固まってしまった。男たちの視界には今、ニコルが映っているはずだ。ヴァンパイアは夜目が利く。これくらいの暗さなら見えるはずなのだ。なのに、なぜ? どうして気づかれない?


(はっ、はっ……)


 動転し漏れ出た声が、冷たい大きな手にひたりと塞がれる。背後からニコルの口を塞いでいるこれは、誰の手だろうか。


「やっぱり他の奴らも、ニコル狙いか?」


「さあ。でもあれが一番珍しくて美味い。くそっ、邪魔だな」


 アトリエへ入ってきた男たちが、イーゼルを蹴り倒した。家探しの進路を塞ぐ障害物を端から蹴散らしニコルの方へ向かってくる。

 ニコルの口にまわる手に力が入り、背後へグッと引き寄せられた。シャツ一枚を隔て、背中に密着する衣服の感触。セーターとロングコート。サンルームに居た銀髪のヴァンパイアなのか? 

 男たちは、すんすんと鼻を鳴らしながら、とうとうニコルの目の前にきた。


「妙だな。確かにあいつの血の匂いがするのに……。おーい、出ておいで。怖いことはしない。一緒に帰ろう」


「上の階も見るぞ」

 

 明らかに背後の男が自分を、目の前の二人組から隠していた。力の強いヴァンパイアは同族や人を惑わし支配する。床を踏み締めるドンドンという物音が上から響く間もニコルは動くことを許されなかった。「ここに探しものはない」と結論づけ男たちが出ていった後もニコルは指一本、自分の意思で動かせない。

 

 きっと今にも背後の男の牙がニコルの首筋に突き刺さり、筋繊維の束をいとも容易く引きちぎり血が溢れ――

 

 七歳でカッシアンに迎え入れられてからも、それ以前も、行動の自由のないニコルから見える景色はいつも似たりよったりだった。「叶うなら自由にどこかへ行って、何か心を動かすものを見たい」。そんな抽象的で夢とも言えない夢がある。なのに、とうとうそれすら叶わず、声も出ず涙も出ず心を押さえつけられたまま死ぬのだ。


「お前、動けるのか?」


 耳を打つ、無感動な声。

 気づくとニコルは、男の冷たい指に歯を立てていた。

 

 ずっとずっと、みっともなく叫び出したかった。死にたくない。なのに、何もかも勝手に決められてしまったんだと。

 だって本当は、あと三日あった。十六歳の誕生日まであと三日あった。

 遠い記憶の中で"大きいニコル"が泣いている。十六歳のニコル。せめて、あと三日だけでいい、彼と同じ歳になるまで生きていたかった。




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