妖精の本

永嶋良一

第1話 商店街

 マンションに囲まれた道をまっすぐに進んでいくと、四つ角が現れた。横断歩道を渡ると、眼の前に古い商店街の入り口があった。


 入り口の両脇は寿司屋と花屋だ。それらに挟まれるように、頭上に、くすんだ青字で『しもふり』と書かれた簡素な看板が掛かっている。


 東京都北区にある『霜降銀座商店街』だ。


 加瀬由香里は『霜降銀座商店街』の中に足を踏み入れた。幅が3mほどの狭い道路が右に小さくカーブを描きながら奥に続いていている。道路の両側には、昭和の色を強く残した商店が並んでいた。アーケードはない。


 平日の昼下がりだ。商店街は閑散としていた。


 焼き鳥屋があって・・魚屋があった。魚屋の隣は総菜屋だ。総菜屋の店先には、揚げたばかりのコロッケやフライものが並んでいた。『松坂牛コロッケ 1ケ125円』という表示が由香里の眼を引いた。


 由香里はそれらを見ながら、ゆっくりと歩いた。一足ごとにパンプスがコンクリートに当たって乾いた音を立てた。由香里は26才の会社員だ。いや、会社員だったと言うべきだろう。今日の午前中、会社を辞めたばかりだった。


 由香里は地方の高校を卒業して東京に出てきた。最初に務めたのは、日本橋にある大手の電気店だった。しかし、半年で辞めてしまった。接客業が肌に合わなかったのだ。入社前に言われていたのは内勤の事務の仕事だったが、営業に欠員が出て、新入社員の由香里が営業に回されたのだった。


 由香里は人の役に立つことが好きだった。それも、表舞台に立つのではなくて、月見草のように人の陰に隠れて、誰かの役に立ちたいと思っていた。人付き合いが苦手だった。


 それから、由香里は大塚にある小さな印刷会社に移った。そこは従業員が20人ほどの会社で、女子社員は由香里だけだった。今度の会社は由香里の肌に合った。由香里は充実した会社生活を送った。


 しかし、社長が引退し、息子が跡を継いでからおかしくなった。息子が何かと由香里を誘うようになったのだ。息子には妻子がいた。遊び相手として、由香里を誘っていることは明らかだった。


 そういうことが嫌な由香里は、あるとき意を決して、息子に断りを入れた。すると、それ以降、息子の態度が急変した。事あるごとに由香里につらく当たるようになったのだ。息子の意図は由香里を辞めさせて、自分の遊び相手となる新しい女性を入社させることだった。


 そんな会社に由香里は疲れ果てた。へとへとになって、心がまるでぼろ雑巾のようになってしまった。耐えかねた由香里は・・とうとう今朝、辞表を出してきたのだ。


 由香里はもちろん独身だ。付き合っている男性などはいない。女性の友人もいなかった。わずかばかりの貯えがあったので、会社を辞めてもすぐに生活に困ることはないのだが・・充実していた印刷会社での仕事が、いとも簡単に無くなってしまったことに、ある種の驚きを感じていた。


 これから私は何をしたらいいんだろう・・

 

 由香里の心に空虚な風が吹いた。


 こんなときは、なんだか無性に誰かの役に立ちたかった。そして、そのことに夢中になりたかった。でも、会社を辞めた今となっては・・そんなものは何もなかった。


 由香里は当てもなく、古い商店街の中を歩いた。

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