問いは問いのまま

 私は、思索が好きだ。

 とくに哲学的な問い、人間とはなにか、人生の意味とはなにか、死とは・生とはなにか、永遠とはなにか、そういった答えのない類について考えるのが好きだ。

 思索とは答えを導くためにする行為であるが、私は答えではなく、その行為そのものに浸るのが好きなのだ。であるから、そもそも答えは存在せず、終わりのないものであればあるほどいい。

 学生の時分よりそうだったため、もしかすれば、所謂中二病や高二病なんていうモラトリアムから未だに抜けていないのかもしれない。まったく恥ずかしい大人だと自分でも思う。しかしよく言えば「子供心を忘れていない」とも言えよう。一旦そう思っておくことにする。


 また私は思索のほかに、芸術が好きだ。

 芸術が好きな理由もまた似たようなもので、正しさがなく、答えが一つに限らないところが好きだ。どれだけ試みようと絶対的な正解などは存在せず、いつまでも終着に辿り着くことがない。これほど素晴らしい暇つぶしがあるだろうか!


 人生はいつか死ぬ時までの暇潰しだ。全てを知るのが、何か成すのが到底無理なら、できるだけ楽しく、長く、一つのものに耽っていたい。

 といっても、実際は暇潰しなどではなく、現実に存在する諸問題から目を逸らすための慰みとして使っている。しかしそんな悩みも結局、棺桶に詰め込めるわけではないのだ。その日の暮らしに困窮するのでないのなら、少しは目を逸らしたって良い。


 ちなみに芸術分野においては、鑑賞するのも、作るのも好きだ。鑑賞は分野を問わないが、創作は視覚方面、特に絵が最も得意だ。ここでは好き勝手に書いているが、なんなら文章は苦手な方である。


 そもそも絵を描き始めたのも、言葉の扱いが不得手で、人にものを伝える一つの手段として始めたのがきっかけだった。

 今はかなり改善したが、私の頭の中は酷く概念的で、視覚的で、抽象的だった。

 楽しいときは「ふわふわでうれしい」、悪夢を見たときは「つるつるがぼこぼこになってこわかった」なんて具合だ。

 その割に好奇心は人一倍に強く、細かいことを聞いては、なんでそうなの?などと執拗に質問をして、親を困らせた。

 前述の具合で話すせいでそもそも質問の意図が伝わらないこともあり、よく「ちゃんとわかるように話しなさい」と叱られた。


 一向に私の言葉の扱いが上手くならないものだから、最終的に親はほとんど無視していた。子供とは元来そういうものだと思うのだが。

 なんにせよ私は言葉で伝えることに自信が持てなかったため、絵で言いたいことを補うようになったのだ。

 姉の影響もあってか、絵は同じ年頃の子供たちと比べるなら上手く、賞を取ったりして大人から褒められた。

「言葉じゃ褒めてもらえないけど、絵なら褒めてもらえる」そう思った。

 その時の私は、きっと、ただ親に構ってほしかったのだ。


 さて仔細は省くが、結局構ってもらうことも、言葉の扱いも上手くならなかった私は、一時期、まともに生きていくのが困難になった。

 希死念慮と抑うつに悩まされ、霧の中一人で歩くような不安を抱えて、布団に引きこもっていた。

 その時純粋に、「なぜ生きているんだろう」「私に生きる価値なんてあるのだろうか」、そう自問自答をひたすら繰り返した。

 素っ気無くこの問いに答えるのなら、「生まれてきてまだ死んでいないから」「生きる価値は自分で見出さない限りは無い」と答えられるだろう。当時の私もそれに行き着いて、結局希死念慮を強めるばかりだった。


 そんな時、私を助けてくれたのは哲学だった。

 哲学は生き方を教えてくれる。生き方そのものや、それを探すヒントをくれる。

 たとえば、「人は善に向かうために生きている」とする哲学者がいる。「考えるために生きている」とする哲学者もいる。「神のために生きている」とする哲学者も、「そもそもその問いに答えはなく、口は閉ざすべき」とする哲学者もいる。

 結局、どれが答えかはよくわからなかった。しかし、同じ問いや悩みを抱える人間が、数百年前にも数千年前にも存在して、馬鹿真面目に考えて考えて、考えた末に本にした者すらいるのだという事実は、そしてそのどれもが誰かの答えであり、誰もの答えではないという事実は、少なからず、私の心を軽くしてくれたのだ。

 いつか私も誰かを、救う……などと大層なことは言わないが、多少重荷を軽くできるような、そんななにかができたら、それはきっと私が生きる意味で、価値になると思った。


 そんなわけで、一旦死ぬのは先延ばしにした。

 陳腐な言葉だが、生きているのが辛くても、そのうち生きてて良かったと思える日が来るのかもしれない。

 今も生きるのは全く辛いが、どうせ人に迷惑は十分かけているから、この先の迷惑があってもなくても大差ないし、放っておいても人は死ぬのだ。

 ならば、今すぐに死なずとも、勝手に死ぬまで生きてみるのも悪くない。

 その間に、どれかの問いの答えに巡り会えるかもしれないし、生きる価値も見出せるかもしれないと、今はそう思っている。

 だから今は、問いは問いのまま、暇つぶしに考え続けることにする。

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行き詰まりにて 成田雉 @naritakiji

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