後編



 満月の夜、屋敷の扉を叩く者がいた。

 普段なら家令が出るのだが、助けた妖精が来るかもしれないと考えたイェンスは、他の使用人らを下がらせて自ら出迎える事にしていた。精霊信仰のあるこの国で、妖精を騙した事を知られると外聞がとても悪いので、男は協力者を無力なロニー一人に絞っていたから、今日も後ろに控えているのは少年が一人。


 期待を胸に扉を開ければ、そこには枯れ木のような女が立っていた。痩せているわけではないが老木を思わせる姿。ざらついた褐色の肌に落ちくぼんだ小さな目、ごわついた枯れ草のような髪……。


「イェンスさま、先日は助けてくださりありがとうございました」


 美しい声は、間違いなくあの妖精の声だった。

 男は失望した。人間になっても美しい娘が来ると思っていたのに、現れたのは化け物のような老婆。精霊にもならず、朽ちた女など自分の役には立たぬ。

 縋るように手を伸ばして来た女を、イェンスは全力で振り払った。女は弾かれて、吹き飛ばされるように地面に倒れこむ。

 ロニーは思わず主人を押しのけて、女に駆け寄ると慌てて助け起こした。


「大丈夫ですか」

「ロニー! その女を殺せ!」

「何をおっしゃいますか、彼女が人の姿でここに来たという事は、貴方様に好意を持たれての事。そんな仕打ちなど」

「黙れ、使えない従僕め、おまえの頭はいらんと言っただろう」


 いつも持ち歩く乗馬の鞭を取り出すと、女と召し使いの二人を打ち始めた。ロニーは必死に彼女をかばう。どんな姿をしていても、彼女は哀れな被害者である。この暴君の犠牲になるのは自分だけで十分だし、そもそも自分が罠を仕掛けなければと後悔もよぎる。

 息が切れるほどに鞭を振るった伯爵は、頑なに命令を聞かない従僕を見限った。


「罠を仕掛けたのはおまえだ! つまり妖精に手をだしたのはおまえだ! その罪を濯ぎたいなら、その女はおまえがどうにかしろ、クビだ、出ていけ!」


 ここまでされれば出て行くのは望むところ、鞭打たれて痛む体をなんとか起こすと、彼女が優しく支えてくれた。硬そうな皮膚のその体では、長身のロニーを支えるのは大変だろうに、健気に力を貸してくれたのである。


 二人は暗闇の中、満月の光を頼りに歩き続け、屋敷の傍の湖にたどり着いた。

 彼女は湖の水で浸した布で、ロニーの傷を冷やしてくれる。心優しい彼女には、人になる事を選ばずに自由気ままな精霊になって欲しかった。


「あなたには本当に申し訳ない事をした。ひどい主人の命令に従い、森に罠を仕掛けたのは僕なんだ。あんな伯爵のために大切な選択を誤らせてしまって申し訳がない。僕に出来る事はあまりないけれど、償いをさせてほしい」


 木の幹に預けた体はひどく痛んで、もしかしたらこのまま死んでしまうかもしれなかったが、せめて彼女には詫びておきたかった。


「償い……あなたが責任を取ってくださるという事でしょうか」

「僕に出来る事であれば」

「ならば、私を娶ってください。貴方が十八歳になりました時に」

「僕でよければ、将来あなたを妻に迎える事を誓います」

「婚約は成立しました」


 その言葉が発せられた瞬間、干からびたような彼女の皮膚のシワに沿って稲妻のごとく輝きが走り、ひび割れて幾筋も描かれたかと思えば、老木の樹皮を脱ぎ捨てるように、ロニーと同じ年ごろの愛らしい娘が現れたのである。豊かな髪は真珠の輝き、瞳は紫水晶のごとく。伯爵も美しい男であったが、圧倒的な格差があった。


「人間は時折欲に負けて、卑しい企みをするものですから、選択はさなぎの時にすることになっているんです」

さなぎ……」

「わたくし、あなたに会いにここに来たのです」

「え、僕に」

「蜘蛛の罠には”妖精がかからないように”、あの男と別れたあとには”騙されないように”、あなたは必死に願ってくれました。そんな願いをしてくれる人に、好意を持ってしまった私を許してくれますか」

「許すもなにも」


 不思議な事に彼女が出てくる時の光で、すっかり鞭の傷は癒えていた。

 湖のほとりを見れば、光の小舟が浮かんでいる。


「仲間たちが婚約を祝福してくれました。対岸に私たちの家を用意してくれたようです。早速まいりましょう」

「僕たちの家……?」


 頷く彼女に手を引かれ、光の小舟に乗れば滑るように進み始め、流れる星の軌跡のような尾を引きながら、広い湖の対岸にあっという間に到着した。

 少し歩けば林の奥に小さいが暖かい雰囲気の家があり、近づけば迎えるように勝手に開く。



 それから二人は仲睦まじく暮らし、ロニーが十八歳の日に結婚をして正式に夫婦になった。祝福のために訪れた数多の精霊のうち、伯爵領にいた精霊たちはこのままロニーの家の周辺に留まる事を決め、大地と水、空気のすべて加護をくれた。


 ロニーの土地は豊かになって行ったが、精霊が去った伯爵領は一気に寂れ、若き伯爵は妖精の鱗粉の呪いを受けて端から溶け落ちたという噂を聞いた。実際にどうだったかはロニーに確かめる術はなかったが、好意を持った人間を傷つけた者を、人ならぬ者が許すはずがないというのも、心のどこかで思ってはいた。


 共に噂話を聞いていた妻に軽く視線を送れば極上の微笑みが返されて、すべてを理解したのである。


(了)

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妖精の選択 MACK @cyocorune

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