第9話 欲しくて
食卓に並ぶ朝ごはんは、いつもより彩りがあって、それに量も多かった。お父さん曰く、新学期が始まるんだから、栄養つけてこうよ、らしい。
トマトときゅうりのサラダを口に運んでいると、頭越しになんとなくすみかの視線を感じた。
今目を合わせたらたぶんよくないことになる。
けれど、見られているのに目を逸らしたまま、というのは人間にとってとても不快なもので。
それなりの勇気を出して顔を上げて、すみかと目を合わせた。
すみかはじいっと私の目を見つめてくる。
私も黙ったままで睨むように視線を合わせ続ける。
でも、こういう時に負けるのはいつだって私の方。
「すみか……」
「んん?」
「お醤油、とって……」
耐えきれなくて、口から出てきたのはそんな言葉だった。
すでに目玉焼きには塩をかけてある。
それを知ってか、目をいたずらっぽくきらきらさせたすみかがいいよぉと含みのある声で言う。
醤油の小瓶を私が受け取ろうとすると、手が触れ合って、馴染みのあるあの体温が入ってきた。
体がびりびりして、動けなくなる。
食卓に似つかない、なんとも湿った空気が私たちの間に流れる。
たらりと背中に冷や汗が伝った。
すみかの目がベッドの上でのそれになっていたので、ハッとして醤油を奪い取る。
でもすでに目玉焼きには塩がかかっていて、これに醤油をかけると塩っぱくなっちゃうし、かと言って何もしないのも不自然だし……
私が悩んでいると、お母さんがすみかのほうを向いて言った。
「そういえば、どのクラスに入るのとか、もう学校から教えてもらったの?」
「うん。2組だって」
2組、2組かぁ。私は3組で、すみかとは違う。
まぁ、血が繋がっているのだから離されるのは当然と言っちゃ当然、なんだろうけど。
話とかは、しづらくなっちゃうなぁ。
私が少しでも隙を見せてしまうと、すみかはまるで水を得た魚のようにいきいきとからかってくる。
「七海、すっごく残念そうだね」
「ぜーんぜん! もしクラス同じで席が隣同士とかになっちゃったら、何されるかわかんないし!」
勢いで言ってしまってから気づく。今、お母さんもお父さんも目の前にいるじゃん……
お母さんが不思議そうに聞いてきた。
「あら、何されるの?」
「い、いじわる、とか……」
すみかちゃんはそんなことしないわよぉとお母さん。だよなぁとお父さん。
すみかは私の方を見ながらニヤニヤしていた。こ、こいつぅ……
複雑な3Dの図形が表紙にプリントされた、数学Bの教科書を撫でる。
声が小さいので有名な数学教師が黒板に何かを書きつけている。
それを流し見しながら、私は昨日のすみかの言葉を思い出していた。
–––––七海は私のこと、どう思ってる? 好きか、嫌いか。
好きか嫌いかなら好きだよと、私は答えた。
確かに私はすみかのことが嫌いではない。すみかに抱いているのは間違いなく好感だと思う。
でも、この好感って。
好きって、何だろう。
私はお母さんのことが好きだ。お父さんのことも。
京香のことも好き。それから、すみかのことも。
文字にしたらみんな同じ「好き」だけど、それらはそれぞれちょっとずつ違ってて。
でも。
すみかへの好きは、特別。好きは全部特別だけど、その中でも特別、だと思う。
ただ、何がどんなふうに違うのか、どこが特別なのかが分からない。
よく、普通の好きと恋愛の好きは違う、とネットとかでは目にするけど、私は恋愛の好きにはまだ出会ったことがない。
すみかへのそれがもし世間一般では恋愛の好きと言われるようなものだったら。
想像しようとしても、ぼんやりしたものしか浮かばない。
もどかしいままだった。
「好きってなんだと思う?」
休み時間。だらーんと脚を投げ出して座ってる京香に尋ねる。
「恋愛相談!?」
「いや、違うから……」
たぶん。たぶん違う。
「なぁーんだ」
京香はがっくりと肩を落とした。
「で、京香は好きって一体なんだと思うわけ?」
「好きってのはさー」
京香は手を組んで伸びをしながら言う。
「一緒にいたい、一緒にいて欲しい、見たい、食べたい、欲しい、話したい、やることやりたい…… とか、そういういろんな欲望がありますよーってことだよ」
なんか、今まで聞いたことなかったような、新鮮な考え方だ。
私は一番気になってたことを聞くことにした。
「じゃあさ! 友達に向ける好きと、恋愛感情を持ってる人に向ける好きって、何が違うの……」
「……七海、もしかして私のこと好きなの?」
「ちがうから! いや違わないけど! そういうんじゃ、なくて。ただ、私の中にある好きっていう気持ちが何なのか、いまいち分かんなくて」
京香は腕を組んで真剣な顔になった。
「うーん、好きっていう感情はいろいろあるんだろうけど、好きの中にもいろんな好きがあって、それを言葉で完璧に表現するのは無理なんじゃない? これが私の好きだ!って七海が思ったんなら、それが七海の好き、なんだよ。わざわざ名前つけて分類なんかしなくても、そういうの、心か体が勝手に感じ取ってくれるからさ」
京香の言葉が体に染み渡っていく。
うんうんと頷きながら、京香は続けた。
「全く同じ好きなんて絶対、どこにもなくて。それを友達か恋人かの2つで分けてしまうのは不自然だよ。もちろん、奇跡的にそれが友達か恋人のどっちかだ、って言えるならいいけどね。分からないなら、分からないでいいし。言葉にできなくても、それが存在しないわけではないから」
「……」
「ん?私何か変なこと言った?」
「いや、普段の京香からは想像できないくらい、すごく良いこと言ってるから……」
「ひでぇ! あたしだっていつも色々考えてるんだからな!」
「へへ、ごめん。 でもすごく、響いたよ。正直100%理解したってわけでは、ないけど」
胸に手をやる。あたたかい。
京香はよかったーと言って立ち上がった。
「七海には今、好きってなんだろう、みたいに思わせてくれるような人がいるってこと、だよね」
「……たぶん、そう」
「名前をつけるにしても、つけないにしても、その人と一緒にいる中で、自分の気持ちをじっくり観察してみたらいいんじゃないかな」
「自分の気持ちを、観察……」
「うん。良いとこにおちつくといいね」
「……京香、ありがと!」
京香はにっこり笑って、ばしばしと私の背中を叩いてくる。
「いいのいいのっ!また映画一緒に観に行こーね。すみかちゃんも一緒に」
「すみ、か……」
ざらざらと、心臓に何かを差し込まれるような。
「あれ、名前違ったっけ? すみか、だよね。あの従姉妹の子」
「あ、そうそう。すみか」
「別クラになっちゃうと話す機会があんまり無いよねー」
私は上の空で頷く。
急にすみかの名前が出てきたことで、私は突然心が無防備になったような感覚に陥っていた。
すみか。
心の中でつぶやく。
すみかのことは確かに好きで。
多分それは京香の言った通り、言葉ではとても表せない好き。
無理して名前をつけなくてもいい。
心か体が勝手に感じてくれる。
京香の言っていた言葉をゆっくり噛み締める。
知らず知らずのうちに抱え込んでしまっていた肩の荷が降りたような気がした。
ふうと息をついた刹那、廊下の方に視線を感じて振り返る。
急いで立ち去るような足音。紺色のスカートが靡くのが見えた。
お昼休みになって、トイレで手を洗っていると、ドアがガチャガチャと音を立てた。
ここのトイレは校舎の奥まったところにあるのであまり人が来ない。それなのに中身は綺麗にリフォームされているから、私はよく使っている。
けれど、引き戸が古いのか建て付けが悪いのか、扉をちょっと上に持ち上げてからじゃないと開かないのだ。
初めてここを使う人は大抵混乱する。私もそうだったし。
取手を持って、力を込めてあげる。
がたりと扉が開いた。
「すみか!」
「……七海」
なんとなく沈んだ顔のすみかが、そこにはいた。
「そっちのクラス、どんな感じ? ってか学校、馴染めそう?」
「うーん、これからってとこかな」
「あ、その言い方するってことはひょっとして、自己紹介うまくいかなかった?」
すみかをからかえる機会はなかなか貴重だ。ここぞとばかりに私は攻める。
「らしくないなぁ、すみかちゃん」
明らかに不機嫌そうだった。
「別に」
そう言ったすみかがさっと距離を詰めてきたかと思うと、次の瞬間には首の後ろに手を回されていた。息が詰まる。
「え……」
すみかはそのまま顔を近づけてくる。
すんすんと、首と制服のすきまを嗅がれた。
「ここ、学校なんだけど……」
こうなったすみかはしばらく止められない。
観念してされるがままになっていると、突然古い引き戸がガチャガチャと音を立てた。
心臓が強烈な一拍を刻む。嫌な汗が出た。
「すみか、誰かいる!」
声を押し殺してそう訴えたけれど、すみかは気に留めるそぶりすら見せない。
開け方を知らない人だったらしく、ものの数秒で静かになって、足音が去っていく。
私はぐにゃりと床に崩れ落ちた。
「良かったぁぁ……」
「あの子とは、昔から仲良いの?」
「え?」
すみかの声が、頭上から降ってきた。
見上げたけれど、照明が逆光になってて、その表情はよく見えない。
「……なんでもない。じゃ、また家で」
そう言い残してすみかは出ていってしまった。
えーっと、すみか、何のためにトイレ来たの……?
今日も今日とて私たちは一緒のベッドの上にいた。
すみかが私の太ももに手を乗せて、囁くように言う。
「七海は、私の従姉妹」
「うん……」
分かってるよ、そんなの。私たちはどうやったって従姉妹同士だもん。
「今から何されるか分かる?」
「分かんないよ、すみか」
「そう。……こっち、来て」
すみかは私の二の腕のあたりに顔を近づけて、全く自然に、ぴとりと唇をつけた。
腕に触れた全く未知のその感触に、思わず声が漏れる。
「ひゃっっ!?」
「黙ってて」
すみかが唇をつけているところに淡い痛みが走る。何をされているのかは聞かなくても分かってしまった。
「ねぇちょっとすみか、それ……」
段階をいくつもすっ飛ばされて。そもそも私たちにそんな段階なんてもともとなかったはずなのに。
私は何も考えられなくなっていた。我ながら処理能力がよわよわすぎるよ、わたしの頭……
しばらくして顔を離したすみかは、赤い跡が付いた私の腕を見つめながら言った。
「しるし」
「しるしって何の……」
「何のって、そりゃ、従姉妹のだよ」
従姉妹のしるし。
そう言い切ってしまうには、それはあまりにも生々しすぎて。
跡が付けられたのは服の袖で隠れる場所だけど、もし他の人がこれを見たら、まず間違いなく従姉妹のしるしだとは思わないだろう。
皮膚だけでなく、私の心の奥深くにも、そのしるしは刻まれたような感じがした。
そっとそこを撫でると、まだ湿り気が残っていて、慌てて手を離す。
また恥ずかしいとこを見られたと思ったけど、すみかの視線は窓の外に向いていた。
「私、自分のこと結構嫌いなんだよね」
すみかはぽつりとつぶやいて、そのままベッドに倒れ込む。
聞こえてくる寝息のペースがいつものものと違ったから、私にはそれが眠ってるフリなんだって分かった。
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