黙示の百合
皇帝栄ちゃん
第一幕 ノリ・メ・タンゲレ
淡い栗色の髪を頭の左右で黒いリボンにまとめて細くたらしている。ややつり目の瞳は石炭のようなスレートグレイ。衣服は、真っ白い小洒落たブラウス、鼠色のミニスカート、アッシュグレイのタイツに包まれたしなやかな太ももと足首、黒のスニーカー。身長は153センチ。男性が注目するところの肉体発育は少々不足気味といったところ。
彼女は15歳の少女で熱心なキリスト教徒である。教派はローマ・カトリックだ。
両親は熱心なキリスト教マニアである。マニアであって教徒ではない。娘は12月27日に生まれた。使徒聖ヨハネの祝日だから、夜初音という名前をつけた。
そんな親に育てられたから、彼女はキリスト教にどっぷり浸かって、教徒になって、洗礼の秘跡も受けた。洗礼名は使徒聖ヨハネのラテン読みであるヨハネスだ。
夜初音はネウマ譜を読むことができ、ラテン語でグレゴリオ聖歌を唄える。また、新約聖書の最後に位置する『ヨハネの黙示録』を丸暗記しており、すらすらと口述引用できた。
ある日彼女は、自分の名前の由来となった使徒ヨハネに会いたいと思った。思ったが吉日、旅に出ることに決めた。
「お父さん、お母さん、いままで育ててくれてありがとう。私は、聖ヨハネに会うため出立します」
「洗礼者のヨハネかい?」
「違います。イエスの使徒であり福音記者であり黙示録の著者であるヨハネよ」
「だけどねえ、使徒と福音書を書いたのと黙示録を書いたのはそれぞれ別人だというのが近年の通説だよ」
「伝統的には同一人物なの。だから私は福音記者ヨハネも黙示録のヨハネも使徒のヨハネだと信じているわ。十二使徒のなかでただひとり殉教せず天寿をまっとうして昇天したんだから、黙示録にある千年王国到来時の第一の復活まで待たなくてもお会いすることができるはずだと思うの」
「そうかい、なら頑張りなさい。おまえに父と子と聖霊の導きがあらんことを。アーメン」
「私が主と子羊と霊の導きを受け給いしことを。アーメン」
2月上旬の肌寒い日に、そうして少女は旅立った。
使徒聖ヨハネを模ったメダイのペンダントを首にかけ、一切れのパンとミネラルウォーターのペットボトル(500ミリリットル)、朱と橙のツートンカラーをした革風表紙のハンディサイズの聖書(新共同訳)、中学入学時に学校から進呈された祈祷書(公教会祈祷文)、その他小道具を詰め込んだワインレッドのバックパックを背中に背負って。
家を出たところで、ひとまわり歳の離れた幼なじみの
「なんだ、お姉ちゃんじゃない」
「あれ、夜初音ちゃん、どこか出かけるのかい」
カーキ色の髪をした黒いサングラスの女。グレーのセーターとクリームイエローのスラックスという、ファッションとは無縁のあっさりした服装。見た目からして人間の軽薄そうなこの女は20代半ばで完全無欠のニートだ。普段はアニメやゲームに没頭、だらだらと現実逃避している。
「すっかり堕落したお姉ちゃん、はやく悔い改めたほうがいいわよ。こうしているあいだにも神の国は近づいているんだから」
「手厳しいなあ。それで、どこか出かけるの?」
「使徒の聖ヨハネに
「ええっ、かわいすぎる女の子ひとりでそんなあてどもない旅なんて危ないよ。ほら、レ〇プとかレ〇プとかレ〇プとか!」
「Noli me tangere(私に触れるな)」
「あいたっ。い、いきなり蹴るなんてひどいよ夜初音ちゃん」
「うっさいわね。穢れた言葉を連呼して近づこうとするからでしょ。主よお許しください、このひとは自分が何を口走っているかわかっていないのです」
夜初音が祈っている最中にも陽子は危険だからあたしもついていくと何度も繰り返した。再度蹴りつけようとして夜初音は考えを改めた。これは「霊」の導き合わせではないだろうか。それならそのようにするのが最良の選択だろう。
「わかったわ。でもひとつ条件があるの。――鷲になってちょうだい」
「ワシって……空を飛ぶ鳥の?」
「当たり前じゃない。鷲は使徒聖ヨハネのシンボルよ。私を守護し導くものとして是非もないでしょ」
「でもあたしはニンゲンだよ。ムチャ言わないで」
「信心深いまことの信徒が心から祈ればかなえられるの」
夜初音はブラウスの胸ポケットからラテン十字のロザリオを取り出して天に掲げ、聖フランチェスコに祈りを捧げた。
すると幼なじみの女は一羽の鷲になった。
「ひいっ、あたしが鷲になっちゃったよ!」
「アッシジのフランチェスコは自然環境の守護聖人でシンボルは鳥だから。それじゃ行きましょ、お姉ちゃん」
こうして夜初音は旅の同行者を得た。
旅立ったものの、何処へ向かうべきか。幼なじみと顔をあわせて同行者としたことが「霊」の導きならば、それに任せるのが正しいだろう。
「さあ鷲よ、好きなところへ行きなさい」
鷲は少女の頭上を三度まわり、飛んだ。夜初音は黙してその後をついていった。
いくつか電車を乗り継ぎ、やがてひとつの建物の前でとまった。夜初音はその建造物を見た。渡し舟を漕ぐ二次元美少女の絵が描かれた看板が上部にかかっている。少女は大バビロンの臭いに鼻をつまみ、訝しく眉を寄せた。
「なに、ここ」
「カロンブックスだよ。好きなところへ行けって言われたから」
夜初音は頭上の鷲をひっ掴まえると、両手でその首を絞めた。
「ぎゃー、夜初音ちゃんの言ったとおりに行動しただけなのにっ」
「大淫婦は裁かれよ! えっ、なに、それとも頽廃の都ソドムとゴモラみたいに硫黄の劫火で滅ぼされることを期待しているの? 天罰! 天罰! 天罰! 天罰ッ!」
「
苦しみもがいて鷲が暴れた。そのとき、はずみで厚い片羽根が夜初音の右の頬を打った。鷲の体にまだ慣れていないので加減がわからなかったのだ。
「あっ、ごめん! 大丈夫?」
ひりひりと痛む頬に手を当て、夜初音は涙をにじませて鷲をにらみつけた。はらわたの煮えくり返る心持ちであったが、すぐさま思い直して左の頬を差し出した。
「こっちの頬もぶちなさい」
「……マゾ?」
「ちがうわよ! 『あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい』というイエス様の御言葉に倣ってるの! さあ、遠慮なくやりなさい」
「ほ、ほんとにいいの? あたし、夜初音ちゃんに暴力を振るうのは嫌なんだけど……」
良心の呵責に苛まれつつも、鷲は思いっきり夜初音の左の頬を打った。
すると夜初音はふるふるとふるえ、怒鳴った。
「よくもやったわね! 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさいって聖書に書いてあるでしょ!」
「えぇーっ!? だ、だって、遠慮なくやりなさいって――」
「何か悪いことを私が言ったのなら、それを証明してみなさい。正しいことを言ったのなら、なんで私をぶつのよ!」
「そんなムチャクチャな……」
「キリスト教は愛の宗教よ。第一に『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二に『隣人を自分のように愛しなさい』なの。だから今のお姉ちゃんの愚行も愛によって私は赦してあげるわ。わかったなら、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」
「なんかものすごく納得いかないけど、わかったよ」
そんなわけで、聖夜初音が丁寧にへりくだって自分の幼なじみである鷲と語り合うさまは、見るも敬虔なものだった。
キリストの賛美と栄光のために、アーメン。
疲れたので、ひとやすみするため川に行くと、松明のように燃えている大きなお星様が、天から落ちて来た。お星様がころころ転がって近づいてきたので、夜初音は指先で触れて舌でなめてみた。
「うわっ、にっがぁい!」
「当然だ。ボクの名前は「苦よもぎ」というんだから」
「第三のラッパも吹き鳴らされていないのに「苦よもぎ」とは冒涜的な。甘くて苦い巻物なら悦んで食べるけど」
「おまえはボクの毒をなめたのに何故死なない?」
「使徒聖ヨハネは毒杯をあおっても真の信仰ゆえにびくともしなかったそうよ。彼の祝日に生まれ、その洗礼名を受けた私に冒涜の毒が効果あるわけないでしょ」
夜初音はバックパックから取り出した聖書を繰って言った。
「見よ、主の怒りの嵐が吹く。嵐は荒れ狂い、神に逆らう者の頭上に吹き荒れる」
突然に激しい嵐が吹き荒れ、お星様は見る間に吹き飛ばされてきりもみ状態で彼方の地上に落下した。そしてパチンとはじけて米国星条旗の星空が広がった。パラパラと色とりどりのコンペイトウの雨が降った。
夜初音がひとつまみしてなめると、今度は甘くておいしかった。
お星様と一緒に吹き飛ばされていたらしい鷲がほうほうのていで戻ってきて、夜初音の肩にとまったとき、天から声が響いた。
『わたしはアルファであり、オメガである』
その瞬間、夜初音の衣服の色が、頭のリボンからブラウス、スカート、タイツ、スニーカーにいたるまで、すべて淡いルビーレッドに染まった。
絵画に見られる使徒ヨハネの服は大抵が赤い色で描かれている。
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者が言われた。そして私の服は朱に染まった。きっとこれは私が使徒聖ヨハネに会うための啓示に違いないわ!」
「そ、そうなの? あたしにはもう何がなんだか……」
「私に付き合うの、やめる? ついて来るも来ないもお姉ちゃんの自由。強制はしないわ」
「なんか事が終わらないとあたしは人間の姿に戻れなさそうだし、夜初音ちゃんのために付き合うよ」
「よろしい。信じる者は幸いである。――父と子と聖霊の御名において、アーメン」
夜初音は満足げに十字を切った。
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