第43話「仮面の主、宮廷に」

ヴェルサイユ宮殿・書記局脇の小間——

薄明かりの下、シャレットは匿名の手紙を卓上に置き、静かに息を吐いた。


> 《仮面の主は、宮廷の中にいる。》


ド・モードが羽根ペンの穂先で文字の癖をなぞる。「細身の縦画、終筆のわずかな跳ね……王室文書官の手だ。外の者には真似しにくい」


ピシグリューが低く唸る。「つまり、敵の腕は内側まで伸びてるってわけだ」


シャレットは短く頷き、扉の方へ視線をやった。「誰も、軽々に信じるな。——陛下でさえ、今は孤独でおられる」


三人は無言のまま、動くべき時を測った。


同・夜 地下回廊——

しみ込んだ湿気が石肌から返る。三銃士は火皿を頼りに、旧礼拝堂へ続く暗い通路を進んだ。

かすかな靴音——。シャレットの手が自然に柄へ落ちる。


影が壁から剥がれ、刃が閃く。鋼が打ち合う一瞬、火花が白く跳ねた。


「名を名乗れ」


応えは無い。俊敏な身のこなしで距離を外し、影は灯りの輪の外へ流れる。

ピシグリューが踏み込み、ド・モードが回りを塞いだそのとき——火皿の炎がふと明るみ、相手の顔が露わになる。


「……君は——」


青い瞳が、三人の視線を真正面から受け止めた。

男はゆるやかに剣を下げ、短く言う。「誤解は避けたい。今は敵ではない」


「リュシアン……生きていたか」シャレットの声音がわずかに和らぐ。


彼は深くは語らない。ただ、掌ほどの紙片を差し出した。

日時と部屋番号、そして“密会”の符牒。侯爵派の書記官の手になる走り書きだった。


「ここで、仮面の者が合図を受ける。場所を移す前に見張れ」


「何者に追われている?」ド・モードが問う。


「……この宮殿そのものに潜む“歪み”だ」

それだけ告げると、リュシアンは闇に紛れて去った。残ったのは乾いた靴音の余韻だけ。


ピシグリューが肩をすくめる。「昔のまま、要点だけ置いて消えやがる」


「充分だ」シャレットは紙片を握りしめた。「踊りの幕が上がる」


同・夜 大広間——仮面舞踏会

燭台の炎が幾千の星のように瞬く。絹と香の渦、音楽の波。

マリーは緩やかな微笑みで挨拶を返しながら、視線の端で回廊の影を見張っていた。

(ここにいる——“仮面の主”)


黒曜石の仮面が、人込みを滑るように移ろう。声は低く、囁きは刃。


「——王妃の血こそが鍵だ。王朝の呪縛を断つには、聖なる血を滅ぼせ」


囁きは次の輪へ、さらに次の輪へと伝播し、顔の見えぬ恐怖が花のように開いていく。

シャレットが距離を詰め、ピシグリューが出口を塞ぎ、ド・モードは階上の回廊へ回った。


「止まれ」

呼気ほどの静かな声で、シャレットが告げる。

仮面の主は一瞬だけ肩を揺らし、扇を開く仕草で視線を散らした——次の拍で、燭心が一斉に揺れ、影が床に踊る。


「灯を——!」

合図と同時に、男の姿は群衆の色に溶け、次の柱影へ、そしてバルコニーへ。

ピシグリューが欄干を越え、ド・モードの短剣が飛ぶ——黒衣は布一枚を残して消えた。


残響。ざわめき。香の匂いにわずかな焦げの気配が混じる。


「追え」

シャレットの二言で、三人は散開した。


王妃私室——

舞踏の余熱がなお残る夜、サンジェルマン伯爵が静かに現れる。

マリーは窓辺に立ち、庭の闇を見下ろしていた。


「見ました。彼は“人”でしょうか」


伯爵は首を横に振る。「名前を変え、姿を変え、時を渡る“意志”——たとえるなら、影のまま続く風。

ひとりの侯爵でも、ひとつの派でもありません」


「では、何を狙っているのです」


「歴史の曲がり角で、『鍵』を握る者を折ること。誰であれ“未来へ渡すはずの火”を消すこと」


マリーはしばし沈黙し、掌を胸へ当てた。心臓の拍が、妙に遠く聞こえる。


「……怖れは消えません。けれど、歩みは止めません」


伯爵は柔らかく目を細める。「それで十分。恐れは灯を覆う影にすぎない。灯そのものを消しはしない」


中庭——

夜露が芝を濡らし、池の面が月を抱く。

マリーはひとり水際へ歩み寄った。匿名の手紙の薄片が指の中で柔らかく折れる。


(仮面の主は、宮廷の中にいる——)


風が薔薇の生垣を渡って頬を撫でる。

誰かの声が、確かに耳朶へ落ちた。


——真実を知りたければ、鏡を見よ。


ゆっくりと池を覗き込む。

水面に映る“自分”の輪郭が、ひとしきり月光に震え、やがて重なりをずらす。

白い装いの女性が、焔の向こうで旗を掲げる影と一瞬だけ二重写しになった。


マリーは息を呑み、目を閉じ、そして開く。

水は静かに彼女を映し返すだけ——けれど胸の奥で、確かに何かが目を覚まし始めていた。


「……まだ、終わらせない」


囁きは夜気に溶け、遠い塔の鐘がひとつ鳴った。


闇は深い。だが、仮面の奥へ差す一筋の光もまた、たしかに強まっていた。

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