第20話 静謐の密会
夜のヴェルサイユ宮殿には、日中の華やかさとは異なる重厚な静けさが漂っていた。蝋燭の光だけが回廊の一角を照らし、床に長い影を落としている。
マリー・アントワネットは、侍女すら寄せ付けぬまま、一人でその通路を歩いていた。
向かう先は、宮殿の最奥にある小さな応接室。今では誰も足を踏み入れぬその空間には、代々の王族も知る者の少ない秘密の扉があった。
彼女が静かに扉を開けると、すでに部屋には一人の男が待っていた。
漆黒の外套に身を包み、深紅のワインを一杯、ゆったりと揺らしている。歳を重ねた風貌ながらも、どこか年齢を超越した印象があった。
「……遅くなりました…
サンジェルマン伯爵。」
マリー・アントワネットが頭を下げると、伯爵は穏やかに微笑んだ。
「王妃たるあなたが、わざわざ私などを訪ねてくださる。それだけで、この夜は十分に価値のあるものになります」
その声は低く、どこか音楽のような抑揚を持っていた。
彼女は対面の椅子に静かに腰を下ろす。二人の間には、言葉にはできない時間と理解が流れていた。
「——私の胸に、時折浮かぶのです。言葉では説明できない、記憶ではない何かが」
マリーはふと視線を落としながら語る。
「この世界に生きているという感覚は確かにあるのに……どこか現実味を感じられない。私が誰で、ここにどうしているのか。すべてが曖昧で」
サンジェルマンは、ワインを一口だけ口に含んだあと、静かに言葉を継いだ。
「あなたが“今”という時代に違和感を覚えるのは当然です…本来あなたはこの時代に似つかわしくない人なのですから…」
マリーは目を伏せたまま、小さく頷いた。
「……やはり、私は……」
「過去に遡ったわけでも、夢を見ているのでもない。あなたはここに“在る”。そして、この時代において、最も大きな運命の交差点の中心に立っている」
彼の言葉には、重さと確信があった。
マリーは、少しの沈黙ののち、ふと微笑を浮かべる。
「それでも、私はまだ……何も思い出せていません。自分がなぜこの立場にあるのかも、果たすべき“役目”が何なのかも」
「それで良いのです」
伯爵は静かに言った。
「あなたが“思い出す”その時までは、ただこの立場を演じ続けること。それが、今のあなたにとって最も重要な務めなのです」
「……役を演じる。王妃として」
「いえ、“王妃という仮面の下にある、本来のあなた”の覚醒の時を、私はただ静かに待っているのです」
マリーの指先が、ふと膝の上で震えた。だが彼女は目を上げ、まっすぐにサンジェルマンを見つめた。
「では伯爵……あなたの目的は?」
その問いに、伯爵は少し笑った。まるで、幼子に問い詰められた親のように、優しく、どこか懐かしむような口調だった。
「時の流れに抗い、歴史の節目を正すこと。あるいは、選ばれし者を導くこと。そのどちらでもあり、どちらでもない……」
「曖昧なお答えですね」
「私という存在が、曖昧でできているのです。あなたも、いずれ気づくでしょう」
マリー・アントワネット——否、“彼女”は静かに椅子から立ち上がった。
「……伯爵、次はいつお会いできますか?」
「必要な時には、必ず現れます。私はそういう役割なのです」
マリーは最後に深く頭を下げた。
「ありがとうございます、伯爵。今夜のお言葉、胸に刻みます」
そして、静かに扉を閉じた。
サンジェルマン伯爵は一人残された部屋の中で、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「あなたの目が、真実を見つめるその日まで……私が傍にいましょう」
蝋燭の灯が静かに揺れていた。
——その光が導く先が、希望なのか破滅なのかを、まだ誰も知らなかった。
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