借主は妖狐
「ぎゃあああ! うわあああぁぁぁ!」
レインはその「耳」を両手で覆いながら、器用に掛け布団を被り頭だけを隠した。紫音の頭に、頭隠して尻隠さずという、ことわざが浮かぶ。
「なんということだ……なんたる失敗……」
ぶつぶつと呟きながら、布団の中でレインは震えている。紫音の足も震えていたが、ぐっと立ち上がりレインが被っていた布団を勢い良く剥ぎ取った。レインはまたしても「ひえっ!」と悲鳴を上げる。
「見ないでくれ!」
「そういうわけにもいきません!」
布団を被ろうとするレインと、それを阻止しようとする紫音で、掛け布団は引っ張り合いになった。ちぎれるのではないかという寸前で、紫音は勇気を出してレインに向かって叫んだ。
「あなたはいったい、何なんです!?」
「私は! ただのイギリス人だよ!」
「じゃあ、その獣の耳は何なんです!?」
「っ……!」
レインは力無く、その場にへなへなと膝をついた。紫音は掛け布団を投げ捨てて、レインに近付く。
「その耳……本物なんですか?」
「……」
「レインさん。あなたは……」
「っ! ごめんなさい!」
レインは額を畳に擦り付けて頭を下げる。土下座だ。紫音はぎょっとする。
「家賃はまとめて一年分払います! すぐに出て行くから、このことは誰にも言わないで下さい! 人間様!」
「に、人間様?」
紫音は困惑した。急に土下座をされ、人間様と呼ばれ……おかしな耳まで生えているレインに、紫音の頭はついて来れないでいた。
「人間様って、なんで俺のことをそんな風に言うんですか?」
「それは……」
「それって、レインさんが人間じゃないからですか?」
自分でそう訊いておいて、紫音の心臓はばくばくと鳴っていた。ありえない。「人間では無い」なんて、ありえない。違うと言ってくれ、そう思っていたが、レインの口から出てきた言葉は——。
「……そう、です。私は、人間ではありません」
紫音の背中を、冷たいものがすっと走った。
レインは顔を上げて紫音を見ながら言う。
「私は、妖狐。狐の妖怪です……」
「よ、妖狐……」
紫音は息を呑む。
狐の、妖怪。
そんなものが実際に存在するのだろうか。
だが、実際に目の前に居る。奇妙な獣の耳を生やした「その人」が、存在しているのだ……。
「っ……!」
紫音はこの部屋から逃げ出そうとした。だが、足をレインに掴まれてしまい、前のめりに転びそうになる。
「は、離して!」
「待って下さい! 私の話を聞いて下さいませ!」
「嫌だ! お化け!」
「お化けではありません! 妖怪です!」
「どっちでも良い! なんで俺を騙そうとしたんだよ!」
「騙そうだなんて……」
しゅん、とレインの獣の耳が下がる。
「私、もう二百年は人間として生きてきました。今さら人間様を騙そうだなんて思いません!」
「に、二百年!? そんなに生きているの!?」
紫音は驚きのあまり、その場に座り込んだ。今のレインの姿を見る限り、そんなに生きているとは想像出来ない。これも、妖怪の力だというのだろうか。
「シオン様!」
「や、止めて下さい。敬語なんて今さら……」
「ああ、油断をしました。疲れると耳が元に戻ってしまうんです」
レインは紫音の手をそっと取った。紫音はびくりとする。レインの手がとても冷たいと感じるのは、恐怖からなのか、それとも本当に冷えているのか……今の精神状態の紫音には判別出来なかった。
「ああ、どうしたら……今までは誰にも見つかったことが無いのに……あの方達以外には……」
「あの方達?」
紫音が首を傾げると、レインは小さな声で話し始めた。
「……恩人のことです。私を助けてくれた日本人の夫婦は、私が妖狐であることを受け入れてくれました」
レインは息を吐く。
「私には親が居ません。物心がついた時には森に居て、猟師に狙われる日々を過ごしていました。ある日、猟犬に噛まれて足を負傷してしまい、雨の中、住宅街を彷徨っていたところ、私は日本人の夫婦に拾われたんです。怪我の治療をしてもらい、温かいご飯まで食べさせてくれた」
「……」
「彼らは私の銀色の毛色を見て、私のことを普通の狐では無いと見抜いたんです。案の定、私の傷は通常の倍の速さで癒えましたし、二足歩行も出来るようになった。そして……人間の姿に変身し、言葉を操るようになった。彼らは言いました、私は妖狐に違いないと」
レインの言葉を紫音は真剣に聞いていた。レインの瞳は不安気に揺れているが、とても嘘を吐いているようには見えない。すべてが、本当なのだろう。
レインはふっと息を吐き、ゆっくりと目を閉じながら続けた。
「彼らは私を匿ってくれました。妖怪であることが周りの人に知られてしまったら、見せ物にされて……殺されてしまうかもしれないと考えたのです。私は子供の姿に化けて、彼らの本当の子供として生きました。少しずつ身体を成長させて、学校にも通わせてもらった。ああ、懐かしい。すべてが幸せだった」
「……そのご夫婦は、どうしてすんなりレインさんのことを受け入れてくれたんでしょうか?」
「それは、彼らもまた異端者だったから」
レインは悲し気に眉を寄せる。
「彼らは日本人であることを隠して生きていました。海の向こうが見てみたいと、無謀にも船で冒険の旅に出たと言っていました。海は荒れ、流されたどり着いたのがイギリスだったと……日本で英語を勉強していたので読み書きや話すことには困らなかったようです。彼らに教わったので、私は日本語と英語を使うことが出来ます」
「なるほど……」
「ただ、彼らもまた異端者になることを恐れた。日本人であることを隠し、イギリス人のふりをしていたのです。なので、森で異端者だった私を助けてくれたのでしょう……」
「それは……みんな、大変でしたね」
「うう……」
紫音はレインを見る。閉じられた彼の目元には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……そのご夫婦以外の人に、自分が妖狐だってカミングアウトしたことは一度も無いんですか?」
「無いよ……約束したんだ。これはもっとも信頼出来る人にしか言ってはいけない秘密だよって。バレたらきっと……生きにくいからって……」
レインはすっと目を開けて、水色の瞳で紫音を見た。どこまでも透き通った色。その瞳の中に、紫音の姿だけが映っている。
「シオン……いや、人間様。どうか、何も見なかったことにして下さい。私を助けて下さい……頼みますから、どうか……」
勢い良くレインは頭を下げた。紫音は慌てて握られた手を解いて、震えているレインの肩に触れた。
「言わない! 言いません、誰にも!」
紫音はレインを安心させるように、強く彼に言った。
「事情は分かりました! 俺はレインさんの言葉を信じます! だから顔を上げて下さい!」
正直なところ、紫音の心はまだ穏やかではなかった。借主が実は妖怪だったなんて、そんなこと誰が想像しただろう。
だが、レインは二百年の間、人間として生きてきたのだ。それはもう、妖怪ではなく人間と同じようなものだと紫音は思った。それに——。
レインは言っていた。自分には親が居ないのだと。
紫音の両親は忙しい人たちで、滅多に家に戻って来ない。なので、紫音の心を占める祖父の存在は大きなものだった。
——長い年月の間、誰にも言えない秘密を抱えるのって、しんどかっただろうな……。
レインの命の恩人は、もうとっくに亡くなっているのは訊かなくても分かることだ。
きっと、ずっと、レインは孤独だったのではないかと紫音は思った。心の支えを失うことの辛さは、紫音には痛いほど分かることだった。
「……雨の日に助けてもらったから、レインという名前なんですね」
紫音がそう訊ねると、レインは小さく頷いた。
「初めてもらった名前で……ずっと大切にしていて……」
「素敵ですね。良いことだと思います」
紫音は笑顔を見せながら、今度は自分からレインの手を握った。
「大丈夫です。俺は、直感だけど、レインさんは良い人だって思ってましたから、それを信じ続けます」
「……人間様」
「あ、そういう堅苦しいのは止めて下さいね。俺のことは紫音と呼んで下さい。敬語も止めて下さい」
紫音の言葉に、レインは言葉を詰まらせながら言った。
「ありが……本当にありがとう。私は、とても怖くて……シオン、ありがとう……」
レインは俯く。涙を隠しているようだった。その肩を紫音は軽く撫でて、明るい声で言った。
「夕飯、出来ましたから食べましょう! 最高級の牛肉ですよ!」
「……うん。シオン、ありがとう……」
顔を上げたレインの表情は、どこか柔らかいものになっていた。
***
「いただきます」
「いただきます」
キッチンにある、少し小さめのテーブルセットにふたりは着いた。肉も白米も少し冷めていたが、レインは文句を言わずにそれらを口に運ぶ。
「お、美味しい……! シオンは料理が上手なんだね!」
「いや、俺はただ焼いただけです」
「それでも、一番、美味しいよ!」
もぐもぐと食事をするレインは、すっかり元気を取り戻したようだ。耳も、人間のものに戻っている。
レインは器用に箸を使って、キャベツの千切りを食べながら言った。
「ワインに合う味のお肉だね。どこの?」
「えっと、近所の商店街のです。確か、国産って書いてあったような……」
「なるほど……よし、料理で使うお肉はここのを使おう!」
「料理で使う?」
紫音は箸を止めて首を傾げた。
「ワインだけじゃ無くって、料理も出すんですか?」
「ああ、もちろん」
レインは胸を張って言う。
「こう見えて、私は料理にうるさいんだ。いろいろなワインに合う料理の研究もしている!」
「へ、へぇ……」
酒のつまみは、チーズや普通のスナック菓子しか思いつかない紫音だ。少し興味が湧いたので、レインに訊いてみることにした。
「たとえば、今日の夕飯にはどんなワインが合うんですか?」
「今日のメニューでは……」
レインは人差し指をぴんと立てて言う。
「ずばり、強めの赤ワインだね!」
「強め? アルコールが強いってことですか?」
「まぁ、それもあるし……酸味とタンニンのバランスってのがあって……」
「タンニン?」
「渋みの成分のことだよ」
レインはふふっと笑う。
「タンニンがしなやかで軽めのワインなんかも今日の料理に合うかも。美味しいよ?」
「そ、そうなんですね……」
強かったり軽かったり、意味がまったく分からなかったが、紫音はとりあえず頷いておいた。またレインが店をオープンした時に、詳しく教えてもらおうと思う。
「あ、そういえば、お店はいつオープンの予定なんですか?」
「ん。明日」
「明日……え? 明日ですか!?」
紫音は驚く。
今日見た時、ワインセラーは空だった。それに、ワインを注ぐグラスもまだ用意されていない。いったい、レインはどうするつもりなのか……紫音はレインを信じられないという目で見つめた。
「……ああ、驚かせてすまないね」
レインは申し訳なさそうに眉を下げる。
「シオンが買い物に出た後、ちょっと術を使って荷物をイギリスからこちらに運んだんだよ」
「じ、術!?」
「そう、妖術。魔法みたいなものだと思ってくれて良いよ。私は、物を瞬間移動させるのが得意でね……向こうで揃えておいたワインや食器類は全部お店の中にある。だから、いつでもオープン出来るんだ!」
「……」
紫音はレインとの会話を思い出していた。
荷物が少ないことを指摘した際、必要な物があれば取りに行くと言っていたことを……。あれは妖術を使うということだったのか。紫音は今になって納得した。
「……すごい技ですね」
「そんな、照れるよ」
頬をほのかに染めるレインを見て、紫音はふうと息を吐いた。今日は、非日常なことを百年分ほど経験した気がする。
「そういえば、シオンはどんなお仕事をしているの?」
「……コンビニの店員です」
「時間帯は?」
「夜が多いですね」
「ええっ!?」
レインが声を上げる。
「それじゃあ、一緒にお店に立てないじゃないか!」
「一緒にって……俺は店舗を貸すだけの人間でしょう? それにワインの知識も無いので、なんの役にも立たないですよ」
「そんなこと無いよ! ああ、一緒に働けたら幸せだと思っていたのになぁ……」
その言葉に、紫音の心臓がどきりと鳴った。
自分と一緒に居たら幸せだなんて、まるで恋人に囁く言葉のようだ。
紫音はどきどきしながら、レインを見る。
——きっと、オープン初日にひとりで切り盛りするのは不安なんだろうな……。
紫音はそう思うことにして、レインに優しく言う。
「念のために、明日は休みを取ってあるんです。初日のお手伝いなら出来ますよ」
「えっ!? 本当!?」
ぱぁっとレインの表情が明るくなる。
「それじゃあ、よろしくね。シオン!」
「はい、頑張ります」
ふたりは固く手を握り合った。
紫音は思う。
本当に、レインは不思議な「人」だと。
彼が妖狐であることは分かったが、他のことも、もっと知りたいと思った。
「明日の朝食は、私が作るね!」
「え? 良いんですか?」
「今日のお礼がしたいんだ!」
「なら、お願いします」
任せてよ、と胸を叩くレインを紫音は微笑ましい気持ちで見た。年齢が二百歳を超えているのに、レインからは老いている様子がまったく見られない。本当に、不思議だ——。
「ところで、レインさんの前職って何なんですか?」
「ああ、会社を経営していたよ。もう部下に譲ったけど。だから、そこそこお金持ちなんだ」
「えっ!?」
本当に不思議な人だ、と紫音は心の底から思った。
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