6:九インチの支援

 砂嵐の余韻がまだ残る荒野に、甲高く重低音が混じった咆哮が響いた。


 ――グオオオオオオ……!


 エレノアはスカートの裾を押さえながら、空を仰いだ。


「……今度は何が来るんですの!?」


「お嬢様、見上げてください……!」


 クレアが指差したその先――


 そこに浮かんでいたのは、かつて壁画に描かれていたスフィンクス。


「……えぇ、これって……」


「はい、“スフィンクスは猫なのか鳥なのか”と悩んでいたあの石像です」


「また厄介なものを起こしてしまったニャ……。」


 スフィンクスの瞳が金色に光り、その口が開いた。


「――汝、王墓を冒涜せし者よ……我が裁きを受けよ……!」


 魔力の波動が、音として砂漠を震わせた。


 エレノアは肩を震わせた。


「裁き!? また裁かれますの!?」


「お嬢様、逃げましょう」


「いつものようにですわね!!」


 揃って踵を返し、砂漠へ向かって全力で駆け出した。


 その背後で、スフィンクスの巨大な翼が広がる。


 風が逆巻き、空気が割れた。


 スフィンクスの前脚が光に包まれ――次の瞬間、雷撃のような魔法弾が地面に叩きつけられる。


 ズゴォォォン!!


 炸裂した爆風が砂を巻き上げ、地形すら削り取った。


「お嬢様、あれは……完全に殺しに来てます!」


「知ってますわ!! だから逃げてるんですの!!」


 エレノアの声は悲鳴と共に風に乗った。


 その時、後方から聞き慣れた声が届く。


「にゃっはー! 想像より早く追いつかれたニャ!」


 振り向けば、ニャンデルが優雅に宙を滑っていた。


「ニャンデル! あれもファラオのペットですの!?」


「そうだニャ。あれはファラオの魂に共鳴して、再起動される構造体ニャ。つまり、“復活の副作用”ニャ!」


「副作用であんなの出てくるんですの!? ふざけてますの!?」


「にゃふふ……でも本気で追ってくるなら――この距離はまずいニャ!」


 スフィンクスは追尾を開始し、砂漠の上空を滑るように追い詰めてくる。


 巨大な影がエレノアたちを覆った。


「また裁きの構えです!!」


「だから裁きという単語やめてくださいまし!! そんなに裁かれたら粉になりますわ!!」


 スフィンクスの口元が光り、二度目の魔力が収束する――。


 その時、東の地平線が、わずかに赤く染まる。


 そして――


 その朝焼けの中、金属の反射光がきらめく。


「お嬢様……あれは……!」


 砂漠の向こう、地平線の彼方から――


 巨大な蒸気機関の轟音が響き渡る。


 荒野の砂を踏み締め、装甲の巨躯がゆっくりと姿を現した。

 それはまさに、蒸気の時代が産み落とした鋼鉄の獣――大英帝国陸戦艦である。


 それはまさに、蒸気時代の戦場を這う要塞だった。


 艦首に据えられた主砲がゆっくりとスフィンクスの方向に旋回し始める。


「蒸気圧安定。主砲、目標補足完了!」


「発射準備完了……照準、良好」


 艦の上部、回転式砲塔に鎮座した二門の九インチ蒸気加圧砲が、轟然と唸り声をあげた。

 車体の奥深くでは、数十名の整備兵と砲術士が歯車とバルブの嵐の中で走り回る。


「ファイア!」


 ――ドオオオオン!!!


 その瞬間、陸戦艦の主砲塔に設置された加圧式蒸気砲が唸りを上げた。


 加圧砲塔内、鉄製のデッキに立つ砲撃手が、防護ヘルメット越しに圧力計を睨みつけていた。

 針は赤いラインに到達していた——最大加圧圧力、達成。


「──指示灯、赤!」


 艦橋からの命令信号が灯り、警告灯が艦内に瞬時に伝達された。砲撃手は両手で操作レバーを握ると、膝を沈ませて体重をかけ、一気に引き下げる。


 ゴン、と何かが深部で動いた直後、蒸気炉から過熱された圧縮蒸気が解き放たれ、機関部全体が叫び声のような振動を発した。


 黄銅製の連動歯車が火花を散らしながら回転し、強化合金の軸受けがきしみを上げ、全力稼働に入る。


 発射までのわずか数秒が、異様に長く感じられた。


 そして——


 ドォン……ッ!!!


 一瞬、すべての音が止んだ。


 その刹那、九インチ口径の加圧徹甲弾が、空気ごと弾き飛ばすような衝撃音とともに、白熱した衝撃波を引き連れて発射された。


 炮身の周囲に張り巡らされた導管が赤く光り、蒸気を爆発的に巻き上げる。

 超高圧の力に押し出された砲弾は、音速を突破し、砂漠の空を切り裂くように飛翔する。


 狙いは——空中を旋回する巨大なスフィンクス。

 その、両翼の付け根。


 スフィンクスは、空中で身体をくるりと捻り、拍動するように翼を打ち鳴らした。


 轟音とともに上昇、螺旋を描きながら回避行動を取る。


 弾道は逸れ、砲弾はスフィンクスのわずか後方を通過し、遠くの砂丘へ激突した。


 ズゴォオオンッ!!!


 砂の山が一瞬にして吹き飛び、煙と土砂が天高く舞い上がる。


「外れたッ!?」


 観測士が双眼鏡から顔を上げ、叫ぶ。


 先ほど放たれた砲撃は、スフィンクスの螺旋飛行に寸前で逸れ、命中を逃していた。


 スフィンクスの金属の羽根が太陽の下で光を反射させ、反転飛行をしながら、鋼鉄の陸戦艦へと向き直る。


「……狙いを、変えましたわね。」


「この鋼鉄の要塞が、目障りになったようです。」


「やっぱり、あれ……猫ですわね。」


「えっ?」


 クレアが振り向く。


「だって、あの身のこなし。あんな滑らかに飛ぶ石像なんて、猫以外にありえませんわ!」


「……あの、確か前にお嬢様は『あれはただの石』っておっしゃってませんでした?」


「ええ、でも見てくださいな、あれはどう考えても石ではありませんわ!」


「というより、飛んでいるから……やはり鳥じゃないですか?」


「クレア、それは短絡的ですわ!見なさいな、そこにいる浮いてる猫!」


 エレノアは、肩に乗っているニャンデルを指差した。


「ニャ?」


 当の猫は、状況を理解していないのか、無邪気に一声鳴いた。


「……あれは、例外中の例外です。」


「でも確実に“空飛ぶ猫”ですわ!」


 クレアがため息をつく中、空中ではスフィンクスがその咆哮を上げた。

 空と地を震わせるような低音――それは、単なる威嚇ではなかった。


「――砂漠よ、我が槍と化せ(ランス・オブ・ザ・デザート)!」


 その咒文と同時に、地面の砂がうねり始めた。


 無数の細かい粒子が、まるで見えない手に導かれるかのように空へと浮かび上がる。


 それらは空中で急速に圧縮され、巨石と化す。大小様々な“砂の彫刻”が、砲弾のような重量をもって陸戦艦に照準を合わせた。


「ま、まさか……!」


 エレノアは目を見開きながら叫んだ。


「これは、これはきっと……!」


「きっと……何ですか?」クレアが身構える。


 エレノアは真剣な顔で言った。


「これは……土属性の高等魔法に違いありませんわ!」


「…………。」


 一瞬、時が止まったような沈黙が流れた後、クレアが乾いた笑みを浮かべて答えた。


「……さすが、お嬢様。そこまで明白なことを、ここまで劇的に表現できるなんて。」


「ありがとう、クレア。やっぱりわたくしの観察眼は健在ですわね!」


「……皮肉です。」


 砂の魔力が凝縮された岩石が、空を切り裂きながら、まるで隕石の雨のように陸戦艦に降り注ぐ。


 それだけではなかった。


 スフィンクスはそのまま、自らが召喚した“土の盾”の裏に隠れるようにして、陸戦艦へと一気に俯衝を開始した。


 風を裂く音が鋭くなり、魔力を帯びた翼が光を放つ。


 巨槍が、音速で艦へと撃ち込まれる――


「艦長、衝撃来ます!」


「副砲、迎撃!」


 鋼鉄の巨躯が吠える。

 艦体両側の多連装副砲塔が一斉に火を噴いた。


 タタタタタ――ドカァン!!


 ――轟音とともに、岩の巨槍は空中で粉砕された。

 破片がシャワーのように降り注ぎ、周囲に砂煙を撒き散らす。


「効果あり!迎撃成功!」


 しかし……次の瞬間には、また新たな槍が生まれていた。


「まさに“魔法”というわけですわね……」


 スフィンクスは、俯衝の最中にもかかわらず、その機体を――極限まで捻っていた。左の翼を強く引き、空中で姿勢を旋回、砲弾の軌道からほんの数メートル逸れたのだ。


「やはり反応速度が桁違い……!」


 クレアが思わず声を漏らす。空中を滑るように舞うスフィンクスは、まるで獲物を弄ぶ猫のような優雅さを保ったまま、再び上昇に転じた。


「……あれが、猫……?」


 クレアが息を呑む。


 砲弾が外れたとはいえ、そのすぐ隣で爆発した砂丘が抉れた様を見て、クレアにも衝撃の余波が届いていた。


「機動性が完全に上回ってるニャ……!」


 ニャンデルもまた、珍しく真顔だった。


 しかし――


「次弾、急げ!」


 通信兵が叫ぶ中、艦内ではすでに二発目の装填が始まっていた。


 それを空中から見下ろすスフィンクス。その青白く輝く目が、鋼鉄の巨艦を睨みつけていた。


 一陣の熱風が吹き、空中に残された砂の粒子が舞い上がる。まるで戦場そのものが、命を持って呼吸しているかのようだった。


 そして、次の瞬間――


 スフィンクスが突入した。


 一度高度を取ると、今度は真上からの俯瞰飛行。その姿は、まるで神の裁きを下す死神のようだった。


「来るぞ!」


 艦長の号令と同時に、甲板が警報で赤く染まる。


 スフィンクスが口元を開いた。


 そこから放たれたのは、巨大な魔力の束――雷を伴った砂の刃だった。


 ――ズオオオオオンッ!!!


 斜め上から陸戦艦に直撃。

 甲板の一部が大きく抉れ、補給クレーンと観測装置が吹き飛ぶ。


「通信ユニット左舷損壊!」


 報告の声が走る。


「応急班、損害区域へ!――主砲、照準修正、撃て!!」


 艦長の命令が飛ぶ。

 陸戦艦の中央主砲群が再びスフィンクスの軌道を追尾する。


 その時だった。


 スフィンクスは攻撃後の硬直に入り、わずかに飛行が乱れた。


 砲撃手の眼前、圧力計の針が限界値の赤を振り切った。


「蒸気圧最大、安定!装填、完了!」


 叫んだ若き副砲手の声に、操作員が頷き、レバーへと手を掛ける。


 その背後では、別の兵が砲室の補助室で回転炉を操作していた。蒸気の核が唸りを上げ、黄銅製のパイプが悲鳴のような音を立てる。


「指示灯、赤――艦長から発射命令!」


「撃てッ!!」


 砲撃手は全身の力を込めて、両手でレバーを押し下げる。その瞬間、巨大な回転ギアが火花を散らしながら回転し、内部で蓄積された蒸気圧が一気に解放された。


 ――グアアァァン!!!


 艦内全体が軋むような衝撃に包まれ、砲口からは超高圧の火焰と共に、第二射の九インチ徹甲弾が空へと放たれた。


 音の壁を割くほどの加速力。砲弾は空中に渦巻く熱風すら引き裂き、音速を超えて飛翔した。


 二門の主砲が一斉に轟いた。


 ――ドォオォォン!!!


 命中。


 中心の弾丸が、スフィンクスの額を直撃した。


 空が震えた。


 轟音とともに、スフィンクスの頭部が一瞬にして砕け散り、その身体は回転しながら墜落する。


 ――ズズズズズ……ドォォォォォン!!!!


 スフィンクスが地表に激突し、砂塵が爆発的に舞い上がる。


「……やりましたわね」


 ニャンデルがふわりとクレアの肩に乗った。


「にゃあ〜〜……疲れたニャ……信じられないニャ」


「スフィンクスが……正面から撃ち落とされたなんて。古文書にも、戦場でも、そんな記録は一度もなかったニャ。あれは誰もが恐れて退いた存在だったはずニャ」


 その金色の瞳に映るのは、驚愕というより、畏怖に近い感情だった。


「ニャンデル……?」


「それを、真正面から撃ち抜いた……人間の兵器ニャ。もはや、あのスフィンクスと同じクラスの怪物だニャ」


「怪物ですのね」


 エレノアがスカートの裾を払いつつ、軽く息を吐いた。


「その怪物の名前は――大英帝国。今日のこれは、ほんのその氷山の一角ですわ」


 彼女の緑の瞳が、今まさに砂を踏みしめて向かってくる巨大な陸戦艦を捉えていた。


 「……そして、その怪物と、これから交渉しなくてはいけませんの」


 「……ですが、その前に、わたくしにはどうしても確認したいことがありますの」


 エレノアはそう言って、そっと目を細めた。

 その視線は――空に浮かぶ金字塔ではなく、足元にいた猫族へと向けられていた。


 「ニャンデル。わたくしたちは、当に……ネフティス様と“盟を結ぶ”ことができるのでしょうか?」


 その声音は冗談交じりではなかった。

 冗談では済まないほどに、これから彼女が背負うものは大きすぎた。


 風が、ふと止まった。


 ニャンデルがぴたりと立ち止まった。それまでの気怠そうな猫背は消え、視線はまっすぐ空に浮かぶ金字塔へと向けられていた。


 「……お嬢。ひとつ、改まって答えねばならぬことがあるニャ」


 いつもふざけた調子の彼が、こんなふうに“改まる”など――初めてのことだった。


 「我が名において、猫族議会の名において、そして……公正の女神マアトの見守る天秤のもとにおいて、誓うニャ」


 風が止まったように感じた。


 「予言は、たしかに存在する。

 “王の眠りを海賊の末裔が破りし、正しき協力者が現れ、王国に秩序と変革をもたらす”――そう記されているニャ。その協力者の名前は記されていなかった。だが、我は今、それが誰であるか確信している」


 ニャンデルは、ゆっくりとエレノアの前に頭を垂れた。


 「それが、貴女ニャ。エレノア・バブルスウェイト。

 我は、その実現のために全力を尽くすことを、ここに誓うニャ」


 エレノアは目を見開いたまま数秒沈黙し、それから深く息を吐いた。


 「……そこまで仰るなら、わたくしも、覚悟を決めますわ。この状況に“意味”があるのなら――それを探し、交渉する価値は、きっとあるはずですわ」


 「お嬢様――」


 クレアが、珍しく怒気を込めた声を出した。


 「わたしたちは、あのファラオの“ペット”に殺されかけたんですよ?

 次はファラオ本人と向き合おうと? 命がいくつあっても足りません!」


 だが、エレノアは静かに指を伸ばし、砂嵐の向こう、空に浮かぶ巨大なピラミッドを指さした。


 「……クレア。あれを目覚めさせたのは、わたくしなのです。わたくしが、あの王の夢に触れてしまった。その結果として、彼女が目覚め、スフィンクスが目を覚ました」


 その声は穏やかだったが、決して退かぬ意志を帯びていた。


 「ですから、これはわたくしの責任ですの。もし、このまま軍とネフティス様が衝突し続ければ、私たちも、彼女も、英国も――誰も得はしませんわ」


 クレアは息を呑んだ。

 ニャンデルは黙って彼女らを見守っていた。


 「だからこそ――わたくしは、交渉します。

 あの怪物と。あの女王と。そして……この時代と」


 吹き返した風が、エレノアのスカートを静かに揺らした。




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