解け落ちた氷のその行く末

01


 兄と折り合いが悪くなったのは、何がきっかけだったのだろう。


 ふと、思いついた疑問を口に出すこともできたけれど、それをする手間を面倒に感じてしまって、私はぼんやりと息を吐くだけに終わらせた。


 テレビから聞こえる喧騒のような音、何が面白いのかバラエティー番組が垂れ流されていて、それなら音楽番組のほうが耳に馴染むのではないか、そんなことを思わずにはいられない夜の時間。


 兄は、そんな番組を見ているのかどうかよくわからないけれど、それでも日本酒が注いであるコップを片手でもちながら、これまたどうでもよさそうな表情でそれを見つめている。つまらないのならチャンネルを変えればいいのに。そんな文句を呟きたくなったけれど、やはりそれもため息だけで終わらせた。


「もうそれ四杯目でしょ、今日はそれでおしまいだかんね」


 呆れながら兄にそんなことを呟いてみると、聞いていることを一応示すみたいに「あいあい」と適当に返事をした声が聞こえてくる。まあ、こんなもんだろうな、と思いながら、私は食事の終わった皿などを片付けていた。


 ……果たして、あの折り合いの悪さはいつ片付いたのだろう。


 今の、この目の前の現状を昔の私が知ればそこそこ驚くかもしれない。


 兄と普通に会話をすること、というか兄のアパートで一緒に暮らしていること。そして兄の家政婦、もしくは妻というか、なんというか、そんな風に過ごしている私を見て、過去の私はなんて言うのだろう。妥当に『嘘だぁ』と笑うかもしれない。実際、私もそう思ってしまう。


 かちゃかちゃと鳴らす皿の音が耳に障る。縦に重ねた大き目の皿のバランスを保ちながら、ようやく終わりが見えてきた洗い物に、今度は安堵のため息を吐いてみる。ため息をつきっぱなしだなぁ、とか、そんなことをぼんやりと考えながら苦笑して、少し温く感じる水に手を浸している。


 ちょうどスポンジに染みる洗剤の感触がなくなったところで、着信音が鳴る。人とは違うように合わせた私だけの、私の携帯の着信音。


 一旦、洗い物を止めてみる。水道代も嵩むから、きちんと意識して水も止めて、近場にある手拭いで手の水分をふき取る。それだけで結構な時間がとられて、これ以上電話の相手を待たせないために、画面をろくに見ないまま、私はそれをとった。


「もしもしー」


 声に少し気だるさがあるなぁ、と自分で言って思ってから、んんん、と咳ばらいをする。もしこれが職場からの連絡とかであったのならば、きちんと切り替えないといけない。


 だが、私の切り替えは特に意味がなかったようで、電話先からは聞き馴染みのある男性の震えた声が聞こえてくる。


『も、もしもし?』


 こちらを伺うような声の雰囲気。この、少し人を苦手とするようなリアクション。なんとなく、着信で表示されたであろう名前を見なくともわかってしまう。


「おっ、翔ちゃんじゃん! おひさー!」


 私が声高らかにそういうと、居間のほうからガタッと大きな音が聞こえる。そちらに視線を向ければ、ぼんやりとしていた兄の目がテレビからこちらに勢いよく向いたのを、なんとなく私は笑ってしまった。





 人にはそれぞれ価値観がある。倫理観がある。もしくは共感覚ともいえるものかもしれないし、きっとそれは違うかもしれない。


 見ている世界はみんな同じのように見えても、実際には違うらしい。前、私の友達がそんなことを言っていた、ような気がする。気がする、って言ったけど、実際に言っていなければこんなことも思い出さないだろう。


「え、えっと、紗良さんが赤色だと思っているものも、きっと私が見ると違う色に見えているかもしれないんですよ」


 私の友人こときょんちーはどこかの科学雑誌のようなものを見開きながら、物理室の脇でそんなことを呟いた。


「でも、赤色っていいながら赤色を見ているわけだから、それは赤色なんじゃないのー?」


「……説明するのが難しいですけれど、なんていうんですかね。赤色というか、まあ、青色でもいいんですけど、そういったくくりは人と共通の認識がある、ということを定義したものであって、実際に紗良さんが見ているものと、私が看ているものでは色が違う、ってこと、……なのかな?」


 きょんちーもきょんちーでよくわからないようで、科学雑誌をぺらぺらと捲りながらそんなことを話している。


「うーん、難しいなぁ……。人のDNAがそれぞれで設計されているのと同様に、眼球もそれぞれで設計されている、っていうふうに言えば伝わりますかね……、いや、でもこれはそういう話なのかなぁ……」


「よーするに、ともかくきょんちーと私とで見ているものは同じでも、なんか違うってことでいいのかな?」


「だ、だいたいそんな感じです!」


 ゴリ押すような雰囲気できょんちーは、うん! と大きな声でうなずいた後、また科学雑誌を読みふけることに夢中になっていった。何が面白いのか、私にはよくわからないけれど、これもきょんちーと私とで違うものが見えている、ということでいいのかもしれない。


 私はそういった価値観について、なんとなく昔から理解している。いや、理解している、というか、理解しようとしているというか。


 あまり頭は働かせたくないけれど、的確に私の気持ちを言い表すなら『みんな違ってみんないい』という感じだろうか。


 だから、もし目の前で普通の人がやらないことをやっていても「あー、そういう人なんだなぁ」とだけしか思わないし、何も感じない。流石に悪いことをする人がいれば、そこそこに嫌悪感を覚えるだろうけれど、まあ、多少の悪いことなんてみんなしているだろうし、私が何かを思うという義理はないだろう。みんなずるをして生活をしているのだから。


 ともかくとして、そんな価値観の中で、なんとなく面白く思った人のことを私はよく覚えている。


 それが電話先の彼、加登谷……、いや、今は高原だっけ。


 うん、高原 翔也という男だ。


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