碧海の潮風に抱かれて
白河 隼
第1話 ふいに思い出した、「久しぶり」
冬の冷たい風が吹く東京の街を歩きながら、隼(しゅん)はため息をついた。
転職を決意し、現在の仕事を辞めることが決まっている。
今勤めている外資系企業では、企業の経営・戦略支援の仕事をしてきた。さらに、仕事と両立して大学院で経営学の研究をしながらキャリアを積んでいる。業界内での評価も悪くない。
次の転職先も決まっていた。しかも、さらに年収が上がる外資系企業。今と同じ業務内容で、より待遇のいい環境でオファーを貰っている。
このまま進めば、東京で家族を持ち、子供を育てても十分な生活ができる。
物価や地価が高騰する都心でも、余裕を持って暮らしていけるだろう。
しかし——。
「本当にこれでいいのかな……?」
歩道橋の上から見下ろした先には、無数のヘッドライトが列をなしていた。
整然と流れる光の帯。だが、その整然とした景色の中に、自分が歩む人生を重ねたとき、どこか息苦しさを覚えてしまう。
安定した収入、悪くない生活。
だが、心が燃えるような何かがあるわけではなく、日々淡々と業務をこなすだけ。
このままで、自分は人生に満足できるのだろうか?
「……ちゃんと考えなきゃな」
隼は転職を機に、前職で余していた長期の有給休暇を消化していた。
ふと、静岡県の下田市のことを思い出す。
幼い頃、祖父母が営むとんかつ屋『暁亭』の奥の座敷で遊んだこと。
夏の海に飛び込んで遊んだこと。家の中に広がる豚肉を揚げる香ばしい匂いと、笑顔の絶えない親戚との時間。
「元気にしてるかな……?」
都心のビル街を見上げる。灰色の空と高層ビルがどこまでも続く。刺激的で便利な東京。
しかし、今の自分には、そこから少し離れて静かに考える時間が必要だった。
そう決めると、胸の奥にわずかだが、晴れやかな気持ちが生まれた。
「久しぶりに行ってみようか」
そう呟くと、隼はスマートフォンを取り出し、新幹線と伊豆急行の切符を予約した。
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