第22話






 周りを確認しながら気配を殺してこっそりと宿に近づく。目的の人は今はいないようだ。そのままばれないように宿の中へ入ろうと足を進め、


「何やってるんですか、セシリアさん」

「……レナ」


 あっさりと見つかってしまう。買い物帰りなのか、腕の中の籠には、みずみずしい果物や青々とした野菜が見えた。気まずい空気の中、顔を上げれば金髪の美しい少女と目があった。


 その眼は怪しいこと動きをしていたセシリアを責める眼ではなかった。その眼は幾度となく、セシリアが向けられたもので、いつも温かく優しく、セシリアの心を締め付ける眼だった。


 いたたまれなくなり、何かしたくてバスケットを持とうかと言いかけて、自分の今の状態を思い出す。未だ血まみれで薄汚れた自分が持つわけにはいかない。差し出そうとした手が宙を彷徨い、力なく項垂れた。結局セシリアから出たのは、何に対するかも分からない謝罪の言葉だった。


「すまない」


 強大な敵にならいくらでも挑めた。あのスティフベアと戦った時でさえ、恐怖で足が竦むことなどなかった。だが、その眼に射止められると、どうにも心が揺れる。先ほどのイヴァンに言われたことが脳裏を過ぎる。セシリアの歪な在り様が、咎められていた。


「……まだ何も言ってないじゃないですか」


 その響きはどこか怒っているようにも、悲しんでいるようにも、呆れたようにも聞こえた。しかし、そのどれもが間違っていた。言った本人ですら言葉に込められた気持ちを分かっていなかったのだから。


 静寂が場を支配する。宿の目の前で二人して立ち尽くす姿は傍目からは滑稽に見えただろうが、指摘するものは誰もいなかった。言葉を継げないセシリアに代わり、先に動いたのはレナだった。怪我を負っているセシリアをこのままにしておくのは忍びなく、レナが折れた形で静寂が破られる。


「とっとと中に入って体を洗ってきてください。お風呂は用意しておきましたから」

「いつもありがとう」

「……お客様ですから」


 素っ気なく、セシリアの横を過ぎていくレナ。その顔に浮かんだ表情をセシリアが見ることはなかった。







 汗とともに跳ねた泥や血を流せば、そのまま夜ご飯の時間になった。空はまだ薄っすら赤さを残しており、ディナーとしては早い時間であったが、昼は携帯食で軽くしか食べられないセシリアに合わせてのことだった。


 この頃、夜ご飯は専らレナたち母娘と一緒だ。よほどのことがなければ、セシリアは彼女らと共に食し、そこにキャメルが加わることもあった。


 セシリアにとって、レナの母の存在はありがたかった。レナと二人きりではきっと何を言えばよいか分からなかったから。よそわれるスープと柔らかそうなパンを前にして、三人で揃って食前の挨拶をする。もはや見慣れた光景であった。





 夕飯も半ばとなった頃、静かな食卓に耐えきれずセシリアは当たり障りのない質問をレナでなく、彼女の母に投げかけた。


「具合はどうですか?」

「ええ、もう大丈夫よ、って言っているのだけれどね」


 横目で自分の娘をちらりと見る母、セリカ。血色も良く、無理をしている様子もない。今日の夕飯だって、セリカが作ったものだ。だが、次第に弱っていく母の姿を見ていたレナは、スープを運ぶ手を止め、はっきりと言い放った。


「もう必死に働く必要なんてないんだから、お母さんはまだ休んでていいの」

「この子がこんな調子だから」


 セシリアがハッキツ草を取ってからもうすぐ二週間ほどになる。三日ほどで体調は落ち着き、一週間もすれば落ちていた体力も回復し切ったというのに、未だ食堂や宿を再開していないのは、心配性な娘のためだった。


 セリカもセリカでレナの強情な態度に困っているわけではなく、微笑ましくその愛を受け取っていた。レナが母の前でだけ見せる子どもらしさにセシリアも救われた気分になる。故に、続くセリカの言葉にセシリアはすぐに反応することができなかった。


「私よりも貴女の方こそ大丈夫? いつも怪我して帰ってくるから心配で」

「……」


 それこそが、セシリアとレナとの間にある壁の理由だったのだから。この二週間、怪我の大小を問わなければ、セシリアが怪我をせずに帰ってこなかった日など無かった。初めのうちこそ、レナも心配の声をかけてくれていたが、その思いを幾度も裏切っての今があった。



 ここまで歪んでしまったのは、それができてしまったからでもある。キャメルのくれた薬の効用は素晴らしく、軽い裂傷程度ならば一晩でその傷を塞いでみせた。


 流石に肉を抉るほどの怪我は一晩とはいかないが、それでも通常では考えられない速度で回復する。失った血までは取り戻せないが、そこは食事量を増やし、若さでカバーした。その高い効果が、レナにとっては裏目に出ていた。


 死地とまでは行かないが、危険な状態を何度も克服することで、強くなっている実感がセシリアにはあった。より研ぎ澄まされ洗練されていく感覚、それがあるためにセシリアも今の状態を続けてしまっていた。


「怪我しないでってもう何度も言っているのに」

「……すまない」


 きっとセシリアに言ったわけではないのだろう。ぽつりと小さく零した言葉、故にこそ重い本音があった。


 謝罪をすることしかできない自分が情けない。謝罪をして尚、在り方を変えられない自分が嫌だった。


「謝るくらいなら辞めてくださればいいのに」

「レナ!」


 レナの口を衝いて出た言葉は、これ以上なくセシリアの心を正確に抉った。娘の失礼をたしなめる母にも外方を向け、固い意思を示すレナ。その母娘の形が、セシリアに家族を思い起こさせた。


「いや、いいんです。レナの言う通りですから」

「そう……」


 これ以上自分のせいで母娘の間に溝が入らないよう口を出し、その後レナに向き直って心の内から出た言葉をそのまま口にした。


「明日は休もうと思っていたんだ。もし良ければ、レナ、この街を案内してくれないか?」


 それは今更と言えば今更で、唐突で脈絡のない申し出だった。そして、セシリアなりに、レナとちゃんと向き合うためのお願いだった。


 ドネクタに来てからというもの、街を出歩く余裕はなかった。日中は基本森に入っているし、夜も次の日のために療養し、すぐに寝るため時間はない。あの鍛冶屋に行ったのが、最後だった。だが、それも言い訳にすぎない。ただ、セシリアがレナと過ごす口実が欲しかっただけなのだから。


 沈黙が一瞬にも永遠にも感じられた。息を呑み、レナの答えを待つ。レナの表情からは何を考えているのか、セシリアには分からなかった。レナは一度目を閉じて、一つ頷いてから口を開いた。


「分かりました。それで休んでくれるのでしたら」

「ああ、ありがとう」


 セシリアの意味不明な発言に、レナは微笑み一つなく、情だけを乗せた答えを返した。そのどこまでも自分を案じている思いを受け、セシリアは複雑な思いを飲み下し、感謝の言葉だけを口にした。


 自分が口走ったおかげで、突発的に決まったレナとのお出かけ。レナとの話し合いを通じて、失ってしまった信頼を幾分か取り戻そうと、セシリアは誓った。









 滲んだ月明りの下、セシリアは今日も剣の手入れを欠かさない。剣の手入れは良い、手を動かしているときは無心になれるから。だが、今日は違った。自分の内から湧き出る問いは無視することができなかった。


 ——このままでいいのか?


 ぬるま湯の中では成長は望めない。少しでも早く強くなりたいと焦っているのかもしれない。それでも、無茶を押し通せるのならその無茶を押し通したい。無理をして強くなれるなら、その無理を願う。セシリアにとって、それは当たり前の望みだった。



 周りに心配を掛けているのは分かる。元より家族の心配を押し切って出てきたのだ。だからこそ、後戻りできないのではないか。このまま頑張れば、その心配を払拭できるのか。それとも、心配を掛けないようにすればいいのか。


 今のセシリアには、その答えは見つからなかった。


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