第3話 転

 僕とミウは、神社の裏の雑木林にいた。


 湿っぽく柔らかい腐葉土を踏みながらちらと横を歩く彼を見る。


 ミウは、また大きくなっていた。


 もう宙を飛ぶこともやめ、地に素足をつけて歩く彼は、もう僕と同じくらいの背の高さになっていた。あまりにも当たり前の顔をして歩いているので、初めから彼はこの大きさだったのではないかと錯覚しそうになる。


 背中から生えている蝶のような羽根が、ゆっくりと蠢く。


 僕はつぶやくように言った。


「ここ、勝手に入っていいのかな」


 僕は公園を訪れて早々、「ついて来て」というひと言でミウにここまで連れてこられていた。


 雑木林は昼でも薄暗く、なんだか不気味な気配がある。それに一応、境内の一部でもあるわけだし、やはり悪いことをしている感覚は拭い去れなかった。


 ミウはそんな僕を安心させるように微笑む。


「大丈夫だって、誰も来ないよこんなとこ」


「でも、神主さんに見つかったら、怒られるし……」


 ぐじぐじ言う僕の言葉には答えず、ミウは足を止めた。見ると、木々に紛れるようにして、小さな祠が足もとにあるのに気づいた。


 古ぼけて木材は黒く変色し、苔がところどころに生えている。


 こんなところにも祠があることを、僕はこのとき初めて知った。


「なんだろ、この祠……」


 ミウはおもむろに、祠の扉に手をかけた。僕は慌てて声をかける。


「ちょ、ミウ。まずいよ勝手に開けちゃ」


 僕の制止の声に、ミウは一度振り返る。


 そのとき見せた彼の表情に、僕は思わず、身体をこわばらせて息を止めた。


 彼は、これまで見たことがないほどに、口の端を限界にまで上げた笑みを、その顔に浮かべていた。


 彼は、ゆっくりと言った。


「大丈夫だよ。邪魔するやつはもういない」


 そう言って、一気に祠の扉を開け放った。


 そのとき、この場を形成する一要素が消え去ったような感覚を、僕は覚えた。


 ミウが今、僕にはわからない何かを壊した、直観的にそう思った。


 風に揺れてざわざわ鳴る木の葉の音が、耳にうるさい。じめじめと湿った空気が、肌にへばりつく。木のうろの中の暗闇の中から、誰かが覗いている気がする。


 また祠に向き直り、なにかごそごそと漁っている彼の姿に、僕は怖れに近い感情を抱いたことに、このときようやく気付いた。


 しかし、彼は友人だった。友人を怖がるなんてやっちゃいけないことだった。頭を振って気を取り直し、彼の様子を見守る。 


 しばらくしてから、彼は祠の中から手に入れたそれを僕へと差し出した。


 手に取ると、それは色あせた紙にミイラのようにぐるぐる巻きに包まれた小箱だった。


「なにこれ?」


 尋ねると、ミウは興奮した様子で言った。


「開けてみて。良いもん見せてあげるからさ」


 手のひらに乗っかるぐらいの小箱に視線を落とす。


 小箱は、紙によって厳重に封じられているように見えた。


 視線をあげると期待のまなざしでこちらを見るミウと目が合った。


 少し躊躇してから、僕は言った。


「できないよ。ぐるぐる巻きだし。これ、開けたらいけないやつじゃないの?」


 ここに来てまたも臆病さが顔を出した。


 もうご神木の柵の中に侵入したり、神主さんを鬼に見立てて遊んだりはしたが、祠の中にしまってあったものを開けるのは、それより数段悪いようなことの気がした。僕は、御守りなどの中身を、覗くことのできない性質だった。


 ミウは眉根を寄せて言う。


「なんだよ。開けるだけだよ。出来ないってことはない」


「いやだよ。そもそも、なんで僕に開けさせるんだよ。ミウが自分で開ければいいじゃないか」


 そこでミウは、勢いよく僕との距離を詰めてきて、タバコ一本分もない位置に、顔を近づけた。


 感情のない顔が、目の前にある。


 僕は心臓が縮むかのような思いをした。


 ミウは言う。


「頼んでるんだ。お願いなんだこれは。なあ、■■。お前は、ぼくの、友達なんだろ?」


「う、うん」


「なら開けてくれ。友達の頼みだ。開けるだけでいい。その後は、ぼくがやるから」


「え、えと……」


 僕は意志の弱い男だった。


 友達の頼み。その言葉に、また別の不安が首をもたげてきてしまったのだ。


 つまり、この頼みを聞かなければ、彼はもう僕の友達をやめてしまうのではないか、という懸念だった。


 彼がいなくなれば、また僕はひとりの日々に逆戻りすることになる。


 それだけは、いやだった。


 それで結局、僕は力なくうなずいた。


 とたんににっこりと笑顔に戻ったミウ。


 それを尻目に、僕は小箱の封を解いていく。白い紙を一枚一枚、丁寧に剥がしていく。玉ねぎの皮をむいている気分になりながら、ついに中身が姿を現した。


 将棋の駒が入っているような、小さな小箱だった。


「開けて」


 ここまで来ると、僕は言われるがまま動いていた。


 深く考えることもなく、その箱を開ける。パカッと軽い音が鳴り、蓋が外れた。


 そして中身を見てすぐ、ひゅっ、と喉が鳴る。


 箱の中には、何も入っていなかった。


 しかし、箱の中身は、真っ黒だった。最初、黒塗りにされているのかと思って、よく目を凝らしてみる。




『御羽口神鎮給比凶禍悉久祓比給比神威乎鎮安寧乎授氣武明妙照妙和妙荒妙尓備奉氐見明物止鏡翫物止玉射放物止弓矢打斷物止太刀馳出物止御馬御酒者瓺戸高知瓺腹滿雙氐米尓毛穎尓毛山住物者毛乃和物毛能荒物大野原尓生物者甘菜辛菜青海原尓住物者鰭廣物鰭狭物奧津海菜邊津海菜尓至萬氐尓横山之如久八物尓置所足氐奉留宇豆之幣帛乎皇神等乃御心毛明尓安幣帛乃足幣帛止平久聞食氐祟給比健備給事無之氐山川乃廣久清地尓遷出坐氐神奈我良鎮坐世止稱辭竟奉止天照能光八方乎護結界破留者悉久罰世天津神乃誓約尓従比地祇乃裁尓従比此処尓御羽口神乃鎮武事乎命止――』


 それが、箱の裏へとびっちりとすき間なく敷き詰められた漢字であることに気付いて、怖気づいたのだ。


 ほとんど読めずに意味はわからない。


 しかし、これはやはり開けてはいけないものだったのだ、という思いが、僕の心臓を激しく動かしていた。


「■■」


 ふいに名前を呼ばれ、僕は身体をびくつかせた。


 異様なほど優し気な、少年と少女が混ざったような声で、彼は僕に、した。


「■■。教えてくれるか、ぼくの名前を」


 この箱に、ミウの本当の名前が書かれているらしい。


 が、もちろん僕には、そもそも漢字が読めずどれがそれなのかわからなかった。


 しかし、なぜだか僕の口が、僕の意志に反して、勝手に動き出し、口もとを激しく痙攣させながらも、彼の名前が、読み上げられた。


「み、み、御羽口神ミウクジ……」


 それが、最後の封だったのだろう、と今になって思う。


 ざわざわと風に揺れていた木の葉の音が、ピタリとやんだ。虫の声もすべてが絶える。まるでまわりの生き物がすべて死滅したかのような痛いぐらい静寂があたりを覆った。


 その静寂の中で、その音は目立った。


 排水口が水を吸い込むようなゴボゴボという不快な音が鳴り、そのあとで、霜柱を踏みこんだときのようなパキパキという小さな音が鳴った。


 僕はミウの姿を見た。音の発生源は、彼からだった。


 僕に微笑みを浮かべたままの姿で、ミウはそこに立っていた。ミウはその姿のまま、不気味な異音を鳴り立てている。


 彼の背中から、何かが這い出そうとしているのに気づいたとき、僕は小さく悲鳴を上げた。


 同時に、中身の抜けたぬいぐるみのように、ミウの顔が萎んでしわくちゃになる。


 うるさい動悸を感じながら混乱した頭の中で、ミウが脱皮しようとしている、とふと思った。


 ミウの背中から、木の枝のような突起物が飛び出した。羽衣のような羽根を幾重にも生やした枝は、どこかにミウの蝶の羽根の面影をのこしていた。


 僕は、もう、耐えられなかった。


 あれは、もうミウではない。


 僕の友人ではない。


 あれは、化け物だった。


 僕は跳ねるように踵を返し、突っ返そうになりながらも足を回し、その場から逃げ出した。しゃにむに駆けていた。一刻も早く、あの化け物から離れなければならないと思っていた。


 背後から、サイレンのような、不気味な叫び声が聞こえる。


 ――■■!!


 それは、僕の名前を呼んでいるようにも聞こえたが、僕はわき目も振らず走り去り、二度と振り返ろうとしなかった。


 


 


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